第16話 献上品

 次に美弦が目覚めたのは気持ちの良い朝だった。寝たまま伸びをしてから、ベッドを出る。カーテンを開けて朝日を浴びて深呼吸した。壁の時計を見ると、いつもの起床時間だ。疲労も残っていないので登校できそうだと思って、身支度をした。階段を降りながら、ゆるやかにカーブした手すりのひんやりつるりとした感触を楽しむ。

 食堂の入口で、ちょうど入れ違いに出てくるところだった在智と鉢合わせた。


「やあ、美弦さん。もう起きて大丈夫なのかい」


 在智は美弦の姿を見るなり破顔する。

 彼の顔色が悪いことはいつもと変わらないのに、表情が明るいだけでこんなにも生き生きとするものかと、美弦は驚いた。


「はい、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。この通り元気になりましたので、今日は学校へ参ります」

「いやいやいや、今日一日くらいはゆっくり休みなさい」

「でもお勉強が……」

「勉学の遅れが心配なら家庭教師をつけよう」

「家庭教師? そんな、私などに勿体ないことです。大丈夫です、私、自分で行けますから」


 かたくなに平常の生活に戻ろうとする美弦を、在智はどうにか休ませようとする。


「縁もゆかりもない初見の異国のあやかしを御霊の力を借りずに平癒させるなんていう、とんでもないことを君はやってのけたんだ。心身に影響ないはずがない」

「そう……なんでしょうか……」

「では、これならどうだ」在智は一つの提案をする。「あのままニンフが死んでいたら、七枝ななさや家の立場が悪くなるところだった。妖犬の主がうちの兄だったからね。その窮地を君が救ってくれたんだ。褒美を取らせよう」

「ご褒美、ですか」

「僕といっしょに滋養のあるものを食べに行こう。だから今日は自主休講だ」


 さも当然であるかのように在智がきっぱりと言い切るものだから、美弦は思わずぷっと吹き出してしまった。


「わかりました。ありがたくお受けいたしますわ」


 食堂の入口で立ったまま話し込んでいた二人の元へ、執事がやってきた。執事は在智に声を掛ける。


「ぼっちゃま、そろそろ夜文よるふみ様がおいでになる時間です」

「わかった。用意するよ。では美弦さん、午後、遅めの昼食を外でとりましょう」


 足早に去る在智を見送って、美弦は食堂に入った。今日も焼き立てのパンの香りが漂っている。一人で食卓につくことを寂しく思いながら、かたわらの淡婆あわばあに声をかけた。


「ねえ、淡婆。日中、在智様はどんなことをなさっているのですか」


 学校が半ドンであっても、自ら車を運転して迎えにくる在智がいったいどのように過ごしているのか、美弦には不思議でならなかった。当人に直接尋ねても「特に何も」という答えしか返ってこないのだ。


「特に何もなさっていませんよ」

「本当に?」

「日課と言えば毒をお召しになることでしょうか。他は好きに過ごされています」


(無職というのは本当なのね。いくら七枝ななさやの本家筋とはいえ打出の小槌を持っているわけでもないでしょうし、何で生計を立てているのしら)


 しかし仮初めとはいえ妻の自分が、それを使用人に尋ねるのも気が引ける。


(でもよく考えたら、私、お父様のお勤め先は知っていても具体的にどのような業務をされているかまでは知らないわ。だからきっと、お仕事についてはあまり立ち入って詮索するものではないわね)


 半ば無理矢理に納得する理由をつけて、美弦は疑問を飲み込んだ。

 朝食を終えて廊下に出ると、玄関に夜文よるふみの姿があった。


「おはようございます、夜文様」


 夜文の方は無言で軽く頭を下げた。黒檀の供物台を手に持って、一階の北の間へと向かうようだ。

 美弦は思い切って尋ねてみた。


「あ、あのう、在智様と何かなさるのですか?」

「仮にも奥方なのであれば、ご主人に直接お聞きになられては」


 冷たく言い放って夜文は去っていった。

 美弦はそのまま、玄関ホールに立ち尽くす。使用人が通りかかっては何かご入用ですかなどと声をかけるが、それを丁寧に断りながら、美弦はただひたすら待った。

 吹き抜けの二階の窓から夏の初めの光が降り注ぎ、暑いくらいだ。

 三十分ほど経った頃、北の間から在智と夜文が連れ立って戻ってきた。なごやかに談笑している。


(夜文様もあんなふうに笑うこと、あるのね)


 まず夜文の微笑みに惹きつけられた美弦の視線は、次に夜文の手元に移った。彼が両手で持つ供物台には、鮮やかな朱色の巾着が載っている。美弦はその巾着に見覚えがあった。

 視線に気付いた夜文は、いつものように無表情になる。そして珍しく彼の方から美弦に声をかけた。


「ずっとここで待っていたのですか」

「ええ。もっと知りたくて」


 本人を眼の前にして「在智様のことを」と言うのは恥ずかしく、美弦は短く答えた。


「知るって何をだい?」


 先程の二人のやり取りを知らない在智が尋ねたが、どちらも答えない。

 それよりも美弦は、巾着の口をくくる組み紐のことが気になっている。


「その巾着から姉のまじないを感じます。御即位のお祝いに献上したものとそっくりです」

「なるほど君の姉上が。たぶんこれは『そっくり』ではなくて『そのもの』だね」


 美弦の疑問に答えたのは在智の方だった。


 六年前、今上帝の即位に際して、玖巳くみ家が献上した品の中にこれがあった。玖巳の本家や分家で特にまじないに秀でた者たちが、護りをこめた組み紐や織物をこしらえたのだ。まだ若い娘だった雲母きららのまじないが献納に値するほど優れたものだということに、当時の美弦は憧れたり羨んだりした。

 癒しのまじないも陛下に献上したいと美弦は思ったが、癒すということは裏を返せば何か具合の悪いところがあるということになる。祝いの品としてふさわしくないとして却下されたのだった。


「なぜ姉の作ったものがここに」

「この袋の中に僕の髪を納めて帝に献上するのだよ。組み紐には非常に堅固な護りのまじないがこめられている。毒が外に漏れ出さないように、いつもこの袋を使うのさ」

「御髪を献上するのですか」

「この袋に入れた髪は、御所の御簾に織り込まれる。今、切ってきたんだ」


 美弦は在智の頭をじっと見た。髪型の変わったところがわからない。


「切ったのはほんの一束だよ」


 夜文は袋を載せた供物台をうやうやしく携えて、館を出ていった。すぐに御所へ向かうのだという。

 その後ろ姿を見送って、ふと美弦は思いついて在智に尋ねてみる。


「御髪の対価で生活されているのでしょうか」

「まあ、そう言われればそう言えなくもないかな。僕の体は生きているだけで価値があるんだそうだ」


 髪を売るという行為にさもしさを感じると同時に、それを御所に納めると聞くと畏れ多い。


(在智様の生活がわかったような、わからないような。変な感じだわ。私、在智様のことを何も知らないのね)


 何か、美弦を突き動かす衝動があった。


「あのう、在智様」

「なんだい」

「私、在智様のことをもっと知りたいです」


 在智はぽかんとした顔で、美弦を見つめた。

 言った美弦の方は、一呼吸おいてからいたたまれなくなって後ずさる。恥ずかしさが極まると涙が湧き出てしまうということを、美弦はこの時初めて知った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る