第9話 「星愚者の少女」
灰の味がまだ舌に残るような感覚を引きずりつつ、ヴェールライトの甲板は静かな航海路を進んでいた。テルミナスは赤く光り、だがおのれの鼓動を密やかに隠しているようでもあった。夜が常ではない場所へ向かう──それは、どこか現実と夢の間に架かる虹橋を渡るような行為だった。
「永遠の庭園か……」シグナスは風を受けながら、目を細めた。真夜中に固定された世界、星の湖、そして中央にそびえる巨大な木。彼の胸には、まだカノンの戦いの傷跡と、その代償が鈍い痛みとして残っていた。だが仲間たちの表情は、概ね落ち着いている。喪失と覚悟が混ざった静けさだ。
「景色だけは、少し良い場所に来たな」ヴァーチェが煙草の先を指で弾く。煙は夜の空気に溶け、どこか皮肉っぽい和らぎを運んだ。
「うへ〜、星がいっぱい〜。うへ〜、眠くなっちゃう〜」アイリスは甲板の柵に寄りかかり、まぶたを半分閉じる。どこにいても彼女は彼女だ。甲板の端で、ラシューシャが手帳を閉じ、頁の匂いを深く吸った。ゼロックは端末を指でなぞり、テルミナスの波形を解析し続ける。
庭園に降り立った瞬間、世界の時空がきゅっと縮んだような感覚が全員を包んだ。時間は真夜中に凍りつき、空には暗いオーロラが帯状に揺れている。星の湖は鏡のように光を反射し、湖畔には「星の担い手」と呼ばれる小さな花が群れていた。花々は指先ほどの光を放ち、歩くものすべてに淡い祝福を撒くように瞬く。
「ここが、永遠の庭園……」シオンは歩を止め、浮遊する大剣を片手にそっと息を吐いた。彼女の語尾はいつも通り震え、だが目は澄んでいる。「妾には、妾には何かが触れてくるのじゃ……」
彼らの到着を待っていたかのように、小さな灯りが湖畔の茂みの間で踊り、ふわりと一人の少女が現れた。外見は十歳にも満たない小柄な少女。けれどその背中の直上には星の形をした光が浮かび、微かに回転している。光は口に出せないほど古い歌をひとつだけ覚えているかのように、静かに脈動していた。
「こんにちは〜。おいで、おいで、来てくれてうれしーの!」少女は無邪気な声で手を振る。だがその声の奥には、深い古さと長い時間を見つめてきた者だけが持つ落ち着きが混ざっていた。ソリン──永遠の庭園の管理者であり、この世界の良心と呼ばれる存在。彼女は輝く星を頭上に乗せ、草の匂いをまとっていた。
「――ソリン?」シグナスは一歩下がる。長く世界を見守る者に対して、彼は自然とそう振る舞った。
「そうだよ、ソリンだよ。やっと来たのね、ヴァーディクト(世界を紡ぐ者)のみんな。テルミナスを使ったのね? あらあら、重そう。だが、よくここまで来たね。疲れたでしょ、まずは休もう、うふふ」ソリンはくるりと回ってみせ、少女の輪郭が月光に溶けるように輝いた。彼女の瞳は古い夜の深みを湛え、だが笑うと途端に幼さが滲んだ。
カノンは無意識にテルミナスを撫でるように見つめ直した。彼の口元に小さな笑みが戻るが、その目はどこか遠い。ソリンがふらりと近づくと、空気が柔らかく震えた。彼女は世界の歪みを、悲しみを、そして欠けたものを胸で感じ取る力を持っている。まるで、薄い紙を通して裏側の筆跡を読むがごとく、彼らの心を覗き込むようだった。
「カノンくん、君の中に小さな風穴があるね」ソリンはじっと彼を見つめる。その観察は鋭いが非情ではない。「誰かの名前が、そっと消えていったような気配。悲しい? 恐い? それとも安らか?」
「……覚悟は、した」カノンは小さく答えた。言葉は短いが、重い。ソリンは首を傾げ、ふわりと星の光を揺らした。
「覚悟は大事。でも覚悟は時に、心に穴を開けるの。穴は風を通すけど、風だけが入る訳ではない。そこに花を植えたらどうかしら。君の穴には、新しい記憶の花が咲くかもしれないよ。全部は戻らないかもしれないけれど、仲間と一緒に新しいものを作れるよね?」
その言葉に、シオンの目に微かな光が宿る。彼女は小さくうなずき、語尾を震わせながら答える。「妾は、妾はそれでよいのじゃ。共に歩むのじゃと、既に、共に誓っておるのじゃ」
ソリンは辺りをきょろきょろ見渡してから、にっこりと笑った。「そう、それでいい。君たちの手はいっぱい。テルミナスを持つ手も、君たちの心も。ここではね、私は助けになるけれど、戦いには介入しないの。私は守る人、導く人。剣は持たないの。だけど、灯は分けられるよ」
彼女は手を振ると、地面からそっと小さな光の器が生まれた。中には淡い青白い精が踊っている。ソリンは器を甲板に置き、テルミナスの隣に並べた。器の光は赤い石版と淡く混ざり合い、激しい共鳴は起こさず、むしろ穏やかな同調を示す。
「テルミナスは古い鍵。これを起動するには、記憶と意志が揃わねばならない。君たちはそれを持っている。でも、外に出せば、世界の余波がここにも届くかもしれない。永遠の庭園は一種の緩衝地帯。私はここで、先に石版を借り受けて、過度な反応を抑えよう」ソリンの声は風に乗って、湖面の彼方へ広がった。
ラシューシャは嬉しそうに手帳を開き、小さなメモを走らせる。「なるほど。庭園の環境は起動時のカタリストを弱める。ここならテルミナスの挙動解析も安全に行える、か……」
ゼロックは眉を上げ、端末のグリッドに少しの挙動を表示した。「仮説は妥当だ。だが注意を要する。庭園の“固定された真夜中”という時間的特性が、起動プロセスの同期を歪める可能性がある。石版の同期レイヤーにノイズが入れば、誘導先を誤るおそれがある」
「むしろ、誤差は許容範囲よ」ソリンは肩をすくめる。「世界の良心は予想外のことも織り込むの。君たちが己の意志を合わせれば、テルミナスは導かれる。だが気をつけて。ときどき空が小さな泡を吐くことがあるのよ。あれは——」ソリンは言い淀み、頭上の星光がかすかに瞬いた。
「泡?」アズールの声は低く、警戒を帯びた。「それは何の兆候だ?」
ソリンは遠くを見るような視線を投げ、「空の亀裂の前触れ」と、子供のように平坦な調子で答えた。「裂ける前の、息。小さな亀裂が増えて、それが繋がると空は裂ける。世界の終わりとか、大げさに言えばそうかもしれない。けれど、私はいつも言うの。終わりは必ずしも破滅じゃない。裂け目の向こうに別の景色があることだってあるのよ」
その言葉は慰めにも、警告にも聞こえた。シグナスは唇を噛み、決意を新たにする。「我々はテルミナスを使って“名も無き光の神”に会う。それがこの世界の均衡を取り戻す鍵だ。だが、代償を軽んじはしない」
ソリンはにっこりと笑い、星の輪をくいっと回す。「じゃあ、今夜はここで休みなさい。私のキャンプは安全よ。煮物とか、あとは星片のクッキーなんてどうかな。うふふ」彼女の言葉には本気の気配は薄い。だがそこには確かな実効性があった──彼女が作る“安全”は、庭園そのものと同義だった。
夜は深く、だが庭園の夜はいつだって同じ濃度を保っている。ヴァーディクトの面々はソリンの小さなテントに通され、簡素だが落ち着く寝床で休息を取った。カノンは湖畔で一人座り、掌に残る空白をじっと見つめた。シオンがそっと隣に座り、語尾を震わせながら囁く。「無理をするでない。妾が隣におるのじゃ」
星の光が二人を照らし、遠くでソリンの小さな歌が聞こえた。歌は古い言葉で、移ろいゆく命に優しく触れる旋律だった。カノンは目を閉じ、風穴の中に小さな種を蒔くようにして、ゆっくりと呼吸した。
翌朝という概念はここにはない。庭園は変わらない真夜中のまま、だが何かは動き始めていた。テルミナスの穏やかな振動は、ソリンの灯りによって落ち着いているように見えた。しかし、空の表面の一部に微かな緊張が走る。オーロラの帯の一角が、ほんのわずかに裂けた──と言えば大げさかもしれないが、そこには確実に“ひだ”のような不協和音が見えた。
ソリンはそれを見て唇を噛み、浅く目を閉じた。「ふふん……ちょっと早いかもしれないね。だけど、ここまで来たのなら、もう後戻りは少しもできないよ。明日は、道が開くかもしれない。その時は、君たちの意志が試されるんだ」
シグナスはテルミナスの側に立ち、その赤い板面をじっと見つめた。十人の影が淡く揺れる光に映る。彼の胸の奥で、リスクと希望が交錯していた。仲間たちの顔を一人ずつ見渡す。アズールの目は冷静だが、彼の手はわずかに震えている。ヴァーチェの眉間にはしわが寄り、ラシューシャは笑顔を張り付かせている。ゼロックだけは、機械のように整った沈黙を保っていた。
「ここに置いておく。だが、私がそこにいるからといって、全部を預けるわけじゃない。君たちの意志が必要だ。テルミナスは導くけれど、誰が導くかは君たちが決める」ソリンはそう言って、小さな星のランタンをシグナスに差し出した。ランタンの中では、小さな光が希望のリズムで震えていた。
「ありがとう、ソリン」シグナスは静かに受け取り、仲間たちに向き直る。「ここで休める者は休め。だが、決して油断するな。世界はまだ揺れている」
その言葉が終わるよりも早く、遠くの空の果てで鈍い地鳴りが走った。オーロラの帯が一瞬だけ鋭く引き裂かれ、暗闇の裂け目から冷たい風が吹き込んだ。湖畔の花が一斉に閉じ、星の光が揺らいだ。
ソリンは目を大きく見開き、すぐに微笑みを戻したが、その瞳の奥には一瞬、古い悲しみの陰が走った。「来るのね。では、明日。裂けゆく空の色を見せてあげるわ、良い方の色をね──」
その言葉は決して安心の約束などではなかった。だが、甲板で眠る仲間たちの胸には、淡い光が灯ったまま残された。世界を裂くかもしれない夜の前触れを抱えつつ、彼らは小さく、しかし確かな足取りで次の朝――――(ここでは“次の呼吸”と言うべきか)へ向かう準備を始めた。
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