序章「交差点」その1
――二〇二四年 四月 鳴島家 〇〇時〇〇分――
目が覚めた時、少し湿ったコットンの触感に顔を埋めて俺は倒れ込んでいた。
それが自分の枕とベッドだと気づくのに時間はかからなかったが、ここに至るまで一切の記憶が曖昧。はっきりとしない意識の中、取り敢えず瞼を擦る。
この瞬間をくり抜いて、B5の原稿用紙に書き込めば、立派なミステリー小説のプロローグになりそうだ。しかし、今の自分が置かれている状況は、そんな格好の良いものではない事を理解した。
散乱した数学の参考書に途切れた計算ノート、仕上げには点けっぱなしのスタンドライト。
完全な「寝落ち」である。
確か、苦手な数学に向き合おうとページを開いたものの数十分、最初から五つ目ぐらいの演習問題で理解が及ばずフリーズしたような。
その後、一旦休憩として五分間のタイマーをかけ仮眠をとったはず。
しかし、アラームの通知音を聞いた記憶は、曖昧ではなくマジに一切無い。
机に置かれた電子時計を見ると、現在時刻は午前三時三十分。恐る恐る、隣に静止するタイマーの表示板を覗くと、そこには「00:05:00」と四時間前に自分が設定した時間がそっくりそのまま残っていた。
「押せてねぇじゃん、はぁ...」
額に手を当て溜息をつき、そのままもたれるよう椅子に座る。乗っかった自分の体重で床に触れる車輪が後ろに流れていった。それと同時に、今から何をすべきか寝ぼけた頭で考える。
当然だが、今更ペンを手に取ってこの苦行を
再開する気は無い。目線を外した窓の外は景色の見えない一切が黒黒黒。そう長くない時間で結論が出た。
「歯ぁ磨くか」
部屋の扉を開け、寝落ちでない睡眠を取っている両親を起こさないように、暗い階段を静かに下り降りる。深夜起き常習犯の自分には容易い。
洗面所のラックにかかった歯ブラシを手に取り、チューブから絞り出した辛口の歯磨き粉を毛束に乗せた。
何個かチャンネルを変えてみたが、今日は運悪くこの時間帯にやっているはずの洋画の再放送や深夜アニメは映らず放送中止の文字だけが浮かんでいた。
ない物ねだりしても仕方ないから、普段は絶対見ない通販番組を流し見する。
「多機能ボールペン………腰痛改善マットレスに……全自動卵割機!?実在したんだ…いらねぇ……」
まさかの発見に少しテンションが上がったが、値段に絶句し、電源を切った。やっぱ通販はロクなもんじゃない。
卵割るだけの機械に三万とか、どの層に向けたマーケティングなんだよ。
そう思いながら歯磨きを終え、喉が渇いていたのでコップ一杯だけ水を飲んで自室のベットに潜り込んだ。
何か大事なことを二個ほど忘れている気がしたが、それを思い出せるほど自分の頭は冴えておらず「気にしたら負け」理論で目を閉じる。
そろそろ竹刀を新しいのに替えないと。明日からは数学以外も勉強していかなきゃなあ、そんな事を考えつつ意識が遠のいていく。
最近は重なることが多く、まとまった睡眠時間を取れなくなってきた。寝落ちても途中で起きるのが大半、不安定な毎日を送っている自覚はあるが、どうもできない。
「生活リズムの乱れ」今思うにこれが失敗だったんだろうな、うん。
その日二回目の目覚めを経て、大きく欠伸をしながら睡眠の素晴らしさを噛み締める。「今日も良い日だ」なんてありがちな台詞を吐いて机の上で充電していたスマホをケーブルから切り離し、時刻を確認しようと手に取る。
机の上に置かれたノート類を片付け、コーヒー片手に母親が準備してくれているトーストを優雅にいただくとし…十三時四分?
は、嫌。そんな筈はない。
自分はどれだけ遅くてもアラームなしで平日は午前七時、土日は一時間とちょっと遅い八時半には必ず起きている。
あまりにショッキングな現実を受け入れられず、もう一度スマホを確認する。その後、机上の電子時計にも目を向けるが、どちらも正確に現在時刻を指し示していた。
全身から血の気が引いていくことに逆らうよう持ち合わせた頭脳を総動員し、失った時間を何とか取り戻そうと現在状況を分析する。高校は午前八時半からHRが始まり、授業は二十分後の八時五十分からだ。昼休憩までの四限は確定で取りこぼしている事に気絶しそうになった。
ギリギリ意識を保ち、諸々の準備をする為一階に降りた。しかし、朝食の準備はされておらずリビングには自分しか居なかった。
「何か忘れてる気がする.....」
何か大事なことを言われた記憶がある。
「……あぁ思い出した!!」
話は昨日の放課後に戻る。
「涼、いつも通りだったら明日は休みだけど、急な仕事が入ったから明日はお母さん朝からいないからね。」
あまり聞き取れなかったが、大した用でもなさそうだ、携帯を見ながら返事をする。
「えっ?あぁはいはい了解しました」
「ちゃんと聞いてた?明日は起こしに行けないから自分で携帯使ってアラームかけるなり、ちゃんと起きて準備して学校行くのよ」
「今思い出しても遅ぇよ……まじどーしよ」
取り敢えず外に出るため、ボサボサの髪をドライヤーとスプレーで整え、寝巻きから制服に着替えた後、他諸々の身支度も整えて棚のフックにかけたリュックを手に取り必要なものを投げ入れていく。
「定期に、教科書ノート、筆箱も入れた。
道着は…………今日は部活ないんだった、よしおっけ」
ドアを開ける寸前、朝食として採用できたスティックパンを咥える。十三時二十一分、鳴島涼出勤。
「とりあえず駅まで走るか」
イヤホンでいい感じのBGMを流しつつ、家の前で軽くウォームアップを済ませて、軽く姿勢を低くして構える。
「よーい、どん!」
右足でアスファルトを蹴り出し、走り始める。背負ったリュックが揺れて面倒に感じたのを肩紐についたバックルで固定し、更に加速させていく。
このペースで走り続ければ十四時八分の電車にギリ、間に合うはず。家から駅までは大体十五分ぐらい。帰りによく寄り道するゲーセンがある
デカいショッピングセンターの前に広がった歩道をまっすぐ進む、簡単な道のり。
もう家が見えなくなる所まで来れた。牧場ライフで育った自分は、今みたいにスマホや携帯ゲーム機も持っていなかった。小学校が終わってからの楽しみというと、祖父母の農業を手伝う事や、友人と平原を走り回る事ぐらい。
ここに越してきてからも、偶に近所をランニングしている。その甲斐あって、同い年の中でも体力には自信がある方だと思う。
今思い返すと本当に、不便な毎日だった。今となっては再現性のない、唯一無二の大切な思い出。
次はいつ帰れるのか、なんてことを信号が赤から青になるタイミングを未測りながら、ぼんやり考えていると、ピヨピヨと音が鳴る。
横一列に並んだ人たちが一斉に歩み始め自分もそれに続こうと右足を前に出す。ふと空を見上げてみると雲ひとつない一面の青空が広がっていた。
倉戸や真田は「空が赤く見える」なんて事を言っていたが、幻だったな。
確かにここ三週間前ぐらいまでは、本当にちょっっとだけ。そんな風にも見えていたけど、今やそんな不穏も消え去った今までにない、晴れやかな青が空には広がっている。
この空があのど田舎とここを繋ぐ共通点だと思うと、嬉しいような、寂しような、不思議な気持ちになる。
たった数秒に、過去最大の遅刻をやらかした緊急事態で、ここまで感傷に浸れるとは。
思考を切り替え、一秒でも早く駅に向かうため足早に横断歩道を渡っていると突然、イヤホンの音楽を貫通する程の地響きのような轟音と地震に襲われた。
足元の揺れは増大していき、バランスを保つのがやっとの状態に悪化した。
「!何だこれ!?」
周囲の人も慌てている事から、これが自分の妄想ではなく現実に起きている事と理解する。
「危ない!!」
揺れによって持ち上げられた原付が近くにいた社会人風のお兄さんに飛んで来た。寸前のところで、一緒に倒れ込み回避する。
原付はそのまま電柱に激突して金属部が大きくひしゃげた。動揺でおかしくなりそうな頭を必死に落ち着かせ、周囲を見渡し他にも飛んできそうなものがないか確認する。
可能性を考えるとキリがない、ここにいるとまずいと思い、一旦近くにあったガソリンスタンドの休憩室へ先導し、その場にいた全員で避難する。
「こっちです、早く!」
全員が室内に入ったとほぼ同時に揺れは一先ず収まったようだ。全員が安堵し皆口々に今の状況に対して言葉を挙げていく。
「何がどうなってるんだ、地震?」
「地震ならスマホで通知が来てるはず……え、なにこれ…?」
「『原因不明の強い地震が発生中』って……?こんなのいままで見た事ないし、この地図、殆ど真っ赤何だけど……」
「一体なにがどうなってるんだよ!!」
「知らないわよ私に聞かないで!」
部屋の中を男女の言い争う声が響く。
仲裁のため鳴島が口を開いた。
「落ち着いてくださいよ!今、ここに居る人たちで言い争っても意味なんかないじゃないですか」
……口論は収まる気配がない、どうするべきか困っていると、自分の横から声が聞こえた。
「この子の言う通りだ、全員怪我なく生きてる。今はそれだけで十分だろう」
高校生の一言では何も変わらなかった場の勢いが、さっきのお兄さんの手助けもあってか収まり始めて皆冷静になっていく。声を荒げていた女性は、ばつが悪そうに目を伏しつつ、乱れた髪を整え、軽く会釈した。
しかし、その仮初に装った冷静は、一瞬で崩壊した。
「嫌、嘘でしょ……何あれ………?」
さっきの口喧嘩で紅潮していたはずの女性の顔がいつの間にか青ざめ、体も震えている。その震えた指先が向けられた窓に目線を動かすと、
「……!」数秒前まで深い青色に広がっていた空が、真っ赤に染まっていた。
部活終わりのあの夜に見た「少し赤っぽい」なんてものではない。水に溶かさず、原色で塗りつぶしたかの様な鮮明な赤が不気味に視界を覆っていた。
それは「空は青色」という世界の常識が別の何かに入れ替わってしまったかの様に感じる。
その場にいた全員が、目の前に広がった光景に言葉を失っているところ向かいのドアが開いた。
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