4 白いキャンバス
天気には恵まれたけれど、気温は十度に満たないクリスマスイブの日。和心は待ち合わせのバス停へと急いだ。ジーパン(2)の上は、とっくり(3)にジャンパー。足元は少し疲れ気味のスポーツシューズを履いていた。和心は、待ち合わせ場所で両手をポケットに突っ込み、時折つま先立ちの上下運動をしながら待っていた。
十時到着予定のバスの姿を遠くに捉えた。バスはその巨体を揺らしながら、バス停へと近づいてきた。バスは、和心のいるバス停の降車場ポイントに計ったかのようなタイミングでピタリと止まった。どうだ! と言わんばかりにプシュー……と、長めの息を吐き出した。前の扉が開き、満面の笑顔で皐月が手を振りながら降りてきた。白いコートと白いマフラー、白いニット帽に花柄のポシェットを肩から下げた皐月を間近に見て、和心はどう反応して良いか分からず、直立不動のままバスから降り立つ皐月を待った。気づいたら、ポケットに突っ込んだ手の平を握ったり広げたりしていた。
「寒い中、すみません。今日はありがとうございます」
「あれ? 夢咲さんは?」
「それがですね、出掛ける直前になって電話がありまして……昨日から風邪気味で、今日は発熱してるとのことで……なので、残念だけど、今日は出掛けられないとのことでした。先輩にはごめんなさい、との伝言でした」
「そうだったんだ……」
「先輩のアパートに電話を、とも思いましたが電話番号を知らなかったので、どうするか相談ができませんでした。ごめんなさい……」
「謝らないでください。突然のことですから……」
皐月は頷いてから、
「なので、今日は私一人で来ました……それでも、良かったですか?」
と言うと、和心は
「うっ、うん!……」
と頷いたものの、バスが来る前の寒さが恋しくなるくらい身体が熱く感じていた。
「僕と二人きりだと、何だかデートみたいだけど、皐月さんは大丈夫? 僕なんかで……」
「あっ、勿論大丈夫です……」
「ははは……とは言っても、僕なんかこんな格好だから、一緒に歩いていてもデートには見えないかもね……」
自虐的に笑う和心を見て、皐月は気持ちを抑えられずに言った。
「そんなことはありません! 格好なんてつけない、ありのままの先輩が一番だと思います! 『なんか、なんか』と繰り返さないでください……」
「……あっ、うん。ごめん……」
「謝らないでください……ふふ、お返しです」
互いに微笑みながらも微妙な空気が流れる中、和心は正直に自分の気持ちを話した。
「……実を言うとね、僕は今まで女の子と二人だけで街ブラなんてしたことないし、付き合った経験もないんだ……」
「……」
「……だから本当のこと言うと、頭の中が真っ白になってる……」
「先輩、私も男の人と二人っきりで街ブラなんてしたことなんてありませんよ……」
そして皐月は、少し考えてから言った。
「……なので、私もそうですがその真っ白なキャンバスに、私と色を塗ってみませんか?」
色、か……和心は、頷いた。
とりあえず、本屋なんてどう? ということで、本屋に向かって二人は歩き始めた。
学生街から商店街へと移動すると、あちらこちらからクリスマスソングが微かに流れてくる。
「先輩……先輩のクリスマスの思い出って、どんなことですか?」
「う〜ん、家族で一緒にケーキを食べたことくらいかなぁ〜あまり人と交わって、というのは苦手だから……皐月さんは?」
「私は、友だちと集まって……あっ、勿論女性だけですよ。で、ケーキを食べたり、お喋りしたり、プレゼントの交換をしたり……でしたね」
「皐月さんを見てると、わかるような気がする。きっと、皐月さんのお友だちも楽しい時間を過ごしていたと思うな……」
「そうかな〜。でも、ありがとうございます。そう言って頂けると、嬉しいです。凄く……」
「だから、僕にとって今日は、そのお友だちと同じで、ビックリ、ワクワクです……こちらこそ、ありがとう」
皐月と話していると、何故か肩の力が抜けて、不思議と饒舌になる自分に気付かされる。何でだろうなと思いながら歩いていると、何組かのアベック(4)とすれ違った。和心は、何故だかすれ違う度に恥ずかしくなり、その都度俯いてしまっていた。皐月は、和心の様子をチラリと見ては僅かに口角を上げ、アベックたちとすれ違っていた。
本屋さんの看板が、やっと見えてきた……と思うと、何故か和心の歩調は速くなっていた。
「あのぅ、先輩!」
その声でハッと我に返った。
「あっ、ごめん! つい……」
皐月は笑いながら、
「あっ、先輩。また謝りましたね〜」
と、半分からかうように言った。そして、歩くペースを落とした和心に訊いた。
「すれ違ったアベックの人たちに私たちって、どう見えてるんでしょうね?」
「……そうだなぁ……やっぱりアベック……かな? サッサと歩いてるから喧嘩したアベック……とか? まさか、『キャンバスの色塗り』アベックなんて、思ってはいないよね」
皐月の表情は、微笑みから笑いへと変わった。
和心は、笑いを堪えながらも本屋入口の取手を引き、皐月を店内へと誘った。
店内は昨年同様クリスマスイブとあって、ツリーにはオーナメントが装飾され、クリスマス音楽が静かに流れていた。皐月は、見てみたいと言う料理本コーナーへ行ったので、和心はツリーのそばに並べられている『一九七五年に読まれたベスト本』を眺めていた。その時、『きよしこの夜』のクリスマスソングが、美しい女性合唱曲で流れ出した。ふと、ツリーへと視線を移すとイルミネーションライトの点滅に、オーナメントボールがリズミカルに光を受け返していた。何だか……胸がモヤッとする……。トップスターにブルーのスポットライトが当てられていた。この胸のモヤモヤって……。
「先輩!……先輩?……」
「……」
「先輩! どうしたのですか? 大丈夫ですか?……」
「……ん? うん……」
「……何だか、先輩の心が何処かに行ってしまったような顔をしてたから……」
和心が我に戻った時、皐月は花束が装丁されたノートを大切そうに持っていた。
「それは?」
「ああ、これは新しい日記帳です。もうすぐ、今年が終わるので。私、実は毎日、日記をつけていて……」
「そうだったんだ。……今日はクリスマスイブだし、皐月さんには今日、楽しい時間を作ってもらったから、その日記帳、僕がプレゼントするよ」
「エッ! そんなの、悪いです……無理に私の方が誘ったみたいだったのに……」
「いや、そんなことはないよ。これも白いキャンバスに塗る色のひと色だよ……だから、そうさせて。表紙、赤い薔薇の花束だね……」
皐月は、ありがとうございますと言いながら、花束が美しくデザインされた日記帳を、そっと渡した。
本屋を出た二人は、昼食を摂ろうということになり、五軒ほど先の喫茶『
喫茶店に着くと、和心は分厚い古い感じの木製ドアを開いた。鈍いドアベルが店内に響いた。と同時に、
「和心じゃないか!」
と言う大きな聞き覚えのある声。和心は、まずいっ! と思ったが、すでに後の祭り。
綿谷は、和心の肩に自分の腕を乗せて、
「ははは……そう言えば、去年もこの近くで会ったよな」
「うん、そうだね……」
「なになに、今年は彼女連れじゃん。あ・ま・み・や・和心くんも、なかなかやるなぁ……」
「……」
「俺たちは歴史サークルの集まりでさ、経済学部の子が今日、誕生日なんよ。で、集まれる奴が、集まったって訳……じゃあ、和心。彼女と楽しくな〜」
「……アッ、うん……」
すれ違いざまに綿谷の彼女が、『気にしないで。後からガツンって言っとくから。頑張ってね』……と、小声で和心の耳元に囁いた。和心は、思わず小さく頷いた。それは誤解だよって、言い返したかったけれど、喉の奥で言葉が詰まった。その後、歴史サークルのメンバーは、和心のそばで会釈をしながら次々と通り過ぎていった。
店内に流れるクリスマスのオルゴール曲が心地良く聞こえ出すと、二人は奥まった席へと移動した。
「皐月さん、びっくりしなかった?」
と、少し真顔で訊ねると、
「はい……少しだけ……」
と、優しい笑顔を見せながら、皐月は応えた。
「彼は、僕の住んでるアパートの隣に住んでる人で、思ったことをはっきり言うけれど、気持ちは優しい人だからね。だけど、声が大きいから、初めはビックリするよね……」
「私も声に驚いてしまって……何も言えませんでした」
「うん……そうだよね」
と言いながら和心も、綿谷の言った一言がまだ身体中を駆け巡っているように感じていた。
「そう言えば、さっきはサークル仲間の誕生パーティーとのことでしたね。……因みに雨宮先輩の誕生日っていつなのですか?……」
「アッと、その前に何を食べるのか決めようか?……皐月さんは、何にする?……」
と言って、和心はテーブルの立てかけてあったメニューを広げて、皐月に差し出した。
「じゃ、私は……ホットケーキセットでお願いします。飲み物は……紅茶で」
「うん、良いね〜。じゃあ、僕もオシャレに……ライスカレーで……飲み物は、水で」
そう和心が言うと、皐月は堪えきれずに笑い出してしまった。
「オシャレにって言うから、カレーライスにコーヒーかと……」
「僕、あれ苦手なんだ……。ソースポットに入ったカレールーを少しずつ、ご飯にかけて食べるっていうのが、どうしても慣れなくて。変かな〜?」
「変なんかじゃないですよ。もう言いましたけど、先輩は先輩のままが一番いいんです。私は、知ってますから」
そう言って、皐月は視線を落とした。タイミングよくそこへ、店員が注文を取りに来た。和心は、何故だか動悸が収まらないまま、注文内容を店員に伝えた。店員が注文内容を確認し、静かにその場を離れていった。
「皐月さん、さっきはありがとう……励ましてくれて」
皐月は、俯いていた顔を上げ、和心に向き直った。皐月は、頬を紅潮させたまま言った。
「そうだ先輩! 忘れるところだったじゃないですか〜。先輩の誕生日って、いつなのですか? 今度こそ、ちゃんと教えてくださいね……」
と、いつになく少しはにかんだような声。今の皐月にとって、それが精一杯、想いを紡いだ言葉だった。
「僕の誕生日?……実は、今日なんだ」
「えっ!……」
「お待たせしました〜。ホットケーキセットと紅茶のお客様は? それと、ライスカレーです。ごゆっくりお召し上がりください」
店員は手際よく料理を置き、軽く会釈して速やかに離れていった。湯気と香りが立ち昇り、二人の空腹を優しく刺激してくる。
「先輩の誕生日は、今日だったのですか?」
皐月は念を押すように、静かに訊き返した。
「うん、そうなんだ。でも、このことを知っている人って、あまりいないけどね。言うと、クリスマスイブ繋がりの話題で色々と言われるから……」
「……びっくりしました。もっと早くに知っていたら、何か……」
「ううん、気にしないで。今日は、とっても素敵な誕生日になったよ。ありがとう。冷えない内に食べよう」
「……はい」
やがて店員が、ウォーターポットを手に戻ってきた。
「水のお代わりは、如何ですか?」
「お願いします」
と二人とも応えた。すると和心の空っぽになっていたコップに店員は、まず水を注いだ。和心は、一杯になったコップの水を早速半分まで飲んだ。店員が皐月のコップに注ぐ際には、和心のコップはすでに空になっていた。店員は微笑みながら、和心のコップに再度水を注いでからテーブルを静かに離れていった。
「この喫茶店に入ってすぐ、先輩の知り合いの方が『今年は彼女連れ?』って言われた時、実は何だかドキドキして。さっきまで寒かった筈なのに、急に暑くなってしまって……」
「あっ……そうだよね。ちゃんと説明できなかったから、誤解してるかもしれない……」
「ありがとうございます。私、初めてだったんです。あんなふうに言われるのって。声の大きさもあるのですが、彼女って思われたのが。だからきっと、身体中が……」
「……実は、僕もあの後、同じことを思っていた。一緒だったんだね……」
二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。二人は、心に宿った美熱を少しだけ冷まそうとするかのように、残されていた水を飲み干した。
喫茶『心恋』を後にした二人は、クリスマスソングの流れる商店街を、皐月の乗る予定のバス停へと向かった。
「先輩、テーブルに置いていたパンフレット、見ました?」
「パンフレット?」
「はい、『心恋』についての……」
「ああ、うん。見たよ」
「素敵でしたよね?……」
「……」
「『
「……」
「先輩?……」
「あっ、うん。綺麗な店名だよね」
「ところで先輩。白いキャンバスの色塗り、いかがでしたか?」
「……」
「私は、満開の桜並木を画面一面にイメージすることができました。淡いピンク色でキャンバスが埋め尽くされて、その並木道の奥には小さく『心恋』の喫茶店がポツンと……優しさや思いやり、幸福感で満たされました……先輩は?」
「そうだな……僕はね、大小たくさんの黄色いハートで溢れてて、喜びや楽しさで満たされているような感じだったよ」
「素敵ですね……一緒に白いキャンバスの色塗りが、できましたね。何だか、照れますね……」
皐月の乗るバスが、次第に近づいて来た。
「先輩、明日のクリスマスって、今日のように一緒に過ごせますか?」
皐月の笑顔が、消えていた。和心は、うなずいた。
「……うん」
皐月の表情に、また笑顔が戻った。
「先輩、今日はプレゼントまでいただいて……ありがとうございました。明日、また同じ時刻に……」
「うん。わかった。じゃあ、明日……」
バスが優しく息を吐きながら、ゆっくり停車した。皐月は笑顔を和心の心に残したまま、バスの中へと姿を消していった。
動き出したバスの背後を、降り出した雪の妖精たちが楽しそうに踊っていた……。
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