第3話 三度目の正直
料理の得意な房子は、夕飯の支度を女中に任せない。娘とともに台所に立つのを毎日の楽しみにしていた。残念な報せがあった今日も、いつもと同じように台所に並んで、炊事をした。
「あなたは健やかで頑丈な体を持っているのですから、ちゃんと貰い手は見つかりますよ」
「そうでしょうか……」
「子どもの頃、とってもお転婆で、高いところから落ちてもかすり傷で済んでいたような子ですもの」
(私、何度も骨折してるのに、お母さまったら気付いてないのよね)
美弦は物心ついた頃にはまじないで自分の体を治癒していた。そのことに周りの大人は気付いていなかったので、家族や教師からは頑健な娘という評価をされている。本当はそんなことはなく、人並みの強度の肉体だというのに。
美弦は肉付きが薄い。背も低い方だ。そんなみすぼらしい見た目も、自分に貰い手のつかない要因なのだろうと、美弦は思っている。
そんな美弦の思いをよそに、母の房子は前向きだ。
「何といっても、美弦ちゃんはまだ十六ですからね。まだまだ大丈夫よ。ね、あなたもそう思いますでしょう?」
食卓で、房子は夫の
清は、娘の美弦が帰宅してから一度も言葉を発していない。夕飯時も、黙りこくっていた。食べ終えても家長が席を立たないので、誰もそこを離れられなかった。いつもであれば、家族全員で小さな洋間へ移って、彼ご自慢の舶来のシェードを飾った電灯の下で団らんの時間を過ごす。
いたたまれなくなった美弦は座布団から降りて体を折り曲げ、深く頭を下げた。
「お父様。一度ならず二度もご縁をつなぐことができず、申し訳ありません」
清は娘の謝罪については特に何も言わず、立ち上がる。
「こちらへ来なさい」
妻と娘を引き連れて、清は書斎へと移動した。清は勤め人だし、それほど書物を持っているわけでもないので、書斎といってもがらんとした部屋だ。
房子が、人数分の座布団を出してきた。
部屋の中央の文机を挟んで、両親と美弦が向き合って座る。
座ってからもしばらく清は黙っていた。何度か口を開きかけるが、なかなか言葉が出ない。
(こんなお父様、初めてだわ。どうしましょう。よっぽど私の将来の見込みが立たないのね。もしかしたら私、どこかへ奉公に出されるのかしら……)
美弦が気をもんでいると、ようやく清は話を始めた。
「美弦、実はな、駒込の男爵家から縁談をいただいた直後にな、もう一つ、別のお話があったんだ」
「そうだったのですか」
まったく知らないことだったので、美弦は素っ頓狂な声を上げてしまった。
清は険しい顔で続ける。
「先に男爵家と話を進めていたから、正直にそのことを申し上げたところ、先方は待つとおっしゃっていてな」
ありがたい話のはずなのに渋い表情をする父親の様子に、美弦は不安を募らせた。
清は少し唇を湿らせる仕草をしてから、次の言葉を発する。
「美弦、
「えっ……、は、はい、覚えて、おります」
突然、別の家名が飛び出したので、美弦は激しく動揺した。六歳の頃、上の姉の結婚式で美弦が巻き起こした大失態の相手だ。
「
「え……、え?」
「すぐにでも、お前を迎えたいとおっしゃっている」
「でも……」
「
(そうよ。
美弦は戸惑いながらもうなずいて、父の話の先をうながした。
「
「ご長男が家督を継がれるのでは」
「何事もなければな。しかし先方には事情があって、すぐには決まらない。さしあたって、
「失礼ながら、末弟であられる
「他家の内情だ。わしが語れることはない」
美弦は困り果てて母親の方を見た。それを受けて、これまで黙っていた房子が口を開く。
「美弦ちゃん、七枝家からお声がかかるなんて、喜ばしいことですよ」
房子は、家格のことを言っている。
この九つは、古来より帝に仕える呪術士の家系で、かつて九氏と言われた。三の丸家と八朶家は断絶し、今は七氏と呼ばれている。それぞれの家名に含まれる数詞が示す通りの序列で、元徳院が頂点、玖巳家が末席となる。
華族のもとへ嫁いだ二人の姉ほどではないにしろ、格上の七枝家であるのだから良い縁組だ。
房子は、少し浮ついた声で問う。
「在智様は帝大をお出になったのでしょう。さぞ立派な青年におなりで。あなた、在智様のお写真はありまして?」
「写真はない」
「あ、あら、まあ、そうですか」
「だがな。七枝家の葬儀で在智様にお会いしたが、すさまじいまでの美丈夫だったよ。後にも先にもあのような見事なお姿を見たことはない」
「あらあらまあまあ、美弦ちゃん、良かったわね」
房子は、自分のことのように喜んでいる。
しかし美弦は、あまりにも突然に降って湧いた縁談に、疑心暗鬼になっていた。
(お父様の言葉は嘘くさいわね。そんなに美しいのなら、写真の一枚や二枚、撮っているものでしょうに。それなのに見合いの写真を寄越さないなんておかしいわよ。お父様、私をその気にさせようとして大げさに讃えているに違いないわ)
次は美弦が問うてみる。
「在智様は、どのようなお仕事をなさっているのでしょうか」
七氏の中でも攻撃的な呪術を得意とする七枝家は、軍事関連の職に就く例が多い。それを念頭においた美弦の問いだったが、清の答えは短いものだった。
「在智様はな、無職なんだ」
房子は、まあそういうこともあるかしら、というような何とも言えぬぼんやりとした相槌を打った。
美弦は、焦った。
(私、
「美弦、おまえが断れる立場にないことは、わかっているな」
美弦が抗議の言葉を探して逡巡しているうちに、清は娘の口答えを封じてしまった。
この夜、これ以上の父娘の会話はなく、美弦はもんもんとした気持ちを抱えながら眠ることとなった。
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