序章「交裂点」その7

―南彦根駅付近、鳴島涼、午後十五時十二分―


豹変した奏西高の生徒は開幕早々、向かって左から大振りに横一文字の斬撃を繰り出した。


「やばっ」


駆け出していた右足で急ブレーキをかけ、滑りながらも攻撃が届かないギリギリの間合いで立ち止まりすぐに構えを取り直す。


押し出された空気に吹かれて前髪が浮き上がる。ガソリンスタンドでの一件で、セットした髪はとっくにお釈迦だったから気にする事はない。


この攻撃スピードはかなり不味い。振り出してから構え直すか、連携を繰り出してくるまでの間隔が短すぎて、自分が反撃する隙はコンマ一秒も見えない。


仮に隙があったとしても、この折れた直剣でアレの鉄みたいに硬い皮膚に対して効果的な攻撃をするのは不可能だろう。


「クッソ、どうしたもんかな……」


思考する暇もなく、次の攻撃が飛んできた。


今度は正面に向かって右下段からバツ印状に軌道をなぞる斬撃。踏み込みを挟んだ後、剣道にも技として存在している柄の末端を左手に握り締め、喉元へ突き出す片手突き。


両手で行う諸手突きよりもこっちはリーチで勝る。片手での技だから精度や威力が落ちるはずだが、この化け物の圧倒的な膂力にそんな人間の物差しは当てにならない。


間合いに余裕があった事で意表を突かれた。完全には避けきれず、看板の角が自分の額をわずかに掠め、血が流れてきた。


すぐに袖で拭って視界の妨げになるのを防ぐ。目に入りでもしたら反応が遅れて次はこの程度では済まない。死因が看板で真っ二つにされたになるのは流石に嫌だ。


体幹が崩れ、片膝をつかされたのに何故か追撃はされなかった。


様子を伺うと、逃げてばかりの自分に一撃喰らわせた事を楽しんでいるのか、ニタニタと笑みを浮かべながら、角に付着した俺の血を舌先で舐め取っていた。


「うわぁ……ばっちい、よくそんな事やるな」


一種の心理的な動揺を狙った攻撃だろうか、もしそうなら中々やる奴だ。漫画などでよく見るが、実際にやられると本当に気味が悪く、嫌でも恐怖心を煽られる。


誤魔化すように直剣を右手で水平に構え直し、開いた間合いをお互い円形に回りながら牽制し合う。


大体二メートルほどの距離を取れたが、さっきの突きがある。一度見た攻撃とはいえども相手の瞬発力の高さから回避する余裕は無い。


肝心の『作戦』は現在停止中。理由は単純で、第一目標に目の前に建っているアパートに入る事が必須となるのだけど、現在進行形でその進路を妨害されているからだ。


このまま硬直が続き、体力勝負になればジリ貧になって俺が負ける。突破口はないか周囲を見渡すと、工事現場から伸びたクレーンの先端にロープでまとめられたパレットや金属材が吊り下げられ、放置されている事に気がついた。


高さは目測で四メートル。直前に足場があれば、それを踏み台にしてあのロープを断ち切り、タイミングが合えば頭上に落とせるのではないか。


致命傷にはならなくても、時間は稼げるだろう。南彦根駅へ確実に逃げるため、奴を足止めに留まらず、「行動不能」にするのは必須。

その足掛かりに使える物は使うしかない。


(一か八かで仕掛けるか)


思い立ったが速攻で動こうとしたその時、致命的な欠点に気づいた。


クレーン下部周辺に、あの遺体があった。

落下させれば巻き添いになってしまう。


直接関係ないことだが、近づいた時に遺体は女性という事と、ある物が落ちているのに気がついた。


青い手帳、何か灰のような物で中身が覆われ、全体的に汚れてはいたものの外装としてあしらわれた金の桜型からあれは警察手帳だろう。


化け物と化した奏西高生徒に殺されたのか、はたまた自分が遭遇したような空想上の怪物に襲われたのか、それは分からない。


どっちにしろ、この非常事態でも命をかけて働いて人を死後傷つけるなど、許される事ではない。


「ダメか……」


あの遺体だけ、何とか移動させられないだろうか。クレーンより内側に寄せられれば直撃は回避させられるかも知れない。


俺は奴の攻撃で亀裂の走り、礫状に砕けた舗装路を顔面に向かって蹴り上げた。


「喰らえ!」


放射状に飛んだそれは狙い通りヒットした。

同時に、遺体へ向かって全力で走り出す。

間合いに入ってしまうが、手を伸ばして数センチ動かす一瞬の隙ぐらいは出来るはずだ。


遺体に手が届いた。後はこのまま壁際に___

「……ぞrぇに」


右手で襟元を引っ張り上げようとしたその瞬間。


「ざぁわるなぁあぁぁぁぁ!!」


耳を刺す叫び声が周囲に響いた。背中の方から自分に対するとてつもなく禍々しい憎悪と敵意を感じる。


(ミスった……やばい、死ぬ)


何らかの『地雷』を引いてしまった。遺体から手を放し、身を投げるよう回避運動を取りながら振り返ると、赤く染まった歯と眼球を張り裂けそうになるまで広げ、自分を凝視していた。


それよりも注目したのは、奴の左腕だ。


さっきまでは普通の人間の物と同じだった。

しかし、今では血を結晶化させたような暗赤色の鋭利な物質でガントレットのように覆われている。


爪部分は刃物のように延長され、振り上げられた左腕が自分の右腿を切り裂いた。


次を考えず行った全力の回避によって切断されるのは免れた、制服のスラックスがダメージ物になって薄く出血を伴う。


この程度の怪我ならまだ問題無く動ける。


痛みを堪えながら目線を向けると、左手についた爪をボリボリと噛み砕き、五本に分けるとそのまま指の隙間に挟んでそれを一斉に投げつけてきた。


「飛び道具にもなんのかよ!?」


柱に身を隠してそれらをやり過ごす。投げられた内の二本は自分を通り抜け、目の前のガラス窓に突き刺さった。


しばらく経っても足音は近づいてこなかった。


意を決して遮蔽物から身を出すと、怪物は遺体の側に居着いて再生した左手の血爪に看板を自分の方に低く構え、獣のように唸っていた。


ゾンビ映画なんかで『生前の記憶を元に行動する』通説セオリーがある、それと似たような物なのか。


よほどあの化け物と化した少年の記憶、生前?の思いに強く根付いている理由が気になるが、考察をしてる余裕なんてない。


仮に、セオリー通りならあの一度諦めたクレーンの仕掛け、やっぱり使えるかも知れない。


失敗したら銃刀法違反に死体損壊罪で牢屋入り確定、その前に殺されるけど。


この赤い空の下で現行法がどれだけ機能してるかは分からないが、あの横断歩道を渡ろうとした時、俺はもう普通の高校生の枠から離れてしまった。


命を救われ、その恩人から想いを託されといて、そう簡単には死ねない。


「ちゃんと守ってくれよな……」


俺は化け物に向かって一直線に走った。


怪物と向き合いあと三歩入れば互いの攻撃が当たる間合いに入った瞬間、右足を大きく踏み切って方向転換、勢いのまま走り切って警戒色のバーを飛び越えた。


奴は追ってきていない、現場には工具や吊り下がっている物と同じような建築資材があたりに散乱していた。


中には作業着や食べかけの弁当が見られ、数時間前にはここに人が居たのだろう。


鳴島はちょうどよく重ねて配置されていた鉄板やトタン板へ三段に助走を刻み、最後に踏み切って前方へ飛び出し、合わせて折れた直剣を左頬らへんまで振りかぶる。


勢いに委ね、体が少しずつ水平に動いて目の前にクレーンが来たタイミングで、折れた刃をロープに向かって打ち出した。


所々が欠けていからか、スパッとは切れずに刃が食い込んで、少したわんだのを千切るようにして資材を落下させた。


思わぬ力が加わり、雪崩のように鉄パイプや木板が化け物に降りかかる。


予想通り、怪物はそれらを看板と爪の二刀流で叩き落とした。時間として稼げたのは十秒程度だったが、それで充分。


「全部叩き落とすとは思ってなかったけど、やっぱ大事なんだよな?その人が」


「利用したのは申し訳ないけど、俺は…死ぬわけにはいかないんだ。」


(加藤さんのため…ってのもあるけど、これ以上人を殺させないために、お前はここで倒さなきゃいけない。だから...)


「かかってこいよ、ここで決着だ」

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