第8話 治癒院『慈愛の館』

 翌朝、リオンは清々しい気分でハートフォードの街を歩いていた。

 昨日までとは明らかに違う感覚がある。足取りが軽やかで、呼吸も深い。街並みに差し込む朝日が、これまでよりもずっと暖かく感じられた。


(本当に変わったんだな……)


 自分でも驚くほどの変化だった。

 昨日まで肩にのしかかっていた重い不安の塊が、すっと軽くなっている。まだ完全に消えたわけではないが、希望という新しい感情がそれを押し退けていた。

 あれほど重苦しかった世界の有り様は変わった。

 この朝日のように、清々しく美しい。

 ――まるで世界そのものが、リオンを歓迎してくれているかのようだった。


(……我ながら、単純な……)


 そんなふうに苦笑したくなるけど、笑って誤魔化したりはしない。


 ―――あなたは、あなた自身を信じてください。


 ミアとそう約束したから。

 自分には、自分の変化を信じる義務がある。

 宿屋を出て向かった先は、もちろんハートフォードの冒険者ギルドだ。ギルドの受付に向かうと、そこには馴染みのある赤い髪の職員がいた。


「おはようございます、リオンさん」


 ミアの笑顔が、朝日に負けないくらい輝いて見える。


「おはようございます、ミアさん。今日もよろしくお願いします」


「こちらこそ。……あら、今日はなんだか雰囲気が違いますね」


 ミアが小首をかしげる。その観察眼の鋭さに、リオンは苦笑した。


「そうですね、なんだか、ちょっと浮かれています」


 正直な言葉に、ニアも相合を崩した。


「いいんじゃないですか? 思う存分、浮かれちゃってください」


 ミアがにこやかな表情のまま続ける。


「色々と考えていたんですよ、リオンさんの可能性をどう伸ばそうかって。リオンさんはどんな技術を磨きたいんですか?」


 ――なんでも選べるから、なんでもなれる。

 それは魅力的な言葉だけど、何かを選び取る必要はある。少なくとも、優先順位をつける必要がある。

 だけど、リオンが迷うことはなかった。


「まずは冒険者としてのスキルを身につけたいです」


 それが、リオンの根源にあるものだから。

 そして、『蒼き翼』で刻まれた烙印を削ぐ唯一の手段でもある。

(僕は、何者かになれることを証明したい)


 リオンの言葉をミアは大きく頷いて受け入れたが、口にしたのは別の言葉だった。


「リオンさんがそう思われるのは当然でしょう――ですけど……私としては、まず『リオンさんの学習能力の高さ』がどれほどかを知るべきと感じています」


「僕の、学習能力……?」


「はい。おっしゃっていましたよね? 荷物運びも薬草に鑑定も以前、経験があったからできた、と」


「はい」


「なので、今度は経験がなさそうなものをしてみるのはどうでしょう。それでリオンさんが何をどう学ぶのか――そこに私は興味があります」


「……僕も、あります」


 万能職の可能性は、どれほどのものなのか。

 リオン自身も知りたくて仕方がない。


「はい。ただ、これには欠点がありまして――」


 困ったように首を傾げながら、ミアが続けた。


「リオンさんが全く学習していない分野を提案しますから、冒険者としての目標からは遠くなります。雑用の仕事となりますが……?」


 昨日までのリオンなら当然の提案だろう。

 だけど、今や龍を目指す資格を得たリオンには心苦しいに違いない。


「受けます」


 リオンはあっさりと応じることにした。

 ミアが『リオンにとっての最善』を考えてくれたのだ。ならば、それを信じるのがリオンのするべきことだ。


「よかったです。リオンさんにはまず多種多様な経験を積んでいただくのが一番だと思っていたんです」


 ミアは引き出しから、すでに選んでいたであろう依頼書を差し出した。


「こちら、街の治癒院での院内雑用はいかがでしょう。雑用ではありますが、先生の診療を観察する機会もあります。様々な技術を観察できる機会も多いでしょう」


「治癒院ですね、わかりました」


 リオンはかなり乗り気だ。

 病気や怪我に関することの知識など、あって困ることはない。ミアはそこまで考えて、この仕事を提案してくれたのだろう。


「『慈愛の館』という街で有力な治癒院です。院長のウィルバー先生は、この街の医療を支えておられる名医なんですよ」


 ミアの説明に、リオンは頷いた。


「大丈夫です」


「頑張ってくださいね」 


 リオンはギルドを出て、『慈愛の館』を目指した。ハートフォード東区の住宅街にある清潔な白い石造建築だ。

 昼休憩の時間に訪れると、痩せ気味の老医師が出迎えてくれた。

 依頼書を見せると、優しげな笑顔を浮かべる。


「おう、これはありがたいのう。実は雑用係の子が急に故郷に帰ってな、人手が足りていなかったんじゃよ」


 そう言って、手を差し出してくれた。


「私はウィルバーだ」


「リオンです。頑張ります!」


「ほほほ、元気で良いな。ま、ミアさんからの紹介なら間違いないだろう」


 依頼書に書かれた、ミアさんのサインを見て、ウィルバーがそう言った。


「お知り合いなんですか?」


「看板を掲げる商売をしていれば、冒険者ギルドとはそれなりに付き合いができる。すると、優秀な仲介人にも敏感になるのだよ」


 ミアが褒められているのは、リオンにとっても気分が良かった。


「じゃが、リオン君。本当に、こんな仕事でいいのかね?」


「はい?」


「患者さんの案内や荷物運び、掃除などの基本的な雑用をお任せするが……正直、若い君にとって、魅力的かと言われると――申し訳ない気持ちになる」


「気にしないでください。全力で取り組みますから」


 どんなことからでも何かを学び取る――それが今のリオンの姿勢だ。

 だけど、仕事に対して妥協しないのは昔からの性分だ。

 リオンが即答すると、ウィルバーは満足そうに頷いた。


「よし、では、サンバーさん。彼に仕事を教えてやってくれ」


 横で話を聞いていた中年の女性看護師が首肯する。


 ――こうして、リオンの新しい仕事が始まった。


 治癒院での最初の数日間は、文字通り雑用の連続だった。

 患者の案内、診療室の掃除、薬草の整理、単純な器具の手入れ――どれも地味な作業ばかりだったが、リオンは嫌になることがなかった。

 雑務に追われながらも、ウィルバーの診療を目で追う時間はある。その様子を見ながら、リオンは感嘆することしきりだった。


(すごいな……)


 どうやら、ウィルバーはこの地域でかなりの信任を得ている医師のようだ。ぞろぞろとすごい勢いで患者がやってくるが、それをテキパキと素早い診療で処置していく。いずれも的確で、手際も良い。


 そこには目を見張るほどに素晴らしい技術がある。


 眺めるだけで、いや、同じ空間に立ち、その話を聞いているだけで、濃密な情報がリオンの中に入り込んでくる。まるで乾いた土に水が染み込むように、観察した技術が体の奥深くに刻まれていく。

 その実感が、ある――


(今、僕は何かを学んでいる……?)


 ただの思い込みではないのかと不安になってしまう。

 今まで、こんなことは意識したことがなかったのに。

 意識が変わっただけ?

 ミアに意識の方向を変えてもらっただけで、こんなにも変わるものなのか?

 自分でも受け入れ難いけど、それが事実なのだろう。

 意識を変えれば、世界が変わる――

 変わりゆく世界の速度に、リオンは背筋の寒さと高揚を同時に覚えた。


 四日目の午後――

 その日もまた、リオンは診療室で整理をしながら、ウィルバーの治療にさりげなく視線を向けていた。


「この薬草を煎じて、朝夕二回飲むんじゃ。熱は三日もすれば下がるじゃろう」


「ありがとうございます、先生」


 患者が感謝を込めて頭を下げて去っていく。

 患者の症状も、なぜその薬草を提示したのかも、全ての理由が道理となって脳裏に浮かび上がる。

 その小さな事実にリオンは内心で興奮してしまった。


「ほっほっほ、リオン君。どうした、目をぎらつかせて」


「え、目!? ご迷惑でしたか!?」


 思わず顔を両手で覆ってしまう。そんなふうに気取られないよう、さりげなくしていたつもりだったのに……顔が赤くなってしまう。


「いやいや、そう変な意味ではない。君の真剣さが伝わってくる――良い眼差しという意味じゃよ」


「……ありがとうございます」


「むしろ嬉しいよ。どんな仕事であっても、今の自分に関係なくとも、何かを吸収しようという姿勢は素晴らしい。その心持ちは大事にしなさい」


 背筋が伸びるような気持ちだった。


「はい!」


「うんうん。この経験が君の未来に役立つことを祈っておるよ」 


 新たなる仕事の終わりはすぐにやってきた。

 働き始めてから10日目、正式な雑用係の人が採用となった。その人物が翌日から来るので――


「ありがとう、リオン君。君が来てくれて助かったよ。私としては君を正式採用したかったのだけどね」


 少し前までのリオンなら、甘えたくなる言葉だ。

 だけど、今のリオンは違う。

 リオンには見据えるべき未来があるからだ。


「ありがとうございます。最後までしっかり働きます」


 いつも通り、手を抜くことなくリオンは忙しく働き、ようやく治癒院を閉じる時間が訪れた。すでにウィルバーは近くの自宅に帰宅済みで、看護師のサンバーと共に後片付けをしていた。

 そのとき、閉ざしていた治癒院の入口が激しく叩かれた。

叩かれた。


『すみません! 誰かいませんか!』

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