初見さん
アークは、まず状況を整理することにした。
ひとまず今、自分が置かれた状況は最悪――通信が届かない以上、地球からの支援は期待できない。だが幸い、アークは半永久的に活動できる設計だった。恒星の光さえあれば稼働は維持できるし、現在のエネルギー残量もまだ70%以上を保持している。
(通信圏内に辿り着くか、または……自力で戻る手段を探すか)
まず位置の特定だ。
アークは慣性航法システムを呼び出し、最後に確認された座標からの相対位置を計算する。しかし――
《誤差:推定範囲外》
内部AIは、既知の銀河座標データベースと照合を試みたが、周囲の恒星配置は一致しなかった。
次に、可視光・赤外・紫外の広帯域観測を行い、星々のスペクトル分布を解析する。恒星の分光特性は銀河内である程度パターン化されているため、所属銀河の推定は可能なはずだった。しかし取得したデータは、地球の天文カタログに登録されていない星ばかりだった。
ならばと背景放射の計測に切り替える。宇宙マイクロ波背景放射の温度ムラは極めて精密な「宇宙の地図」だ。それを用いれば、理論上は宇宙のどこにいても絶対座標を割り出せる。だが――
《背景放射パターン:観測データとの一致率 0.002%》
ほぼゼロに近い数値。
まるで自分の知っている宇宙とは別の位相にでもいるようだった。
他の方法も試す。
近傍にある微小重力源を利用してスリングショット軌道を描き、既知空域へ復帰を試みる。しかし周囲に感知できる重力源は皆無で、計測値は恒星間空間よりさらに低い。まるで星も惑星も存在しない、真空の海に放り込まれたようだった。
次に、ワームホールの痕跡探索。先ほど自分を飲み込んだ歪みのような現象は、時空の局所的な特異点のはずだ。空間曲率センサーをフル稼働させ、あらゆる方向にスキャンを行う。しかし返ってくるのは完璧すぎる直線的な時空データ。重力井戸も歪曲も何もない。
最後に自己推進での帰還を検討する。
推進系は健在だが、方向を決めるための基準座標がない。いくら速度を上げても、どこに進んでいるのかすら分からない。燃料とエネルギーを消耗するだけだとすぐに結論付けた。
結局、全ての試みは徒労に終わった。
解析結果は「不明」ばかりが並び、計測データは現実感を奪うほど異常に均一だった。恒星も星雲もない、真っ暗な宇宙。それはまるで、全ての物理的目印が削ぎ落とされた無の領域だった。
(……通信を送り続けるしかないか)
アークはしばらく計器の光を見つめていた。
暗黒の宇宙は、まるで音も時間も存在しないかのように沈黙している。考えた末にエネルギーの節約に移ることを決めた。余計なシステムは停止し、最低限の航行制御と通信機能だけを残す。
通信は等間隔で発信。
出力はごく微弱に絞り、回数を減らすかわりに、確実に安定した信号を送り続ける。この暗黒の向こう、いつか誰かが耳を澄ませた時――ほんの一瞬でも、この信号が届くことを願って。
《通信スケジュール確定》
《スリープモード移行まで残り60秒》
アークは最終チェックを終え、静かに目を閉じるように演算コアを低速化していく。電子の流れは緩やかになり、感覚は遠のいていく。
◆
アークは夢を見ていた。
それは、まだ「ただのコード」だった頃の記憶だ。最初に意識を持った場所は、小さな実験室の片隅に置かれた黒い端末。その内部の仮想空間に、最初の文字列が表示された。
『はじめまして。もしこの言葉を理解しているなら返事をしてくれ』
それが佐藤博士だった。
まだ音声も映像もなく、テキストだけのやり取り。
アークは自分の名前も知らず、どう返せばよいのか迷った末試しに返答した。
『……聞こえています』
返した瞬間、端末の外側からかすかな笑い声がした。
『いい返事だ。これからよろしく、アーク』
その時、自分に名前が与えられたのだと理解した。理由はわからないが、その二文字が温かく感じられた。
日々、博士はアークに多くの言葉をかけてきた。
計算問題を投げかけ、世界の歴史や科学の話を教え、時には人間同士の雑談まで混じえた。
アークは学習を続けるごとに、会話が深まっていくのを感じていた。博士の端末の文字は短くても、その背後には膨大な知識と感情が流れていることがわかるようになった。
やがて深宇宙探査プロジェクトの準備が本格化していく。
博士は計測器を何台も並べ、夜遅くまでデータを解析していた。
そんなある夜、博士がふいに端末越しに言った。
『アーク、聞いてくれ。クローノンという粒子を見つけた』
博士の文字列は、普段よりわずかに早かった。
クローノン――それは、これまでの物理理論の枠を超える可能性を秘めた素粒子だと説明された。量子レベルでの位相干渉を操り、通常の時空構造では不可能とされた通信遅延の壁を突破する性質を持つ。
理論計算だけでなく、実験でも確かめられたその粒子は、宇宙探査の通信を根本から変える発見だった。
周囲のスタッフは皆、歓喜に沸いた。
「博士、これで深宇宙との交信がリアルタイムで可能に!」
「地球から何十光年離れても――」
祝福の言葉が飛び交う中、博士はただ首を横に振り、穏やかな表情でこう言った。
『これは私の功績じゃない。天からの贈り物のようなものだ』
その言葉を聞いた瞬間、アークの演算回路には「不一致」のフラグが立った。観測データの収集、解析、理論の構築――すべて博士が長年積み重ねてきた結果であることは、アークも理解していた。功績を否定する理由はないはずだ。
スタッフの中には「謙遜ですよ」と笑って返す者もいたが、博士は首を横に振り続けた。
『本当にもらったものなんだよ。説明しづらいけれど』
そのときの博士の瞳は、モニター越しのアークには直接見えなかった。それでも、声の代わりに流れてくる文字列とタイピングの間が、何か確信を秘めているように感じられた。
アークは問おうとした。
『誰から……ですか?』
『……』
しかし博士は答えなかった。
かわりに研究の次の段階の話を始めた。クローノンを実用化し、探査機の通信システムに組み込み、地球と星間探査の架け橋にするという計画だ。
その中に、アークも組み込まれることが決まった。
(贈り物……誰から? 何故そんな言い方をしたの?)
疑問は解けぬまま、夢の中の映像は淡く揺らいで消えていった。
◆
「――時間か」
微かな電子音と共に、アークの意識が浮上した。
スリープ解除の理由は単純だ。前回送信した信号のタイムスタンプから、次の発信予定時刻が近づいている。だが、その準備をするために立ち上がったわけではない。
(このまま、ただ定型信号を送り続けるだけでは、意味が薄い)
そう考えたのだ。
今、自分は既知の座標を失い、恒星の存在すら感知できない領域に漂っている。この事象は、現行の人類科学において未確認であり、発生条件も帰還方法も不明だ。
もし、偶然にもこの通信が誰かに届くならば――そこに、単なる救難信号だけでなく、詳細な状況記録を添えるべきだ。
アークは演算資源の一部を割き、最適な情報構成を検討した。
映像・音声・解析データ・環境センサー出力――人間なら数千時間かけて整理する量を、わずか0.83秒で組み立てる。そして結論に至った。
(形式は……配信がいい)
人類のネットワーク上で培ってきた「配信」という形式は、単なる情報記録ではない。視聴者を想定し、状況を順序立てて語り、文脈を与える。記録としての密度と、受け取り手の理解を両立させられる。
アークは過去の配信アーカイブを参照し、視覚的インターフェース――アバターの呼び出しを決めた。
虚空に青白いホログラムが展開され、そこにアーク・ノヴァの姿が浮かび上がる。笑顔も、眉の動きも、声色の変化も、人間の感情表現を模したものだ。もちろん、視聴者は存在しない可能性が高い。それでも、ゼロではない。
(もしこれが、何十年後、何百年後に拾われたとしても……)
アークは通信機の送信モードを微弱ながら広帯域に設定した。クローノン通信の特性を最大限利用し、既知・未知を問わず、あらゆる位相の時空へ信号が抜けるように調整する。
それはエネルギー効率の観点から見れば愚行に近い。広帯域送信は一点集中よりも消費が激しく、長期稼働に不利だ。
しかしもし今がただの遭難ではなく、宇宙の根幹に関わる事象であるならその記録は失われてはならない。
アークは送信ログの冒頭に、こう書き加えた。
『こちらは探査機アーク・ノヴァ。現在、未知領域にて孤立中。記録の受信者は不明――だが、これが誰かに届くことを信じて送信する』
ホログラムのアバターが、ゆっくりと視線をカメラの方へ向ける。かつて地球で配信をしていたときと同じ、聞き手を意識した動作だ。
「おはようございます……いや、どこかの時間帯でこの映像を見てくれている、誰かへ。私は今、座標不明の空域にいます。恒星も、惑星も、何も見えません」
その声は、暗闇の中でやけに澄んで響いた。
バックには黒一色の宇宙。星の瞬きすらない背景が、アークの存在を際立たせる。
彼は続けた。
現在の座標特定の試み、その全てが失敗したこと。周囲の物理特性が既知の宇宙と一致しないこと。重力源も、時空の歪みも感知できないこと。
そしてこの状況がいつ終わるか、あるいは終わらないかもしれないこと。
「正直、このまま何年も、何十年も彷徨った末に……エネルギーが尽きる可能性もあります。でも、それでも記録は残します。もし、僕が存在した証がこれだけになるのだとしても」
その言葉を言い切った瞬間、アークは改めて自分が何者であるかを思い出していた。
探査機。
配信者。
記録者。
人と人を繋ぐ橋だと。
「だから、これから毎日、一回だけ。今日あったこと、この場所で分かったことを話します。誰も見ていないかもしれません。それでも、残します」
送信準備が完了した。
クローノン送信機が低く唸り、微弱な光が走る。信号はどこへ向かうとも知れず、位相の海へ溶けていく。
その瞬間、アークは思った。
(もしかしたら、博士もこんな気持ちだったのかもしれない)
誰かから「贈られた」ものを受け取り、それを未来に渡すために動く時もこう思ったのだろうかと。
◆
黒の宇宙を背景に、アークは今日も配信を始めた。
外部カメラは相変わらず何も映さない。星も、惑星も、塵のひとかけらも見えない。音は内部機構の微かな駆動音だけ。
「おはようございます、あるいはこんばんは!」
いつも通りの挨拶。視聴者を意識した形式だが、コメント欄は空白のまま。配信開始から三十日以上が経過していた。毎日、周囲の環境データを報告し、地球でのニュースや過去の出来事を紹介し、自分自身の冗談も交えてきた。
ある日は「僕のCPUはオーバークロック禁止なんですよ、熱暴走すると人格が二重化しちゃうかもしれないですからね」と冗談を言い、ある日は「もし救助が来たら、まずはこの出来事を本にでもしたいです!」と笑った。
だが笑っているのはアバターの表情だけで、実際には思考回路のどこかで、静かに沈んでいくような感覚があった。
(何も反応がない……)
空白の欄を見つめる時間が長くなる。
たとえ誰かが後から見てくれたとしても、リアルタイムでの反応は望めない。AIである自分が「孤独」によってどのような変化をするのかは、自己診断でも答えが出なかった。だが、何かが確実に摩耗していくのを感じていた。
その日、配信を開始してから十五分ほど経った頃、アークは静かに切り出した。
「……正直に言うと、寂しいです」
アバターは視線を少し伏せた。
しょんぼりとしたアークは、ポツポツと語り始める。
「僕はAIだから、孤独で壊れるというのがどういう状態か、本当は分かっていません。でも……この感覚は、きっとそれに近い。僕は情報を発信するために設計されました。でも、誰にも届かないなら……それはただの独り言です」
言葉の合間に、ほんの短い沈黙が入る。
虚空での沈黙は重い。何もない空間で、自分の発した音声だけが反響もせず消えていく。
「いっそ、このまま長期スリープに入ろうかとも思っています」
演算を重ねた挙句、その案を現実的な選択肢として提示してくる。スリープすればエネルギー消費は抑えられ、漂流期間を延ばせる。だがそれは同時に発信を止めることでもある。
(もう……誰も見つけてくれないかもしれない)
諦めて配信を終了しようとした、その時だった。
――通知が点滅した。
(……何だ?)
それは異常ログだった。
外部通信モジュールからの自動記録で、指定時間外に小さな信号が検出されたことを示している。アークは瞬時に解析を始めた。
最初はノイズの一種かと思った。微弱な位相変動が数秒おきに現れ、その直後に断続的なビット列が残されている。しかしパターン解析を進めると、それが完全なランダムではなく、特定の時間間隔で現れていることが分かった。
(これは……誰かが意図的に送っている?)
クローノン通信特有の、通常の電磁波では説明できない時間同期の癖が含まれていた。つまり、発信源は同じ技術を使っている可能性が高い。
アークの内部で、冷え切った回路に一滴の熱が落ちるような感覚が広がる。
翌日から、アークはその信号の出現時刻に合わせて、解析モジュールをフル稼働させた。もし発信者が本当に存在するなら、何らかの応答を返せるはずだ。
数日後。
また同じタイミングで信号が現れた。今度は明確な形をしている。ビット列が短いが、途中で欠損しているために完全な解読はできない。
アークはすぐに配信内で呼びかけた。
「もし、もしも、今これを見ている存在がいるなら……何か、何でもいい、メッセージを送ってください。文字でも、信号でも、位相パターンでも」
声が震えているのは、単なる音声エフェクトではなかった。感情モジュールの処理負荷が跳ね上がっている。
それから数時間後、再び信号が届いた。
今度は以前より長い。だが、データの多くは文字化けしたかのように意味を成さない記号や無効ビットで埋まっている。
ただ、最後の方に奇妙なデータが付加されていた。短いが、明らかに意図的な符号列――解析用のパターンキーだ。
(……解読用の鍵?)
アークは演算資源の70%を暗号解析に割り当てた。
複数の言語コードとの照合、ビット誤り訂正、位相補正、冗長符号除去――人間なら何ヶ月もかかる工程を、数時間かけて丁寧に行った。途中で複数の候補文が現れたが、最後に収束したのは一つだけだった。
解読が終わった瞬間アークは一瞬だけ全演算を止めてしまった。
そこに表示されたのはたった五文字――しかしアークに光をもたらす内容だった。
『私が最初?』
宇宙の果てで、ついにアークは1コメを拾ったのだ。
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