僕と君の未来世紀徒然草
雅枝恭幸
第1話【第一章】
◇
僕がバイトを終えて、外へ出ると、秋空は夕焼けから日没を迎えていた。
本屋さんへ、新刊の文庫を買いに寄ろうと思っていたところだった。
僕はバイリンガルの帰国子女で、帰国して日本の大学に入学するまでは、オーストラリアに住んでいた。
とは言っても、両親とも日本人なので、僕は英語よりも日本語のほうが、どちらかというと好きだから、周りの同級生から、英語で何かスピーチしてと言われると、そんなときは、いつも日本語で、こう見栄を切って言うことにしていた。
「わたくし、生まれも育ちもオーストラリアでござんすが、この通り、見た目も中身もメイドインジャパンでありんす」
もちろん、友達からは、ブーイングだったけれど。
そんなことを思い出しながら、叡山電鉄の一乗寺駅前を通り過ぎた時、ちょうど、ホームから降りてきた女の子が、僕のほうへ向かってきて、道をたずねた。
「サイゼリアに行きたいのですが、このあたりにあるでしょうか」
物静かな落ち着いた口調で、人形のような表情の美人の女の子だ。
一見すると、僕と同世代に見えて、お嬢様ファッションの秋物のシンプルなデザインのワンピース姿。髪型はモカ色でショートボブに近い感じだ。
ファミレスの場所を唐突に聞かれて戸惑ったけれど、目の前の女の子とは、以前に、どこかで会ったような気がしたのと、僕の好きな映画の女優さんにちょっと似ているかな?とも思いながら、この人に頼られたら、なぜか、断れない気もして、咄嗟に答えた。
「ちょうど、僕も今から行くところなんです。一緒に行きましょうか」
「えっ、そうなんですか。助かります。よろしくお願いします」
女の子は、唐突にこんなことを言い出した僕に対して、警戒心の欠片もなく、右側に並んでついてきた。
路面電車沿いの細道を、二人で並んで歩く。
無言のまま歩くのもと思い、何でもいいから喋ろうと思った。
「サイゼリアには、誰かと待ち合わせなのですか」
待ち合わせ相手は、彼氏なのかなと思って、女の子の両手の指を、それとなく見た。
綺麗な小振の宝石のついたシルバーのリングを右手薬指にはめている。
こんな可愛い人なら、彼氏がいても当然だなと思う。でも、嫉妬みたいな感覚は不思議と起きなかった。
すると女の子は、僕の視線に気づいたのか、ちょっと考えてから、こう言った。
「待っててくれてるのは姉なんです。学校の課題のレポートを、サイゼリアで一緒に書こうと約束しているんですよ」
「そうなんだ。仲が良い姉妹なんですね。僕は独りっこだから、羨ましいです。サイゼリアは、この道の先を左へ曲がって、あと少しのところなんですよ」
公園の木々も秋色に染まり、何となく良い雰囲気で、僕はサイゼリアが、もっと遠くのところにあれば、この女の子と、もう少し長く喋り続けられるのにと思った。
何を喋ればいいのか、僕は、話題に事欠きながら、彼女の横顔を垣間見た。
会った時から人形のような顔色の白い人だけれど、今は、なぜか顔面蒼白になっている。
「大丈夫ですか、顔色が悪いようですけれど」
彼女は返答もせず、ただ、ぼおぅと視線を彷徨わせて歩いている。
秋風が吹き、木々の葉を揺らす。
「寒くないですか」
彼女は何か考え事でもしているのだろうか、話しかけても、僕へ向く素振りさえない。
それにしても、彼女の反応がなさすぎて、体調でも悪いのだろうかと心配になる。
「サイゼリアまで、あと少しですから」
やはり、彼女からの反応がない。少しふらついて歩いているみたいだ。
この付近は、繁華街からも離れていて、閑静な住宅街で、田畑もところどころに残っている。
表通りからは外れていて、人の往来も少ない。たまに通るクルマも細い道を通り過ぎていく。
ふらついて歩く彼女が、歩道から、はみ出さないか心配になったので、僕は道路側を歩くことにした。
交差点に差し掛かり、左手から来た黒塗りのワゴン車が、僕らの目の前に急停車した。
車の側面扉が素早く開き、カラフルな色の目出し帽を被った男たちがでてきて、僕の横の女の子につかみかかる。
「何するんだ。やめろ」
僕は驚き、目出し棒の男へ叫ぶ。
目出し帽の男たちは、僕を無視する。
女の子は驚くことすらできなかったようで、悲鳴すら上げない。そのまま、車中へと押し込められる。
僕は車へ駆け寄り、女の子を助けようとする。
背後から、目出し帽の一人が、僕の首に何かを押し付けた。
身体中に電気が走り、意識が飛びそうになる。
車は急発進して走り出した。
その刹那、視界に入った黒塗りのワゴン車のナンバーが、僕が最後に見た記憶だった。
◇
「大丈夫ですか」
僕は身体を揺り動かされて、女の子の声で、目を覚ました。
目の前には、さっき連れ去られたはずの女の子がいた。
女の子は、僕の顔をみて、ほっとしたようだ。
「あぁ、気がつかれましたね。よかった」
「えっ、さっき、連れ去られたじゃないですか」
「やっぱり、そうなんですか」
僕の脳内の状況判断と、目の前の女の子の言動とが噛み合わない。
「今さっき、君は連れ去られたじゃないか、なぜ、ここにいるの」
「あっ、違うんです。それ、私じゃなくて、たぶん妹なんです。私たち双子姉妹なんです」
「双子?」
「いきなり、こんな説明をされても、わけがわかりませんよね…ごめんなさい」
もしかすると、僕は夢を見ているのかもしれない。
「夢オチだなんて、設定が安易すぎるな……」
なんて、誰に向かって言っているのか、僕自身も錯乱している。
僕は、目の前の女の子に身体を起こされて、息を整えた。
「ちょっと待って、僕には、なにがなんだかわからない」
女の子が説明し始めた。
「私、その先の大通りの交差点で待っていて。黒塗りのクルマに、あなたと一緒にいた女の子が連れ去られたのが見えたんです。その女の子の服が妹の服に似ていて。そこのサイゼリアで、私は妹と待ち合わせをしていたんですけど。いつまでたっても妹が来ないから、さっきお店から出て、駅まで迎えに行く途中だったんです」
「そうなんですか。双子とは知らなくて、戸惑いましたよ」
「そうですよね。ごめんなさい。私も遠くから見たので、はっきりとはわからなかったのですが、連れ去られた女の子のことを、あなたが、私と見間違えたということは、やっぱり妹だったんですね」
「お姉さん、ここで思案していても仕方ない。とにかく警察へ連絡しなくちゃ」
「えぇ、でも今、私のスマホのバッテリーが切れていて、それで妹とも連絡ができなくて困っていたんです。それでサイゼリアから出て、妹と悠太さんのいる駅まで迎えに行こうと思ってた矢先で」
お姉さんは、困ってるといいながらも、なんだか、落ち着いている気がする。
「そうですか。でもあれ? 僕の名前、まだ言ってませんでしたよね。なぜご存じで?」
「えっ、さっき、聞いてたかも……」
お姉さんは急に焦りだした。大丈夫かな、この人。
「そうだったかな。僕も気絶していたから、まだ頭が混乱しているのかも」
お姉さんは、笑顔をふりまいて、頭を掻いている。
僕はスマホを取り出して、一一〇番へ電話をかけようとした。
電話をかける僕を見て、お姉さんは慌てた。
「あっ、警察にはまだ電話しないほうが」
「なぜです。急がないと」
「だって、誘拐だったら、警察に連絡したらダメとか、ドラマでもよくあるじゃない」
目の前で、妹さんが誘拐されたのに、ドラマとか言ってるけれど。このお姉さん、本当に大丈夫かな。
それと。さっきから、このお姉さんを見て、何か違和感がある。
そうだ。落ち着いて見ると、さっきまで一緒に歩いてきた妹さんと、目の前のお姉さんとでは、服装の季節感がまるで違う。
妹さんは秋物のワンピースの服装だったけれど、お姉さんは、秋にはまだ早い季節外れのダウンジャケットを着て、下は厚めの布地のデニムを履き、マフラーや手袋までしている。
お姉さんの髪の色は黒く、さっきの妹さんのモカ色のショートボブよりも少し長く、肩に少しかかるくらいのセミロングだ。
顔がそっくりで、双子らしいけれど、髪型はともかく、服装の季節感がまるで違う。
妹さんは人形のように穏やかな女の子だったけれど、お姉さんは真逆で、活発な口調で、性格も、まるっきり違うのかもしれないと感じた。
とりあえず、相手の名前も知らないままでは困るので、お互いの名前を交換した。
「僕は【設楽悠太(したらゆうた)】と言います。バイトの帰り道、駅前で妹さんから、サイゼリアへの道をたずねられて、ここまで一緒に来たんです。それまで面識も一切なくて、妹さんの名前も何も知らなくて」
「私は【萱島芽衣(かやしまめい)】といいます。妹は【結衣(ゆい)】といいます」
「萱島さんですか。あっ、でもさっきは、なぜ、僕の名前を知ってたのですか。僕はやっぱり先に名乗ってなかったはずですが」
「えっ、そっ、そんなことより、妹が心配。あっ、それから、私のことは芽衣と呼んでください。妹と同じ萱島では紛らわしいでしょうし」
「ええ……わかりました」
なんだか、うやむやにされた。
言葉とは裏腹に、僕には何が何だかわからなくなった。
◇
現場に警察が来て、事情説明をしたあと、僕と芽衣さんはパトカーに乗せられて、最寄りの警察署へと同行した。
僕はこれまでの人生で、警察のお世話になったことは、免許更新以外では皆無だったので、取調室での事情聴取に、何をどう答えたらいいのか悩んだけれど。目の前の警察官の人達は、僕のことを怪しんではいないようで安心した。
なぜ、こうなったのか、僕は皆目検討もつかず、連れ去られた女の子のことも、さっき、お姉さんから聞くまでは、名前さえも知らなかったので、何も答えようがなく、戸惑っていた。
目の前の刑事さんが、僕に説明してくれる。
「設楽さん。調べによりますと、実は、双子の妹と言われている萱島結衣さんという人自体が存在しないんですよ。姉だと言っている萱島芽衣さんには、双子も姉妹もいないんです」
僕は驚く。
「だとすると、あの時、連れ去られた女の子は誰なのですか。最初は僕も、二人は同一人物だと思ったのですが、お姉さんから双子だと聞いてからは、服装も違うと気づき、信じたんです」
いったい、どういう事態なのか、もうわけがわからない。
僕は、たずねた。
「だとしたら、目の前で誘拐されたのは、あの女の子の狂言だということでしょうか」
「そこが私ども警察も、現状ではわからないので困っているところなんです。設楽さん、あなたは何かご存じないですか」
「さっぱり、わからないです」
取調室の扉がノックされ、目の前の刑事さんが呼ばれて、廊下へ出ていった。
しばらくすると、刑事さんが取調室へ戻ってきた。
「設楽さん、この件は解決しました。もう帰っていただいて大丈夫です」
「えっ、どうなったんですか」
「今回のことは事件と呼んでいいのか、私も正直わかりません。誘拐の話は、あの女性、萱島芽衣さんの一人芝居の嘘だということです」
僕は茫然とした。
取調室から出ると、ちょうど隣の部屋から、あの女の子と刑事さんの声が、かすかに聞こえてきた。
「では、萱島芽衣さん、あなたは演劇サークルの練習で、双子の一人芝居を演じることになり、警察での取調室のシーンも参考にしたくて、結衣さんという妹が誘拐されたとの嘘をついたということなのですね」
女の子が謝っている。
「ええ、その通りです。警察の方にはご迷惑をおかけしました」
「こんな悪戯は、もうやめてくださいよ」
「本当にすみません」
振り返ると、通路に僕の両親が待っているのに気づいた。
父と母が僕に詰め寄る。
「悠太、何があったんだ」
「悠ちゃん、身体は大丈夫なの?」
「うん、僕のほうは平気だけれど……」
隣の部屋から、あの女の子と、もう一人、女性が出てきた。
その女性は、ひと目見て、親子だとわかるくらい、あの女の子に似ている。
僕の両親と同じ四十代後半ぐらいだろうか。美人の女の子と同じく、母親も美麗なマダムだ。
女の子の母親らしい人が、警察の人と話している。
「萱島さん、いたずらも、ほどほどにしてくださいね。もうこんなことはしないでと、お嬢さんにも、しっかり言い聞かせてください。今回は萱島コンツェルンの創業家のお嬢様ということで、身元も確かな方ですし、上からの指示があり、この件は不問となりましたが」
「申し訳ございません。この度は、娘が大変ご迷惑をおかけいたしました」
女の子の母親が、刑事たちに謝っている。
「芽衣も、ちゃんと謝りなさい」
「本当に、ごめんなさい」
母親にせつかれて、女の子も平謝りしている。
僕は、萱島コンツェルンという名前を耳にして驚いた。
萱島コンツェルンといえば、自動車、船舶、航空、宇宙事業、医療機器、精密機械、食品、通信、金融他、ありとあらゆる業界に通じる財閥だ。
あの女の子は、超お嬢様だったのか。
とても気さくな女の子だったので、人は見かけによらないものだと、僕は、ひとりごちた。
僕の顔を見て、女の子が駆け寄ってくる。
「さっきは、ありがとうございます。ご迷惑おかけして、本当にごめんなさい」
「本当にびっくりしましたよ。そんな理由があったなんて」
女の子が神妙な表情をする。
「いえ、違うんです。本当はもっと切迫した状況なんです。今ここでは話せない事情もあって。でも、悠太さんには、どうしても聞いてもらいたくて。もしよければ、LINE交換してもらってもいいですか」
「ええっと、まぁ、いいですけど」
僕は、訳がわからないけれど、目の前の女の子が、切実な表情をしていたので、納得せざるを得なかった。
「じゃあ、後から連絡しますので、今はこれで失礼します。今日は悠太さんを巻き込んでしまって、ご迷惑をおかけして、本当にごめんなさい」
このあと僕は、さらに面倒なことに巻き込まれるとは、この時点では全く気にもしていなかったといえば、嘘になるけれど、【芽衣】と表示されるスマホ画面の名前をみて、こんな可愛い女の子と、LINE交換をしたということに、心は少し舞い上がっていた。
◇
帰宅後、お風呂から上がり、部屋に入ると、ベッド上の僕のスマホに、芽衣さんからメッセージが届いていた。
『今日はありがとうございます。今から話せますか』
着信は五分前だった。僕は返信した。
『さっきまで、お風呂に入っていました。お待たせてしてごめんなさい。今なら大丈夫です』
間を置かず、音声通話で着信が入った。
芽衣さんが、早口で喋りはじめる。
「いきなりごめんなさい。実はどうしても、相談したくて」
電話先の声が切迫しているようで、僕は気になった。
「今日のあの出来事は、何だったんですか。あのとき誘拐されたのは、本当は誰なのですか。あなた一人の自作自演ではないと、僕は思うのですが」
「やはり、気づかれてましたよね」
「ええ、髪型も服装も、あなたと妹さんとでは違ったし。誘拐されるまで一緒にいた妹さんと、後から来たあなたとでは、髪型と服以外にも少し違う気がしたんです。どう違うかというと、直感でしかなく、うまく説明できないんですけど」
「そうなんです。私も電話で簡単には説明できないんですけど。実は、私と結衣は、タイムトラベルで、未来から来た人間なんです」
突拍子もない話に、呆気にとられる。
「えっ、どう言うことなんですか?」
「こんなこと話すと、おかしなこと言ってると思われるかもですが、実は私は、現時点から一ヶ月後の時間軸から、タイムトラベルで来ているんです」
「ええっと……それも演劇サークルのお芝居の話ですか」
「そうじゃないんです。タイムトラベルの話を、警察へ説明すると面倒になるから、演劇サークルの話だと、咄嗟の嘘をついたんです」
「だとすると、本当は何なんですか」
「あのとき、私は、とある大事な用事で、今の時間軸から一ヶ月後の未来から来ていました」
「大事な用事とは何ですか?」
「悠太さん、あなたを未来から迎えに来たんです」
さらに突拍子もないけれど、こうなったら、最後まで話を聞いてみよう。
「僕にどんな用事があるというのです。仮にタイムトラベルを信じるとしても」
電話先の芽衣さんが、また、しどろもどろになる。
「えっと……悠太さんへの用事は、今は言えません。それよりも、妹の結衣が誘拐されてから一切連絡もないし。帰ってもこないんです。それで困っているんです。だから、誘拐現場で遭遇した設楽さんに、助けてもらいたくて」
「誘拐犯人に、心当たりはないのですか?』
「それが、犯人グループの正体も何もわからないんです」
「だったら、なぜ、あの後、警察へ相談しなかったのですか」
「未来から私が来たなんて、警察は信じてくれないでしょうし。もし、信じてくれたとしたら、タイムマシンも押収されて、私も元の時間軸へ帰れなくなるから」
「警察に迎えに来てくれた、芽衣さんのお母さんは、それを知ってるのですか」
「ええ、母には、警察を出たあと、結衣が誘拐されたことは打ち明けました。母は萱島の研究所でタイムマシンの開発をしていることも知っていて。警察署でも、私を迎えに来てくれたとき、事情を察したらしく、その場で、演劇部という私の嘘にも合わせてくれて」
「だったら、お母さんか、お父さんに助けを求めたらいいんじゃないですか。僕に頼られても、何もできないですよ」
「それが、母には何か理由があるらしく、私が未来から来たことは、父には絶対に打ち明けられないと言って、これ以上の深入りは、母も父もできないと言い張るんです」
「親なのに、こどもの一大事に助けにいけないだなんて。どうかしてますよ!」
僕は腹が立った。
「ごめんなさい。母には母の事情があるから仕方ないんです」
芽衣さんが悪くないのに、つい思い余って、怒ってしまったことを詫びる。
「僕のほうこそ、ごめんなさい。でも、これからどうするですか、僕たちだけでは、誘拐された結衣さんを探すなんて、到底無理ですよ」
「他に一人だけ頼れる人がいます。私がタイムマシンを借りた磯村さんという人なんです。萱島研究所の開発者なのですが、悠太さんも私と一緒に来て、磯村さんに会っていただけますか」
僕は、思わぬ方向へ展開する話に戸惑ったけれど、目の前で誘拐された女の子が帰ってこないと知ったからには、もう無関係ではいられなくなった。
「わかりました。すぐに出かける準備をします。どこで落ち合いますか」
「今じゃなくて、明日の朝五時に、京阪電車の出町柳駅にある、地下のコインロッカーの前で、いかがですか。そこにタイムマシンを預けているんです」
◇
翌朝五時少し前に、僕は京阪電車の出町柳駅の地下のコインロッカーの前に来た。
すぐに芽衣さんもやってきた。
芽衣さんが、手に持つモノを掲げて見せる。
「この機械で、私はタイムトラベルしてきたんです」
それは、フーテンの香具師が持ってるような、古びた本革貼りの四角い茶色の旅行鞄だ。
「えっ、僕には、ただの鞄にしか見えないんだけど」
僕は、タイムマシンといえば、未来的な乗り物だと思っていただけに、さっきまでの芽衣さんの話が、やはり演劇サークルのお芝居だったのではと思った。
「まぁ、見ててください」
芽衣さんは、人目を避けて、コインロッカーエリアの奥の物陰へ僕を連れていくと、マジシャンのような笑みをたたえながら、鞄を開けた。
「おおっ」
鞄の中身は見た目の予想に反して、SF映画に出てくるような先進的なインターフェイスだ。
「悠太さん、私のそばからは離れないでくださいね。このタイムマシンは、鞄の近くにいる人を一緒に転送できる仕様なんです』
「どのくらい近くの距離の人や、何人まで転送できるのですか」
「そこまでは、私もよくわからなくて、磯村さんに聞いてみないと。あっ、磯村さんが、これを開発した人なんですよ」
芽衣さんは、鞄の中身のコンソールパネルを操作する。
「転送の瞬間は、慣れるまでは、時空酔いするから気をつけてくださいね」
意味不明な呪文を三回唱え始める。
「スーパー カリフラワー グラタン エクスプレス ドンジャラ ギャース、スーパー カリフラワー グラタン エクスプレス ドンジャラ ギャース、スーパー カリフラワー グラタン エクスプレス ドンジャラ ギャース……転送!」
時空酔いとは、どんな感触なのだろうと思ったのも束の間、僕は慌てた。
まるで、こんにゃくゼリーに全身を包まれたような感触になる。
タイムトラベルの転送の瞬間、つい変な声を出してしまった。
「んあっ」
◇
タイムトラベルで転送されて来た場所は、さっきまでと同じコインロッカーの前だった。
「到着っ!」
目の前の芽衣さんは、敬礼のようなポーズをして、僕に微笑んだ。
「えっ、さっきと何も変わらないんだけど」
「たった一ヶ月だけのタイムトラベルですし、ここは駅の中のコインロッカーだから、大きな変化もなくて当然ですよ』
全身の感覚が戻ると、いきなり寒くなった。
「寒っ」
「こっちは一ヶ月後の冬ですから」
それで、芽衣さんは冬装束だったのかと納得した。しかし、これでは僕が風邪をひいてしまう。
「ちょっと待っててくれますか。ユニクロで、僕も冬物の服を買ってきますから」
「私も一緒に行きます。ここではぐれると、困るので」
僕らは、出町柳駅の地下から地上へと昇った。
目の前の高野川沿いのバス停に、ちょうど、北行きの京都バスが停車している。
急いで、バスへと乗った。
近未来へのタイムトラベルなので、お金などもそのまま使えるところが助かると、ふと僕は思った。
もし、通貨も異なる、もっと未来に行くとしたら、どうしたらいいんだろうと考えたけれど、そのときはそのときと思い直す。
四分間ほど乗車して、四つ先のバス停【高野橋東詰】で下車する。
目の前にある、ショッピングセンター洛北阪急スクエアへと足を踏み入れる。
ここならユニクロもある。お手軽価格で買い揃えられる。
僕がダウンジャケットなどを買い揃えているあいだに、芽衣さんも服を買っていた。
「いろんな季節に今後、タイムトラベルするから、四季に対応できる服も買い揃えておこうと思って」
「えっ、この後、何度もタイムトラベルするのですか」
芽衣さんは戸惑う。
「ええっと。説明はその都度しますね」
店内は秋冬物が充実していたけれど、僕も四季を通して着れそうな服を選んで、ひと通り買うことにした。
決済を済ませたあと、お店の試着室を借りて、冬物の服に手早く着替えた。
◇
洛北阪急スクエアから外へ出た。
「タクシー乗り場へ急ぎましょう」
芽衣さんが急かす。
僕は、買い揃えた二人分の服で満載の紙の手提げ袋を両腕に抱えて、芽衣さんを追いかける。
ちょうど客待ちのタクシーが停車していて、二人は乗りこんだ。
芽衣さんが、運転手へ行き先を告げる。
「油小路十条までお願いします」
タクシーは、市内を四十分ほど走り、目的地に着いた。
僕と芽衣さんは、萱島研究所の門の前に立つ。
とても広い敷地に、何棟ものビルが建っている。
芽衣さんは、タイムマシンの革の鞄を右手に提げている。
僕は、ユニクロの紙の手提げ袋を抱えている。
門の傍らに立っていた細身の背の低い守衛さんが、出迎えてくれた。
「芽衣お嬢様、こんにちは」
「須藤さん、おつかれさま。私が会いにきたと、磯村さんに伝えていただけますか」
「かしこまりました。内線でお伝えしておきます。お通りください」
さすが。萱島のお嬢様の芽衣さんは、守衛さんにも顔パスなんだ。
「磯村さんは、どんな人なんですか」
「会ってみたら、わかりますよ」
芽衣さんは、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
◇
研究室の扉を開けると、おでんの香りが漂ってきた。
「もう、磯村さん、また、研究室の器具で、おでんを煮てるでしょ」
食べてる最中の、おでんの串を、目の前でふらふら揺らしながら、白衣の男性が歩み寄ってきた。
頭髪は薄めで、額は禿げ上がり、人懐っこい、にこやかな笑顔で、年齢は僕の両親と同じ四十代後半くらいだろうか。
「ごめんごめん。それより、芽衣さんのほうは、どうだった。ちょうど煮れた、おでんでも食べながら説明してよ」
芽衣さんが、磯村さんを急かす。
「もう、おでんなんか食べてる場合じゃないのよ」
「どうしたんだ」
「結衣が、私の目の前で正体不明の黒塗りのワゴン車に誘拐されたの」
磯村さんは驚きつつも、自己紹介をしてくれる。
「なぜ、そんなことになったんだ。ところで、悠太くん。私は【磯村晴樹(いそむらはるき)】といいます。来てくれてありがとう」
自己紹介をする前から、僕は名前を呼ばれて驚いた。
「磯村さんも、なぜ、僕の名前をご存じなのですか」
磯村さんと芽衣さんは顔を見合わせ、戸惑っている。
「悠太くん、ごめん。これは芽衣さんには、先に話していたことなんだけれど、私が悠太くんを知ってる理由は、現段階では、まだ君には言えないんだよ」
僕は、また不安になってきた。
磯村さんが話しはじめる。
「とりあえず話を進めようか。芽衣さんと悠太くん、君たちは誘拐犯を見たんだよね。どんな雰囲気だったか、何か覚えてることはないのかい」
芽衣さんが説明しはじめた。
「私は遠目で目撃しただけで、よくわからないの。クルマはすぐに走り去って、私が駆け寄ったら、その場に倒れていたのが、悠太さんだったの」
「僕が見たのは、目出し帽の人たちと、その車のナンバーです。見たこともないような珍しい九桁の数字の並びでした」
磯村さんは、何かに気づいたようだ。
「九桁か。九桁のナンバーといえば、今の日本のクルマではなくて、かなり未来の世界から来たのかもしれない。そのまま大通りを走ると目立つだろうし、警察のNシステムにも引っかかるはずだ。悠太くんは、九桁のナンバーについては、警察には話したのかい」
「いえ、警察署では動揺していて、そのナンバーのことも、今、思い出したんです。すみません」
「いや、警察には言わなくて、正解だったかもしれない」
「なぜですか」
「九桁のナンバーといえば、私が以前に、タイムマシンのテスト段階で、いくつかの時代へ行ったとき、遠い未来で走ってる車のナンバーで見た記憶がある」
「未来のナンバーなんですか」
「そうなんだよ。もしかすると、その車は、未来からクルマごと、タイムトラベルして来たのかもしれない」
「それは、どの時代なんですか」
「調べてみないとわからないが、テストのときのレポートを調べてみれば、その記録もあるはずだ。他には何か覚えてることはないかい?」
「たしか、ナンバープレートの地名が【西京都】でした」
「【西京都】か。それを先に言ってほしかったな」
「どういうことですか」
「現在の京都府のナンバープレートには、西京都という地名が無いことは、悠太くんも知っているよね」
「ええ、京都市にある西京区なら知ってますすが、西京都は聞いたことがないですね」
「そのとおり。今から二十年後には、その西京区にあるJRと私鉄沿線エリアの景観条例の建物の高さ規制が大幅に緩和されるんだ。
それにより、西京区では、超高層タワーマンションが急増して人口も激増する。
二十七年後には、人口の増えた西京区が、京都市から分割され、西京区と隣の亀岡市が合併して、西京都市となるんだよ。
そして、その頃には、日本国内のクルマの数ももっと増えて、ナンバープレートの数字も九桁になって、西京都というナンバーもできるんだ」
「そうなんですか。だとすると、僕が観た黒いワゴン車は、少なくとも今から二十七年以上、未来の時間軸から来たクルマということですか」
磯村さんが、アゴに手を当てて考える。
「そういうことになるね。あとは、二十七年以降の正確な年数までわかるといいのだけれどね」
芽衣さんが答えた。
「私が今、二十一歳だから、二十七年後といえば、四十八歳になっている時間軸なのかしら」
僕も考える。
「四十八歳だと、僕の父の年齢と同じ歳かも」
芽衣さんも同意する。
「私の父も悠太さんのお父様と同じ歳ね」
「そうなの?」
「ええ」
芽衣さんが思いついた。
「あっそうだ。タイムマシンで、私が二十七年後に行ってみたらどうかしら。磯村さん、いいでしよ」
「うーん、そうだね。悩んだときは行動あるのみ。何か見つかるといいんだが」
僕の都合など、おかまいなしに、二人は勝手に話を進めている。
僕は悩んだけれど、二十七年後の僕の未来が、どんなことになっているのか、興味を持った。
「じゃあ、僕も一緒に二十七年後に行ってもいいですか。未来の自分にも会ってみたいですし」
磯村さんが、困った顔をする。
「ええっと、それはだめだよ。悠太くん」
僕は不思議に思った。
「なぜ、ダメなんですか」
磯村さんは頭を掻いている。
「それはだね、ええっと……」
磯村さんは、何かを隠しているみたいに思える。
見かねた芽衣さんが話を続ける。
「悠太さんは、タイムトラベルの映画を観たことあるかしら」
「うん、観たことあるけれど。それがどうしたの」
「たとえば、過去に行って、歴史を変えてしまうと、その後の未来が変わってしまって、大変なことになるという有名な話よ」
「ああ、たとえば戦国時代へ行って、織田信長に【本能寺へ行くと危険ですよ】と進言すると、その後の未来が変わるという喩えだね」
「そうそう」
「でも、今から行くのは、過去ではなくて、未来だよ」
「そうよ。でも、もし、今の悠太さんが、未来の悠太さんに会って、未来の悠太さんから、何らかの知識を得てしまったら。今の悠太さんは、その話を聞いてしまったことになり、それ以降の考え方も行動も変わってしまうじゃない。その心配があるのよ」
「僕が未来の知識を得て、考え方や行動が変わると、なぜダメなの」
芽衣さんは言葉に詰まる。
「ええっと。もし、悠太さんの二十七年後、頭の毛が薄くなっていたら、悠太さんはショックを受けるでしょ。それを知ったことで、その後の悠太さんの気持ちにも変化が生じて、悠太さんの人生の行方にも影響が出るの」
タイムトラベルの映画の喩えのはずが、なんだか、変な喩えになってきた。
「今から行くのは、四十八歳の僕のいる未来だよね。四十八歳だと、さすがにそれはないでしょ。僕の父も祖父も、まだ頭髪は薄くないし」
芽衣さんは曖昧に答える。
「それは単なる喩えよ。悠太さんの髪が薄くなるかどうかは、さておき。ええっと。難しい話は、やはり、磯村さんに任せることにするわ」
磯村さんは、鼻頭を掻きながら、しどろもどろに言う。
「悠太くん、まあ、難しい話は、これぐらいにして、先に食事をしないか。お腹も減っているだろう」
芽衣さんも磯村さんに同調した。
「そうね、スープは冷めないうちにと、いうじゃない。先に悠太さんは、磯村さんと、ごはんを食べて待っていてくれるかしら。私は、ちょっとトイレに行ってくるから」
僕は話しを聴きたいのに、磯村さんは、食事で、ごまかそうとされてるし。
芽衣さんも、食事の前にトイレに行くと、わざわざ言わなくてもいいのに。
何がなんだか、よくわからない人たちだ。
今さらだけれど、本当にこの二人を信用して大丈夫なのかな。
でも、タイムマシンの主導権は、二人にあるのだから、ダメと言われたら仕方がない。
「とりあえず、わかりました。食事しながら、磯村さんから、もう少し詳しく話を聞かせてもらうことにします」
芽衣さんも笑顔に戻る。
「そう、じゃあ、行ってくるね。すぐ戻ってくるから、先に食べてて」
芽衣さんは、さっさとトイレへ行くと言って、この場から去ってしまった。
僕に説明をしなくてはならなくなった磯村さんは、歯切れの悪いままだ。
そのとき、僕のお腹が鳴った。
その音を聞きつけて、磯村さんが笑顔に戻る。
「悠太くん。説明は、さておき、社員食堂へ行こう。ご馳走するよ」
◇
トイレに行くと言って逃げたのかもしれない芽衣さんのことは置いといて、僕は磯村さんに連れられて、同じ棟にあるという、社員食堂へ行くことになった。
僕は一ヶ月前からタイムトラベルしてきたから、正確には、あれから何時間たっているのかはわからないけれど。空腹感を感じて、ずっと何も食べてないことを思い出した。
さっきの目の前の研究室のおでんの香りで、食欲をそそられたのかもしれない。
しかし、その研究所の備品でつくられたおでんではなく、ちゃんと社員食堂で食事ができるとわかり、僕は安心した。
「すみません。ご馳走になります。おでんの匂いで、急にお腹が減りましたよ」
社員食堂のメニューを見ながら、さっきまで、しどろもどろだった磯村さんが笑顔で、僕に聞いてくる。
「悠太くんは、和食、洋食、中華、どれが、好きかな」
「そうですね。オススメはどれですか?」
そのとき、僕の背後から声がした。
「やっぱり、カレーよね!」
振り向くと、芽衣さんが、僕の背後から肩越しにメニューを見ていた。
「ただいま! 悠太くん」
磯村さんが、芽衣さんにたずねる。
「おお、おかえり。早かったね」
そのとき、芽衣さんのお腹も鳴る。
「ああ、二人の話を聞いていたら、私もお腹がペコペコなのを忘れてたわ。私も一緒に食べるわね」
僕は、さっきトイレへ行ったばかりの芽衣さんが、こんなに早く帰ってこれるなんて、まさに、あっという間に戻ってきたので、驚いた。
それと、気のせいか、トイレに行く前の芽衣さんと、今、戻ってきた芽衣さんには、何か違和感を感じる。
そういえば、さっきまで、芽衣さんは僕のことを【悠太さん】と呼んでいたけれど。今、目の前の芽衣さんは【悠太くん】と呼ぶし。人懐っこい性格の人かもしれないけれど。
もしかして、芽衣さんはトイレに行くと言って、どこかへ、一人でタイムトラベルでもしてきたのかなとも思った。
よくよく考えてみると、未来へタイムトラベルするとき、行き先の時間帯も、戻る時間帯も、その都度、自由に選べるわけだから、急いでも急がなくても、結局、同じなのではと気づいた。
だから、結衣さんが誘拐されたという一大事にも関わらず、翌朝に待ち合わせの約束をしたりと、この人たちは、のんびりと事を構えているのかもしれない。
時間感覚が、わからなくなる。
でも、僕も、磯村さんと二人きりで食事をするよりも、芽衣さんと一緒に食事をするほうが楽しいと思い、さっきまでの、歯切れの悪い話については、この場では触れないことにしようと思い直した。
テーブルを挟んで目の前に着席した磯村さんが、僕にたずねる。
「悠太くんは、食べ物に好き嫌いはあるかい?」
「ええ、僕は、キュウリだけは苦手で食べられないんですけど。その他は、ほとんど大丈夫です」
僕の右隣に着席した芽衣さんが、うなずく。
「もう、悠太くんは、本当に昔からキュウリは嫌いだったよね」
「えっ、昔からって、なぜ、知ってるのですか」
芽衣さんが硬直する。
「ええっとっ」
磯村さんが、また鼻頭を掻いて、しどろもどろに言う。
「そういえば、先週から、インド料理もメニューに入ったの思いだした。悠太くん、本格派のカレーライスは好きかい。業務用のレトルトじゃないよ」
僕は、世の中にカレーが嫌いな人はいないだろうと思いつつも、とりあえず、お腹が減っては戦もなんとかだし。
「カレーは大好きですが、辛口だけは苦手なんです。ここのカレーは辛くはないですか?」
芽衣さんが、アイコンタクトしながら、磯村さんをせっつく。
「あるよね、磯村さん」
磯村さんは、わざわざ、一度後ろ向きになってから、すかさず振り返いて、格好をつけて言う。
「あるよ」
なんだろう、この二人は。
僕は、このあとの行く末が、ますます心配になった。
◇
社員食堂というから、自動販売機で食券を買って、食堂のおばちゃんみたいな人が作ってくれる、ありきたりな風景を、イメージしていた。
しかし、ここは、むしろ、ドレスコードを気にするような高級感がある雰囲気だ。
周りを見渡すと、クールな表情で、濃いブラウン色のショートカットのヘアスタイルのメイド服を来た二十代前半ぐらいの女性が一人、近くで待機している。
白髭を鼻の下に生やした、まるでマンガに出てくるような執事姿の男性までいる。
メイド服の女性が話しかけてくる。
「芽衣お嬢様、磯村様、今日は何をお召し上がりになりますか」
「そうね。友里さん、スペシャルA定食をお願いします」
「磯村様は、いかがなさいますか」
「神宮寺さん、私にはスタンダードA定食を」
「かしこまりました」
さっきまでのカレーの話は、どこへ行った!?
芽衣さんが、神宮寺さんへ、僕を紹介してくれる。
「神宮寺さん、この方は、設楽悠太さん。私の大切なお客様なの」
神宮寺さんが、僕にたずねる。
「私、【神宮寺友里(じんぐうじゆり)】と申します。悠太様は、何をお召し上がりになりますか」
メニューも何もないので、僕は、とりあえず、さっきの話のカレーライスをお願いすることにした。
「カレーライスをお願いします」
「カレーライスとライスカレー、どちらがよろしいでしょうか」
「ええっと。どう違うのでしょうか」
神宮寺さんが、僕の戸惑う表情を見て、ぷっと笑う。
「失礼しました。どちらも同じですよ。ほんの冗談です」
僕は、どう答えたらいいんだ。
芽衣さんが笑いを堪えている。
「友里さんは、初対面のお客様には、いつもこんな冗談をいうのよ。夏には、流しそうめんと、そうめん流し、どちらがよろしいですか。なんて聞いてくるんだから。友里さん、悠太さんには、スペシャルカレーライスでお願いね」
なんだか、また勝手に話が進んでいく。
「かしこまりました。芽衣お嬢様」
◇
運ばれてきた料理は、芽衣さんのはスペシャルA定食、磯村さんのはスタンダードA定食という名前だったけれど。どちらの定食にもカレーライスがついている。
芽衣さんのも磯村さんのも、カレーライスの中身の具は、見たところ、特に変わらず、単に盛ってある量の違いのようだ。
僕は思ったことを口にする。
「スペシャルとスタンダードというから、何か、もっと違うものだと思いました」
芽衣さんが得意げに説明する。
「うな重で、【上】とか【並】とかあるでしょ。あれも、うなぎの質はどちらも同じで、量が違うだけなのよ」
「へえ、知らなかったです。てっきり、上のほうが、美味しいうなぎなのかと思ってましたや」
「そうなのよ、不思議でしょ。私は大食いだから、いつもスペシャルを頼むの」
磯村さんよりも、芽衣さんのほうが大食いなことのほうが、僕には驚きだ。
僕のスペシャルカレーライスは、ひと口食べてみると、不思議なお肉の味がした。
芽衣さんが聞いてきた。
「悠太くん、味はどう。美味しいでしょ」
「味はともかく、お腹いっぱいになりそうな量ですね」
「そうかしら。私なら、その一・五倍の量でちょうどいいわよ」
僕には、芽衣さんが大食漢だということには触れないほうがよいと思った。
「これは、ビーフカレーですか、それともポークかチキンですか」
磯村さんが答える。
「それは【謎肉】という代替タンパク質なんだよ。ウチの研究所で開発したんだ」
何由来の肉なのか、心配になり、スプーンの手を止める。
「もう、磯村さん、また、そんな冗談を言って。悠太くん、困ってるじゃない」
「ごめんごめん。悠太くん、それは普通の牛肉のカレーなんだよ。スペシャルな香辛料を使ってて、そんな風味なんだよ」
「はぁ、そうなんですか」
磯村さんは、冗談を言ってるような顔をして答えてるけれど、本当に牛肉なのかなと思いつつ、食べることにした。
そのスペシャルな香辛料というのも、何なのか気になるけれど。もう聞かないでおこう。
「ところで、芽衣さん、さっき言いかけた、【僕がキュウリが嫌いなこと】なぜ知ってるのですか」
磯村さんが、芽衣さんの顔を見て、仕方ないとばかりに話し始めた。
「悠太くん。これは本当は、君の身の上の話に関わるから、言いたくなかったんだけれど」
「どうしても気になるんです。さっきの神宮寺さんとのやりとりもですが、代替タンパクの話など、冗談みたいな話ばかり続いて、話を逸らそうとされてるのはわかるのですが」
「気づいてたのか」
「当たり前じゃないですか」
「ごめんごめん」
悪ぶることなく、磯村さんが謝る。
見かねた芽衣さんが口を挟む。
「悠太くん、驚かないでね。これから言うこたは、あなたには信じられないことかもしれないけれど」
「今までも信じられないことばかりですし。それに、ここまで聞いたら、引くに引けないですよ」
「あのね、悠太くん。実は、私と悠太くんは、未来の世界では、夫婦なの」
「ええっ!」
思いもよらぬ告白に驚く、僕に構うことなく、芽衣さんは淡々と話しを続ける。
「タイムマシンの存在を知ったとき、未来の世界を見たくて、磯村さんに無理を言って、私は未来の世界を見てきたの。今から三十年後の世界なんだけど、その世界では、あなたと私は結婚していて、そのあと、こどもも産生まれたの」
ここまできたら、もう黙って聞くしかない。
「ここからが、本当に秘密にしたかったことなんだけど。その三十年後のあなたは、ある病気に罹っていて、余命宣告されている状況だったの」
なんだか、ライトノベルか、映画の話みたいになってきた。
「この話は、もちろん、追々、打ち明けていくつもりだったのだけど。まだ次期早々だと、磯村さんと話していたの」
僕は、余命宣告と聞いても、絵空事のような気分だったが、本当の話なら洒落にならない。
これも、さっきの演劇部の作り話だったらいいのにと思ったけれど。さっきもタイムトラベル体験した手前、もう信じるしかなく、どうでもいいやと思うことにする。
「それが、僕の未来の話だとして。昨日、目の前で結衣さんが誘拐されたことと、話が繋がらないですよね」
「その前に、この話からしないといけないわね。話は、結衣が悠太くんにサイゼリアへの道をたずねたときに遡るわね。実は、結衣と悠太くんが出会ったのをきっかけにして、そのあと起きる、とある出来事がきっかけで、悠太くんと私が親身になっていって、私と悠太くんのお付き合いが始まるの」
「妹の結衣さんと知り合ったのに、お姉さんの芽衣さんと、僕が付き合い始めるんですか?」
なんて、優柔不断で酷いやつなんだと、未来の僕を不審に思う。
芽衣さんと出会うきっかけが、どんな出来事なのか、それも僕は気になったけれど。
まさか、曲がり角を食パンをくわえた芽衣さんと僕が、ぶつかるなんてことはなさそうだ。
いや、違うじゃないか。
「今すでに、僕と芽衣さんと出会ってますよね。タイムトラベル的には大丈夫なんですか?」
芽衣さんが困った顔をする。
「そうなのよ。本来なら、結衣がサイゼリアまで、悠太くんを連れてきてくれないと困る段取りだったのよ」
「段取りですか?」
「ええ、そうなの」
芽衣さんも仕方なく認める。
磯村さんも、うなずいている。
僕は、結衣さんと駅前で出会ったのことも、目の前の二人の画策なのかもしれないと、今更、気づいた。
しかし、もう遅い。片足どころか、身体半分以上、もう浸かってしまっている感じか。
仕方ない。僕は質問攻めを開始した。
「その段取りでは、どう進行する予定だったのですか?
また、芽衣さんとは、サイゼリアでどんな出会い方をする予定だったのですか?
いや、そもそも、なぜ、一ヶ月後の未来から、わざわざ僕に会いにきたのですか?
タイムマシンなんて使わなくても、同じ時間軸の芽衣さんが、直接、僕に会いに来ればいいんじゃないですか」
芽衣さんが困り顔になる。
「同じ時間軸の私には、他にやらなければならないことがあったのよ。だから、一ヶ月後の私が代わりにというか……。
本来の段取りでは、最初の出会いは結衣に最後まで任せることにしていたのよ。
でも、結衣の具合が途中で悪くなったから……私が急遽、気絶した悠太くんの目の前に現れるしかなくなったのよ」
それでは、僕も納得がいかない。
「段取りを覆してまで、一ヶ月後から来た芽衣さんは、なぜ、僕の目の前に現れたのですか。
さっきの未来を変えてはいけないというルールからすれば、僕と結衣さんが出会う段取りが終わらないうちに、芽衣さんが僕と出会うと、そのあとの未来を変えてしまう心配がありましたよね」
「ええ。でも、これは、仕方なかったのよ」
「仕方ないって……」
磯村さんが話を受ける。
「これは、私から芽衣さんにお願いしたことなんだよ。そこで、未来の分岐点を変えることになっても、そのあと修正を加える行動をすることと、元来の【歴史が揺り戻す修正力】の反動も相まって、些細なことは影響もなくなるはずなんだ。
それ以前に、何度も計画を練り直して、悠太くんが三十年後の世界で病気にならないように、未来の分岐点を、どう改変すれば良いのかと、考えていたんだ」
「でも、未来の分岐点の改変だなんて、失敗すると、とんでもないことになるんじゃないですか。未来も過去も、やはり、いじらないほうがいいですよ」
磯村さんが神妙な表情になる。
「実は、未来の分岐点の検証は、これまでにも、芽衣さんにはタイムトラベルを、何百回も繰り返してもらって、さまざまな分岐点での改変を、何百回も試行錯誤してもらってきたんだ。
その結果を受けて、今回は、サイゼリアへ結衣さんに連れられて来た悠太くんと、芽衣さんが出会うシチュエーションで、試していたんだ。
今までも、何度も何度も、様々な時間軸で、芽衣さんは、悠太くんとの出会いを、やり直しているんだ」
「何百回もだなんて……」
僕は気が遠くなる。
「今の目の前にいる芽衣さんが、何百回も僕と会って、その度にやり直していたんでしょうか?」
芽衣さんが真摯な表情で、かぶりを振る。
「それは違うわ。今の私は、悠太くんと結婚することや、悠太くんの好き嫌いや性格などの情報は、前もって予習はしていたけれど、こうして悠太くんと出会うのは、今回が初めてなのよ」
冗談を繰り返していたときと違って、今の真摯な二人の表情をみて、僕は、この話だけは嘘ではないのだろうと信じることにした。
芽衣さんが続けた。
「それぞれの時間軸に、私は存在するの。一分、一秒、それぞれ異なるだけで、それぞれの時間軸に私がいる。
だから、その都度、その時間軸の私が、悠太くんには、異なるシチュエーションで出会ったの。
タイムトラベルで、何度やり直しても、今ここにいる私が、悠太くんと初めて出会うのは一度切りなのよ。
出会ったあとは、そのまま、その時間軸での人生を全うするのよ」
「だったら、なぜ、一ヶ月後の芽衣さんが、ここにいるのですか? あなたは一ヶ月前のこの時点での僕にも出会っているんでしょう?」
芽衣さんは、かぶりを振る。
「今の私は、一ヶ月前には、悠太くんには出会えなかったの。
でもその理由は言えない。ごめんなさい。
だから、今の時間軸の私も、今の悠太くんには出会えなかった。
だから、代わりに一ヶ月後の私が、ここへやってきて、やっと、今の悠太くんに出会えたのよ」
何だか、ややこしすぎる。
でも、考えれば、考えるほど、永遠に解けない騙し絵のパズルのように、キリはないのかもしれない。
今、目の前にいる芽衣さんの言うことを聞くほうが、今の僕には大事なことなのだろう。
「わかりました。ところで、本題の結衣さんを探す件は、どうするんですか? もしかして、結衣さんが誘拐されたことまで、芽衣さんたちの段取り通りではないですよね?」
芽衣さんは一瞬たじろぐ。
「そ、そんなわけないでしょ。それだったら、悠太くんに助けを求めたりなんかしないわよ」
「そうですよね。言いすぎて、すみません」
疑問は残るけれど、僕は謝る。
芽衣さんが話しを続ける。
「私が悠太さんと出会う前に、結衣が攫われてしまったのは、私も初めてで、想定外の事で、困って磯村さんに相談するために、いったん元の時間軸へ戻ろうとしたのだけれど。
誘拐現場で、気絶してる悠太くんが歩道から外れて車道に倒れたままでは、放っておくこともできなくて。
そのとき、悠太くんが目が覚めて、私の顔を見られてしまったから、どうしたらよいか、わからず、適当にその場しのぎで、双子だと言ったわけなの。本当にごめんなさい。危険な目にまであわせてしまって」
全部が嘘というわけではないのかもしれない。僕は、うなずく。
「そうだったんですが、だとしたら、お礼をいうのは、僕のほうですよ。ところで、結衣さんを誘拐した犯人たちについて、本当に、芽衣さんたちは、全くご存じないのですか」
「ええ、なぜ結衣が誘拐されたのか。単に、身代金目当ての誘拐なのか、それとも……」
芽衣さんが、考えに詰まり、言いにくそうにしていた。
磯村さんが続ける。
「悠太くん、これはまだ、私の推測の域なのだけれど。よくタイムトラベルの映画などで、タイムパトロールみたいな組織があるよね。もしかすると、そんな組織の類なのかもしれない。
あるいは、犯人のクルマが未来のナンバープレートなことなどから考えると、時空犯罪に巻き込まれたのかもしれない」
「時空犯罪とは、どういうものですか」
「普通の誘拐事件では、身代金目的などの理由があるけれど。時空犯罪は身代金目的ではなく、未来を都合よく改変して、未来の様々な相場などを意図的に操作して、たとえばインサイダー取引のようなことを画策している犯罪集団ではないかと、考えているのだけれど。なにぶん、未来の世界のことなので、推測でしかないんだよ」
「そんな物騒なこと、僕らだけで解決できないじゃないですか。やはり、警察に相談するほうがいいんじゃないでしょうか」
「タイムトラベルの研究自体が社外秘のことなので、警察に明かすことはできないんだよ。もし時空犯罪だとしても、現代の警察と法の下で対応できるとは思えない。
警察に通報することで、さらなる歴史の改変も起こるだろうし。タイムマシンは警察の管理下に置かれることになる。まずは私たちだけで、解決できないだろうか」
「そんなことを言っているあいだにも、人の命がかかってるんですよ。結衣さんに、もしものことがあれば、どうするんですか。それも歴史のやり直しで、対処できるというんですか?」
「悠太くん、さっきは説明しそびれたけれど、タイムトラベルの概念からすれば、時間の経過は、タイムトラベルで自由に時間軸を行き来できるわけだから、気にしなくても良いと思う」
「じゃあ、今すぐ、結衣さんが連れさられる少し前の時間軸へ、タイムトラベルしましょうよ。僕と芽衣さんで、結衣さんへ説明して誘拐されないようにしますから」
磯村さんは、考えた末、僕たちの横で話を聞いていた神宮寺さんへ声をかける。
「そうだね。では、神宮寺さん、一緒に準備に取りかかってくれないか。芽衣さんだけだと心配だから」
僕は戸惑う。神宮寺さんのことは、社員食堂のメイドさんだとばかり思っていた。
「悠太くん。神宮寺さんは、私の研究室の助手なんだよ。こんな服装を来て社員食堂でも働いてもらってるのは、私の意向というか……」
神宮寺さんが答えた。
「悠太様、私もコスプレの趣味があるので、自発的にお願いしたんですよ。本来の仕事は、芽衣お嬢様のお世話をする係なのですが、磯村さんのお手伝いもさせていただいております」
いったい何なんだ、この研究所の面々は。僕は、部屋の隅で待機している執事姿の男性を見て、磯村さんにたずねる。
「あの方も、もしかすると、研究所のスタッフさんですか」
「いや、あの方は【水戸野英治郎(みとのえいじろう)】さんといって。芽衣さんの祖父の萱島コンツェルン会長が、社長だった頃からの秘書で、今は芽衣さんのお世話係をされてるんだよ」
芽衣さんが煩わしそうに言った。
「お世話係というよりも、御目付役なのよ。私が何をするにも【お嬢様、それはいけません】と言うし。父も水戸野さんも、心配性で過保護すぎて困っているのよ」
磯村さんが言う。
「だけれど、芽衣さんは、今回のタイムマシンの実験も然り、今までから、何事も冒険家のようにチャレンジして、何度も失敗の窮地に陥ったとき、最後に助けてもらったのは、あの水戸野さんだったじゃないか。だから、僕も正直、水戸野さんには頭が上がらないんだよ」
僕たちの話も聴こえているはずだろうけれど。水戸野さんは、何も聞いていないというスタンスで、部屋の隅で待機したままだ。
「だったら、今回も、水戸野さんに助けてもらうのは、どうでしようか」
芽衣さんが言った。
「それが、お父様のこだわりというか、私の家系の不思議なところで、獅子は我が子を千尋の谷に落とすというのが家訓らしくて、失敗なくして成功なしと、水戸野さんも最初は何も助けてくれないのよ。でも、本当に困ったことになったら、すぐに助けに来てくれる、とても頼もしい方なの」
芽衣さんは、水戸野さんのことを煩わしいと言いつつ、頼りにしていることが充分にわかる。
僕は納得した。
「それじゃ、仕方ないですね」
神宮寺さんが芽衣さんを促す。
「芽衣お嬢様、支度部屋へ戻りましょう」
「ええ、そうね」
芽衣さんと神宮寺さんが扉から出ていくのを見送ると、磯村さんは僕に言った。
「じゃあ、悠太くん、研究室へ戻って、打ち合わせをしようか」
打ち合わせって、これから、僕は何をどうしたらいいのだろう。途方に暮れた。
◇
研究室に戻った僕は、どうしても納得がいかなかった。
「僕が三十年後に死ぬという話は、本当にそうなるのですか」
磯村さんは、鼻頭を掻きながら、困っている。
「現時点での悠太くんの運命は、そうとしか言えないけれど、私と芽衣さんが、それを回避したいと考えているのは、さっきも言ったとおりなんだよ」
「じゃあ、未来を改変できたら、僕は助かるんですね」
「理論上は、そうなると願ってはいるが、やってみないとわからないとしか言いようがないんだよ。さっきも言ったけれど【歴史が揺り戻す修正力】の反動もあるからね」
芽衣さんが神宮寺さんと一緒に研究室に戻ってきた。
芽衣さんは、さっきまでの冬物の服装とは一転して、夏物の半袖のブラウスとキャロットスカートに着替えていて、腰にはウエストポーチを巻いている。
身軽な服装に変わったからか、さっきまでと、また少し雰囲気が違って見えた。
今度は少し待たされた。すぐに戻ってこれた、さっきのトイレの時間は何だったんだろう。
「悠太くん、お待たせ。じゃあ行くわよ」
芽衣さんは、僕の気のせいか、さっきよりも、元気を取り戻しているようだ。
「うん、行こうか」
神宮寺さんが、ジェラルミン製のトランクケースを持ってきた。
トランクを開くと、さっきのフーテンの香具師の鞄型のタイムマシンと、中身のコンソールパネルは同じ様式だ。
磯村さんが、少し自慢げに説明をする。
「このタイムマシンの外側の鞄やトランクケースは単なる飾りなんだよ。あくまで見た目の違いだけで、季節やシーンに合わせて、外側だけを変更できる仕様なんだ」
僕は、さっきのフーテンの香具師の鞄が、シーンに合ってたかどうか、不思議に思ったけれど。磯村さんが多彩な趣味趣向を持っていることだけは、わかった。
「そういえば、タイムトラベルする瞬間の呪文みたいな言葉も、磯村さんの趣向だと聞いたのですが」
「ああ、あれは、呪文は本当は不要なんだ。いきなりタイムトラベルすると、近くにいる関係のない人まで巻き込んで、転送してしまう事故が起きる心配もあるから、芽衣さんには、あの呪文を唱えて、周りを確認してと言ったんだよ」
なんだか、よくわからない説明ばかりだけれど、磯村さんは、こんな感じの人なんだと納得する。
芽衣さんがコンソールパネルの設定を操作し終わったようだ。
「悠太くん、準備できたわ。こっちへ来て」
僕は芽衣さんの隣に立つ。
磯村さんが、僕たちから離れる。
芽衣さんが、呪文を唱え始めた。
「スーパー カリフラワー グラタン エクスプレス ドンジャラ ギャース、スーパー カリフラワー グラタン エクスプレス ドンジャラ ギャース、スーパー カリフラワー グラタン エクスプレス ドンジャラ ギャース……転送!」
転送される瞬間、全身がこんにゃくゼリーに包まれるような感触になる。
案の定、僕はまた転送の瞬間、変な声を出してしまった。
「んあっ」
◇
僕にとっては二度目のタイムトラベルだったけれど、あの時空酔いには、やはり慣れそうにない。
さっきは冬だったけれど、今度は急に汗が出始めた。
「今度は暑いね」
芽衣さんは、ものともしていないようだ。
「そうかしら、私は暑さにも寒さにも強くて、あまりよくわからないわ」
芽衣さんのことは、萱島グループのお嬢様と知ったときは、繊細な御令嬢なのかなと思ったけれど、さっきの社員食堂での大食いも然り、暑さ寒さにも平気だったりと、案外タフな人なんだなと見直した。
そんなことを考えてる僕の横で、芽衣さんは、スマホの地図アプリを見て思案している。
「おかしいわね。研究所でタイムトラベルしたから、そのまま二十七年後の研究所へ飛ぶはずだったのに。ここはどこかしら。この地図アプリも、この時代では反応していないし」
研究所のあった辺りは、建物もない空き地になっている。
「遠くの山々を見ると、同じ形に見えるから、同じ場所のようにも、僕には思えるけど。もしかすると、二十七年後の世界では、研究所が別の場所に移転しているのかもしれないね。とりあえず、付近を歩いて調べてみようよ」
「そうね」
僕と芽衣さんは、とりあえず、最寄り駅のあった方角を目指した。
以前なら、電車の線路の高架があったはずのところにも、その面影さえもない。
「困ったわね。駅や電車の路線まで、変わってしまったのかしら」
「最寄り駅の場所を、周りの人達に聞いてみてはどうかな」
二十七年後の世界でも、通りすがりの人々の服装は、僕のいた時代と大差がなかった。
しかし、スマホにBlutoothイヤホンではなく、メガネとヘッドホンが一体化したような頭部に着ける端末を、この時代の人々は使っている。
僕は、前から来た大学生ぐらいにみえる男性にたずねた。
「すみません、おたずねしたいのですが。最寄りの駅を探しているのですが、ここからなら、どういけば良いのでしょう」
男性は、僕と芽衣さんを不思議そうに見て、一瞬考えたのち、答えてくれた。
「ああ、地方から来た観光の方ですか、この街では、地上の高架を走る電車はもう廃線になっていて、すべて地下鉄に変わっているんですよ。
でも、地下鉄の路線は、街中を網羅してないので、目的地によっては、タクシーか公共の乗合バスのほうが便利ですよ。
バス停やタクシー乗り場なら、この先の角を曲がって、まっすぐ行ったところにあります。
どの方面へ向かわれますか?」
「ありがとうございます。萱島グループの研究所へ行きたいのですが、そのバス停からも行けますか?」
男性が少し訝しむ。
「ええっと、萱島グループの研究所といえば、たしか、十年ほど前に、グループが外資系の何だったかな、投資ファンドみたいなところに吸収されて、昔から近くにあった研究所は閉鎖して移転したので、この付近には、もうなかったと思いますよ」
驚いて、どう答えたらよいのか、僕が迷っていたら、芽衣さんが、笑顔で男性にお礼を言う。
「そうなんですか。私たち、この街へ来たのは久しぶりなの。そこのバス停へとりあえず行ってみますね。教えていただいて、ありがとうございます」
芽衣さんは、僕の背中の裾を引っ張って、早く行こうと促す。
「行こうよ、悠太くん」
僕は男性に会釈をして、お礼を言った。
「ありがとうございます」
「ええ、お気をつけて」
男性は、去っていく僕らを、しばらくのあいだ不思議そうに見送っていたけれど、隠れるように先の角をそそくさと曲がっていく芽衣さんの後を追いかけた。
芽衣さんが振り返って、僕を急かす。
「悠太さん、急ごう」
「どうしたの」
「さっきの男性、萱島グループという名前を聞いた途端、目つきが変わったでしょ。何か気になるのよ」
「そうかな、気のせいじゃないかな。僕には好青年に思えたけれど」
しばらく歩くと、人だかりが増えて、バス停とタクシー乗り場が見えてきた。
昔とは異なり、単なるバス停が立っているだけではなく、乗り換えなどに人が集まる大きなターミナルステーションになっていた。
「悠太さん、私から離れないでね」
芽衣さんは、萱島グループが外資系の投資ファンドに吸収された話を聞いてから、何か焦っているみたいに、僕には思えた。
「芽衣さんは、何度か、未来の世界にはタイムトラベルで来ているんだよね。今まで行った先の未来では、萱島グループは、どうなっていたの」
芽衣さんが不思議がる。
「それがおかしいのよ。さっき、研究所で、磯村さんも説明していたように、私がタイムトラベルを何度も繰り返した先では、研究所の場所もそのままで、いつもそこには磯村さんも居てくれて、特に問題もなかったの。もちろん、萱島グループの存在も、そのままだったから」
僕は考える。
「だとすると、この未来では、なんらかの歴史の改変が起きているのかもしれないね」
芽衣さんも考えている。
「ええ、さっきの男性も、萱島グループの名前を聞いた途端、なんだか、一瞬、嫌な印象を想起したように、私には思えたの。
もしかすると、この未来では、萱島グループ自体が、何か良くないことに巻き込まれているのかもしれないわ」
「もし、そうだとしたら、移転先の萱島の研究所を見つけても、頼れないかもしれない。不用意に近づくのは、むしろ危険かもしれないね」
芽衣さんは、思案の末、僕に伝える。
「とりあえず、この時代の私の自宅へ行ってみるわ。なにか手がかりを見つけないと」
「わかった。そうしよう」
僕らは、乗合バスで行くことにした。
タクシーだと、行き先を運転手へ告げるとき、さっきみたいに、変に怪しまれるのを避けたいからだと、芽衣さんは言う。
「とりあえず、バス停の路線図の案内パネルで、場所の位置関係を調べてみるわ」
古来からの観光の街ならではなのか、詳細な街の路線図が、バス停の横に大きく掲示してある。
それを見て、僕らは、行き先の検討をつけた。
幸い、大方の地名は、ほぼ変わりなく存在しているみたいだ。
街の真ん中を流れる賀茂川も、僕のいた時代そのままの位置で存在している。
「悠太さん、この系統のバスに乗れば、私の自宅のある下鴨へも行けるわ」
芽衣さんの自宅は、賀茂川デルタと呼ばれる、賀茂川と高野川という二つの川が合流する京都観光でも有名なところの近くにあるとのことだ。
僕はスマホを取り出し、時刻を確認した。
「バス停の時刻表によると、あと三十分くらいでバスが来そうだね。でも、バスの運賃はどうしよう」
芽衣さんは、バス停の案内パネルを見回している。
「あっ、ここに書いてあるわ。この時代では環境負荷を考慮して、タクシーやマイカー使用を自粛するためと、観光の街をアピールするために、公共交通機関のバスは無料で乗れると書いてあるわ」
「おおっ、ラッキーだ」
しかし、芽衣さんは考えあぐねている。
「でも、この時代のお金については、他にも必要になるかもしれないし。スマホ決済も無理だろうし、何か手段を考えないといけないわね。今までは、行った先の時代の磯村さんに会って、その時代の通貨を用意してもらっていたから」
周りを見渡すと、近くのビルの一階に【ブランド品買取り・古銭買取・金銀プラチナ……】と表記のある看板のお店がある。
バス停の案内パネルを眺めている芽衣さんの肩を叩いて、その店を指差す。
「古銭買取のお店が、そこにあるよ」
「珍しいわね。この時代にも、そんなニーズがあるのかしら」
「とりあえず、行ってみようよ。僕らの時代のお金なら、財布に入ってるし。換金できるかもしれないし」
店に入ると、店員は誰もいなくて、買取や販売は、店内に数台並んでいる自動販売機で行われていた。
僕らの他には客もいない。
店内の説明パネルによると、自動販売機のスキャナー部分にかざすと、様々な物品の査定を自動販売機がしてくれるとある。
僕は財布から、十円玉を出して、自動販売機のスキャナーにかざし、買取を試してみた。
自動販売機の表示パネルには、買取価格とともに、説明も表示された。
その買取価格を見て、僕は驚き、芽衣さんに小声で伝える。
「芽衣さん、この十円玉は、平成三十一年製で、令和元年になった年ので、平成三十一年製の硬貨は発行が少ないとのことで、硬貨一枚の買取価格が千円になるんだって」
「ええっ、そうなんだ。私も試してみるわ」
芽衣さんは、財布から渋沢栄一の肖像画の一万円札を取り出して、スキャナーにかざした。
自動販売機に、買取価格とともに表示される補足説明を読んでいる。
「うーん、これは、額面通りの一万円にしかならないわね。福沢諭吉のあと、渋沢栄一に肖像画が変わったけれど、渋谷栄一のお札は大量に発行されていて、その柄も不評で価値がないんだって。とりあえず十枚だけ換金するわね」
「ちょっと待って。今後、また違う時代へ、タイムトラベルするかもしれないし。もしものために、今は全部換金せずに、とりあえず二枚だけにしてみたら、どうかな」
「ええ、そうね」
とりあえず十枚というからには、芽衣さんの財布には、何枚の渋沢栄一が入っているのだろう。さすが、萱島グループのお嬢様だと実感する。
僕は、普段から財布に入れたまま、ずっと使わずに温存していた二千円札をスキャナーにかざしてみた。
「ええっ、この二千円札は、買取価格が五円だって」
「不思議ね。でも、そんなレアなお札を、悠太さんは、なぜ持っているの」
「僕の母方の祖先には、沖縄の血筋も入っているらしくて、それで、この沖縄の守礼門の柄の二千円札は、何気なく財布に入れたまま使わずにいるんだ」
「そうなんだ。何世代前のご先祖が沖縄なのかしらね」
芽衣さんは、僕の母方の祖先については熟知していないんだと気づく。
でも、何でもかんでも、調べ上げられていたら、それも気まずいけれど。
「詳しくは、僕もわからないんだ。おじいちゃんに聞いてみると、わかるかもしれないんだけど」
「じゃあ、また今度聞いてみてね」
「それが、おじいちゃんは、昨年亡くなったんだよ」
「そうなの、ごめんなさい」
芽衣さんが申し訳ない表情になる。
「いや、大丈夫。気にしてない。というか、タイムトラベルできるなら、生前の頃のおじいちゃんに会うこともできるかもしれないね」
「そうね。その手もあるわね」
芽衣さんは、寂しそうな顔をする。
僕らは、その他の硬貨やお札もスキャニングした。
とりあえず、この時代のお金に換金すると、二人合わせて、三万一千円分になった。
二千円札は換金額が少なすぎて残念なので、換金せずに財布に戻した。
僕の財布には、昔の硬貨や通称ギザジュウと呼ばれる十円玉などもあり、この時代では案外高値で換金できてラッキーだった。
この自動販売機は、換金の際には、現金の通貨ではなくて、換金分の額がチャージがされる非接触型のICカードが出てくるシステムだ。
僕のカードには、一万一千円分。芽衣さんのカードには、二万円分のチャージがされた。
ICカードの裏面の説明を読むと、いろんなお店の買い物にも使えるみたいだ。
僕と芽衣さんは、ICカードを財布に収めた。
「とりあえずは、これで大丈夫みたいだ」
「ええ、ところで、そろそろバスが来る頃ね。急ぎましょ」
◇
僕らはバス停へ戻り、ほどなく来たバスに乗った。
車内の様子は、運転手席にはドライバーが乗っていなくて、自動運転だ。
その他は、僕の時代のバスの車内と大差はない。
他の乗客は全員、さっき道をたずねた男性と同様に、頭部にツールを装着していて、それで、ネットなどを観ているのかもしれない。
八人ほどいる乗客全員が、自身のツールに没頭していて、仲間どうしに見える乗客どうしでさえ会話もせずに、静かに座っている。
吊り革もあったけれど、立っている乗客は、僕らの他には誰もいなくて、車内は空いている。
車窓から見える風景は、僕のいた時代と大差はなく、昔からの民家もたくさん並んでいるが、加茂川の付近までバスが来ると、川沿いに超高層ビルが増えてきた。
この時代の京都では、景観条例の建物の高さ規制が大幅に緩和されていると、磯村さんは話していたけれど。
目的地の下鴨の住宅街に近づくにつれ、付近の景観は、比較的、低層で敷地の広いお屋敷も多くなってきた。
目的地のバス停【下鴨神社前】に到着し、僕らは降車した。
◇
芽衣さんの自宅は、そのままの場所に、芽衣さんの知ってる通りの建物のままで残っていた。
この付近は、高級住宅街なのか、景観条例は緩和されていないようで、高層ビルの類は皆無で、二階建ての御屋敷ばかりが並んでいる。
「よかったわ。自宅まで無くなっていたら、手がかりがなくなるところだったわ」
「とりあえず、家の中に入ってみようよ」
「そうね」
芽衣さんは、顔認証のインターフォンへ向かいあった。しかし、何の反応もなかった。
「なぜかしら、扉が開かないわ」
芽衣さんは、ウエストポーチから取り出した鍵を使う。
「困ったわ、鍵も合わないわ」
僕は門を見て、不思議に思った。
「家の表札には【萱島】とあるから、この家が他人の手に渡ったとは思えないんだけど」
芽衣さんも、うなずく。
「そうよ、家の外観も、ここから見える庭の様子も、私の時代の自宅と全然変わってないし。インターフォンだけは、この時代のものに変わっているけれど。扉自体も昔のままだわ。鍵穴は変わってしまったけれど」
入口の前で、思案していると、行き交う通行人たちが、僕らを横目に、胡散臭そうに見て通り過ぎていく。
「ワンワン!」
犬の鳴き声がしたので、振り向くと、七十代くらいの高齢の女性が、こちらを見ている。
犬の散歩途中なのか、一匹のゴールデンレトリーバーをリードで繋いで連れている。
その犬が、芽衣さんを見て、吠えたようだ。
「こらこら、プリンちゃん、吠えたらダメよ。あらら、芽衣さんね、お久しぶり。お父様、お母様はお元気かしら」
女性から声を掛けられた芽衣さんは、跳び上がって喜んだ。
「あら、お向かいの高柳さんですね。プリンちゃんも大きくなって」
芽衣さんは、女性に挨拶をして、犬の頭を撫でている。
高柳さんも、芽衣さんとの久しぶりの再会に喜んでいるようだ。
「いえいえ、このプリンちゃんは、あの頃の子とは別の犬なのよ。先代のプリンちゃんは二十歳まで長生きしたのだけれと、もう亡くなっていて。このプリンちゃんは、二代目プリンちゃんなのよ」
「そうでしたね。高柳さん、ごめんなさい。つい懐かしくて」
「いえいえ、芽衣さんこそ、いつまでも二十代みたいにお若くて、羨ましいわ。どんなアンチエイジングの施術をしてらっしゃるのかしら」
しげしげと眺めてくる高柳さんに、芽衣さんは戸惑っている。
そうだ、僕らは、二十一歳の姿のままで、二十七年後の未来へ来ているんだ。知ってる人に出会うということは、こういう危険もあるんだった。
「えっと、それはまた今度おすすめしますね。ところで、この家は、今は留守なのでしょうか。ご旅行に出られてるとか。高柳さんはご存じないですか」
高柳さんは、一瞬、不思議そうな顔をしたけれど、元来のお喋り好きな人なのか、気兼ねなく、勝手に喋り続けた。
「芽衣さんは、ご両親がお住まいの北山の家からは出られて、御池の油小路にあるマンションで一人暮らしされてるはずよね。
うちの息子が、昔、越境通学していた御池にある学校も、芽衣さんのマンションのお向かいだと、息子から聞いたことあるけれど。
以前に、このお宅からご両親がお引越しされるときは、芽衣さんは、もう一人暮らしされてたんだったわね」
芽衣さんは戸惑いながら相槌を打っている。
「ええ、そうなんです。よくご存じですね」
高柳さんは、そんな情報をどこからきいたのだろう。それにしても、ひとりで、ずっと喋り続ける人みたいだ。
「この家は、今は誰もお住まいじゃないわよ。ずっと雨戸もシャッターも閉まったままだから。今も萱島さんの持ち家だそうだけど、
時々、ハウスキーパーかしら? 若い女性が出入りされてるだけで、お父様もお母様も北山ほうへお引越しされたと、私は聞いてましたけど。芽衣さんが代わりに、ここにお住まいになるの?」
芽衣さんは、高柳さんに話しを合わせている。
「いえ、久しぶりに、賀茂川へ来たので、近くなので、懐かしくて寄ってみただけなんです。事前に連絡もせずに、いきなり来たものですから」
「そうなの。この家も萱島家の方々が代々お住まいですし。てっきりそうかもと思ったのよ。
芽衣さんが生まれるずっと前には、お父様ではなくて、叔父様の持ち家だったそうだけれど。ほとんど海外に出張ばかりで、その頃は空き家同然だったわね。
そういえば、叔父様も随分前に、お亡くなりになったと、私は聞いてましたけれど。叔父様のお母様も、その後、行方不明になられたり、当時は大変でしたのよ」
そう言ったあと、高柳さんは首を傾げた。
「そういえば、芽衣さんのお父様と叔父様は異母兄弟でしたわね。
芽衣さんのお祖父様の最初の奥様が、お父様を生まれたあと、亡くなられて。そのあと再婚されて、叔父様が生まれたんでしたよね。うちも親戚が多いからわかるけれど、異母兄弟だと、いろいろ、お家も大変ですものね」
「ええ、私も叔父とは会ったことがなくて。お祖母様のことは、写真でしか知らなくて。この家も、近くに寄ったついでに、懐かしくて来てみただけなんです。街並みも、すっかり変わって、戸惑ってまして」
高柳さんが納得顔をする。
「そうだったの。たしかに、この付近も、すっかり様相が変わってしまって寂しいわね。
鴨川のあたりも、超高層マンションやホテルばかりになってしまったもの。まだこの付近だけは、私たち昔から住んでる者がたくさんいるから、この通り、昔のままの風情が残っているのだけど」
芽衣さんも笑顔で答える。
「そうですね、ここに来ると、私も子どもの頃が懐かしくて。高柳さんにも、お正月には、お年玉をいつもいただいてましたね。その節は本当にありがとうございました」
「いえいえ、そんなこと。うちの息子も、お父様から、お年玉をいただいてましたし。うちの主人が運動音痴だったので、主人の代わりに、芽衣さんには、息子の颯太と凧揚げや一輪車など一緒に遊んでもらいましたものね」
「ええ、私も子どもの頃には、息子さんの颯太さんとは、一緒によく遊びました。懐かしいです。颯太さんはお元気ですか」
「そうそう、颯太も今はね、英国に住んでおりますのよ。芽衣さんの叔父様はオーストラリアだったかしら?
叔父様も生前は、海外にお住まいだったはずよ。颯太も今は英国と日本の行ったりきたりだけれど、颯太も昔、オーストラリアに住んでいたのよ。
私は颯太のいるイギリスや、旅行で行ったフランスやイタリアなど欧州しか行ったことなくて、芽衣さんの叔父様が以前のお住まいのオーストラリアには、一度もまだ行ったことないのよ。あの国も素敵よね。行ってみたいわ。私も生きてるうちにカンガルーやコアラも見ておきたいわ」
お喋り好きな人は、どんどん勝手にいろいろ喋ってくれるから、ありがたいと、僕は思ったけれど、芽衣さんはどこで話を切ったら良いものか困ってるみたいだ。
「高柳さん、ありがとうございます。そろそろ、私たちも帰りますね。話の途中ですみません。久しぶりにお会いできて、私も嬉しいです。それでは失礼します」
僕と芽衣さんは、高柳さんに挨拶をして、芽衣さんの足元にずっと懐いてるプリンにも別れを告げて、この場を後にした。
◇
僕らは賀茂川デルタへ行き、河川敷に座って、一息つく。
「芽衣さんは、どのくらい、叔父さんのことを知っているの?」
芽衣さんは、ひと呼吸おいたあと、答えてくれる。
「正直、秋人叔父様のことは、私も生まれる前のことだから、よくわからないの。病気で亡くなったそうなんだけど」
「そうなんだ、でも困ったね。今の僕らには、他に行くところの当てもないし、芽衣さんのお父さんとお母さんが、現時点で住んでるという北山の家も、住所がわからないし」
「そうよね。かといって、あの場で、高柳さんに、両親の今の住所までたずねるのも、おかしいし」
「でも、この時代の芽衣さんのマンションは、御池の油小路にある学校の前にあると、わかったから。とりあえず、そこへ行ってみる価値はあるかもしれないね」
「そうね。でも、この時代の私自身には出会わないように、慎重に行動しないといけないわね」
◇
僕らはバス停へ戻った。
この時代のバス停は、時刻表が貼ってある代わりに、液晶画面が装備されていて、そのパネルを操作すると、目的地への乗換経路を検索できる仕様だ。
間もなく来たバスに乗り、僕らは御池の油小路の最寄りのバス停【堀川御池】で降車した。
「この時代の芽衣さんは、なぜ、ご両親の実家から出て、一人住まいをしてるのかな」
「そうね。私も、一人住まいよりも実家で過ごすのが気楽で好きだから、一人暮らしをするなんて発想自体が、不思議に思えるわ」
さっきのバスの車窓からは、人で賑わう河原町通付近には、超高層ビルもひしめきあっていた。
僕たちの今いる場所の近くにある二条城近郊は、景観条例の緩和がないからか、この時代でも、昔の街並みの様相も少しは残っている。
ビルの合間から、この未来の時代にそぐわない古来からある、昭和の時代の建築様式の学校が見えた。
芽衣さんも学校を指差す。
「あっ、学校が見えるわ。たぶん、あそこが高柳さんの行っていた学校かもしれないわね」
「そうだね」
バス停のある大通りを進み、一筋先で北へ曲がり、さらに西へ曲がると学校の校門があった。
校門の向かいには、洒落た装いの超高層マンションがあった。
芽衣さんは、マンションのエントランスを覗いたあと、僕に手招きをする。
僕も入口まで来た。
「だれかマンションを出入りする人にでも会えたら、便乗できるんだけど、どうかな」
そうこうするうちに、ネット通販の箱などを台車に積んだ宅配便の配達の男性が、エントランスへと入ってきた。
配達の男性は、独自のパスワードを持っていて、セキュリティ画面を操作して、マンションのエントランスへ入っていく。
僕たちは何食わぬ顔をして、配達の男性に便乗して、マンションの中へと入った。
宅配ボックスの前で配達の男性は、箱の宛名を観ながら、宅配ボックスへ収めていく作業をしている。
ふと、思いついたように、芽衣さんが配達の男性へ声を掛けた。
「いつもご苦労様です。上の階の萱島芽衣ですが、私宛の荷物はありますか」
男性は、箱の山から、萱島芽衣宛の荷物を探してくれた。
「ああ、ありました。これです。この荷物は日時指定のようですね。ちょうどよかった。受け取りのサインをいただけますか」
芽衣さんは男性に伝えた。
「ありがとうございます。今、私、これから待ち合わせで出かけるところなんです。また上の階へ戻ると、約束の時間に間に合わないので、そこの宅配ボックスへ収めておいていただけますか」
「了解です。では、ここへ収めさせていただきますね」
男性は、荷物の宛名の住所を見ながら、宅配ボックスに部屋番号を入力して、箱を収めた。
「ありがとうございます。助かります」
芽衣さんは、お礼を言うと、腕時計を見るふりをしながら、配達の男性がエントランスから出ていくのを見守っている。
芽衣さんが、僕に振り向く。
「よし、ラッキーね」
「たしかに、ここまでは入れてよかったね。でも、ここから先へは進めないよ」
先の扉にもセキュリティシステムがある。
一見したところ、顔認証とパスワードの二重チェックのようだ。
「あのね、さっき、私は、配達の人が宅配ボックスへ荷物を収めているのを見ていたでしよ」
「うん、でも、なぜ、そこであのまま荷物を受け取らなかったの」
「受け取るなら、ちゃんと、正式に身分を証明できるものを提示しないと、さすがに、あのまま受け取れないでしょ」
「たしかに。一軒家の入口越しならまだしも、マンションのような大勢の世帯のいる場合は、そうかもしれないね」
「そのあと、宅配ボックスへ収める瞬間を見ていたら、配達の人が、私の部屋番号【808】を入力するのが見えたのよ」
「あっ、そうか」
芽衣さんが微笑む。
「そうよ。今のここでの私の部屋番号は【808】なの」
「でも、部屋番号がわかっても、暗証番号がわからないんじゃ、入れないよ」
芽衣さん、自身の顔を指差して、僕にたずねた。
「私は、誰かな」
僕は、芽衣さんは、いきなり何を言い出すんだと思った。
「君は、萱島芽衣さんだよね。それがどうしたの」
「そうよ、私は【萱島芽衣】本人よ。今の時代の萱島芽衣も私自身よ。ということは、顔認証は大丈夫。
おそらく、この時代の私が普段使ってる暗証番号も同じなはずよ。私は、暗証番号は忘れるといけないから、すべて同じ語呂合わせの番号にしているのよ」
「そっか。同じ本人なら、同じ暗証番号のままなのも、ありうるね」
「そうよ、わかったかな」
芽衣さんが自信満々な顔をする。
芽衣さんが、エントランスのセキュリティ操作パネルに、部屋番号【808】を入力したあと、顔認証を行い、暗証番号も入力する。
「0・4・2・3っと」
エントランスの自動ドアが開いた。
僕は、暗証番号を口で唱えながら開ける芽衣さんことを、不用心な人だなと、心配になったけれど。よくよく考えると、僕と芽衣さんは、将来的に夫婦になるという話が本当なら、将来の同居者になる僕が横で聞いていても、芽衣さんは一向に気にしないのかもしれないと、思った。
しかし、番号の語呂の意味だけは気になる。
「芽衣さん、その【0423】の番号は、何の語呂合わせなの」
「これは、シェイクスピアの亡くなった日が四月二十三日だから、0423なの」
「芽衣さんはシェイクスピアのファンなんだ」
芽衣さんは笑って答えた。
「いえ、違うわ。シェイクスピアには何の興味もないわ。当時の思いつきで選んだのよ」
「そうなんだ」
やはり、僕には、芽衣さんの思考パターンが、よくわからない。
本当に、この人と僕は、将来結婚するのだろうか。
◇
僕らは、エレベーターに乗り、808号室の前に来た。
部屋の入口にも鍵があるはずだから、入れないかもと心配したけれど。
部屋の扉には、鍵穴は無くて、暗証番号を入力するボタンと、指紋認証と目の虹彩を認識するスキャナーがある。
三段階認証の扉なのかもしれない。
芽衣さんが、さっきと同じ暗証番号を入力して、指紋認証と虹彩認証も済ますと、ドアはあっさりと開いた。
僕は、芽衣さんに言った。
「部屋のドアは開いたけれど。未来の芽衣さんの部屋だから、このまま部屋にも入ってもいいのかな。不法侵入にならないのかな」
「私、本人の所有だから、いいんじゃない。もし防犯カメラに映っていても、私本人だし。年齢は違うかもしれないけれど。似てるんだから、管理会社の人も、親戚か何かだと思うんじゃない」
「うーん」
「悠太くんは心配しすぎだよ。その前に、ちょっと部屋の外で待ってて。私が先に入って、中の様子を見てくるから」
「なぜ? 一緒に入ったほうが、危なくないんじゃないかな」
「もう、悠太くん、ここは私の部屋だよ。もし、部屋の中に下着とか、いろいろ散らかってたら困るじゃない。私は普段、部屋を片付けられない人だから、たぶん今もそうだよ」
「ああ、そっか」
僕は照れてしまう。たしかに、異性の部屋へ、いきなり上がり込むのは、デリカシーなさすぎかもしれない。
でも、芽衣さん一人で入っても大丈夫なのかな。
芽衣さんが、部屋に入ってすぐ、僕を呼んだ。
「悠太くん、大変! 入って来て」
部屋へ入ると、芽衣さんは、奥の部屋から出てきた。
僕を奥の部屋へと引っ張っていく。
その部屋は寝室だった。
「もう、どうなってるのよ」
部屋の様子を見て、僕も驚く。
「なんなんだ、これは」
部屋のベッドのシーツや、壁や、窓のカーテンなどに、赤色のペンキのようなもので、走り書きの大きな文字で【私を探さないで】と書かれている。
部屋中、至る所に書かれてる文字は、すべて同じ言葉だ。
芽衣さんが、壁の走り書きを指差す。
「この走り書きの文字、急いで書いたみたいに荒れているけれど、たぶん、私の筆跡だわ。昔、書道イベント会場で、大きなサイズの文字を描いたことがあるの。そのときと同じような筆跡よ」
「もしかして、誰かが、ここへ来ることを、この時代の芽衣さんは、事前に知っていたのかな。でも単に伝えたいだけなら、机の上にメモの書き置きでも残せば良いだけなのに。なぜ、こんなことをしたのかな」
僕は部屋中を見渡した。走り書き以外は、特に荒らされた様子もない。
「部屋が荒らされているわけでもなさそうだし、誰かが部屋に侵入して物色したわけでもなさそうだね」
「そうね、でも、変なのよ。私の部屋にしては、整理整頓されすぎていて綺麗すぎるのよ」
僕は『そっちかよ』っと、つい、つっこみそうなったけれど、口には出さずにやめておく。
でも、芽衣さん本人が言うのだから、よほど、変な状況なのだろう。
芽衣さんは、部屋を見渡したあと、ベッドの下を覗き込むと、何か思いついたようだ。
「ああ、もしかして、母が私の留守の間に、この部屋に来たのかも。普段、散らかってるんだけど、今の私の部屋も、母が勝手に部屋の掃除をすると、こんな感じに綺麗に整理整頓されてることあるから」
「でも、お母さんとは限らなくて、他の誰かが掃除をしているのかもしれないよ。同居人がいたのかもしれないし」
そう言いながら、僕は複雑な気持ちになった。
将来、もし僕が芽衣さんと付き合っていたとしたら、僕は彼女の部屋を綺麗に掃除もしないだろうし、僕以外の他の誰かが部屋へ来ているのかもしれない。
もしかすると、歴史の改変が、ここでも起きているかもしれない。
そんな僕の気持ちには気づいてないようで、芽衣さんは淡々と言う。
「私は、いつもベッドの下には、何も物を置かないんだけれど、いつも母が掃除をすると、勝手にベッドの下に収納ボックスを置いて、部屋中に散らかってる物を整理整頓していくのよ。私はベッドの下には物を置くのは嫌いだから、もし他の同居人がいるとしても、そんなことは絶対にさせないし。そんな人とは同居もしたくないわ。でも、母だけは、いくら言っても聞いてくれなくて、困ってたの」
僕はベッドの下を覗き込む。
男の子なら、いろんなモノが隠してありそうな場所だけれど、今は、収納ボックスが置いてあり、綺麗に整頓されて、物が入っているだけのようだ。
男子でも女子でも、やはり、親にはベッドの下は、勝手に片付けてもらいたくないんだなと思った。
僕は思案して、芽衣さんに言った。
「だとすると、芽衣さんのお母さんが来たとして、もし、この走り書きを目にしたら、このまま放置するわけもないだろうし。おそらく、お母さんが部屋を掃除して帰られたあと、芽衣さんが帰宅して、ベッドの下の収納ボックスを除ける間もなく、急いで、走り書きをして、この部屋から出ていったのかもしれない」
「そうね、もし、母が帰ったあと、私が帰宅していたら『もう、お母さんったら、また』とぼやきつつ、収納ボックスは除けたはずだしね」
「でも、芽衣さん、本人の筆跡の走り書きだとすると、その場で誘拐されたというわけでもなさそうだけれど。なぜ、そんなに急いで、部屋から出る必要があったんだろうね」
芽衣さんも思案する。
「部屋に何か手がかりでもあるか、探してみるわ」
芽衣さんは、勝手知ったる他人の家、もとい、自分家か……思い当たる机の引き出しから、タンスの引き出し、クローゼット、収納スペースなど、部屋中を探し始める。
僕は、さすがに本人の部屋を勝手に物色するのは、憚られたので、どうしたものか迷ったけれど。目の前の机の上の手紙や封筒の束を見つけて、手にとった。
「芽衣さん、ここに携帯電話会社からの親展のダイレクトメールが来てるけど、芽衣さんは、今のスマホは、ずっと長年、同じ電話番号のまま、使い続けてるのかな。それとも、機種変更の度に番号も変えたりしてるの?」
「えっと、そうね。昔、スマホの機種変更したときも同じ番号のままだったから、でも、今もそのままの番号とは限らないわよ。もしかすると、未来のここでは、車のナンバーのように、携帯電話番号の桁数も増えているかもしれないし、だとしたら、わからないわ」
「芽衣さん、この親展のダイレクトメールの封書を開封してもらえないかな。僕が勝手に開けるわけにはいかないし。この中に、今の時代の芽衣さんの携帯番号が記載してあるかもしれないよ」
芽衣さんは、封筒の端を几帳面に、机の上に置いてある、筆記立てのハサミで、綺麗に開封した。
「ああ、あったわ。新機種への機種変更の割引セールクーポンに、この時代の私の携帯電話番号も印字してある。番号の桁数も昔と同じままだわ」
「じゃあ、その携帯電話へ、試しに電話してみないか」
僕は、その他の手紙や封筒なども一通り目を通して、目ぼしい物だけを、芽衣さんへ手渡した。
「とりあえず、この部屋の中は、ある程度、調べたし。外へ出てから、その番号へ掛けてみようか」
「そうね。ちょっと待ってて」
芽衣さんは、クローゼットから、二つのリュックバッグを出してくる。
さっき調べていたベッドの下の収納ボックスの中から、何かいろいろな物を取り出しては、一つのリュックバッグに詰めている。
もう一つのリュックバッグには、さっきの手紙の封筒の束を入れて、僕へと手渡す。
「なぜ、同じ型のバッグがあるの」
「えっと、私の癖で、気に入った鞄や服を買うとき、つい、スペアで、同じ物を買ってしまうの」
「そうなんだ」
僕も、ユニクロなどで服を買う時、気に入った柄ので、同じものを二着買うことがあるけど。芽衣さんもそうなんだなと、妙なところで共感した。
僕らは部屋から出て、エレベーターで降り、エントランスから出ようとして、ふと思い出した。
「芽衣さん、さっき、宅配便の人が宅配ボックスへ入れてくれた荷物。もし、よければ、出して見てみるのは、どうかな。少しでも手がかりがほしいし」
「ええ、まぁ、私宛の荷物ではあるのだけど。悠太くんの前で、箱を開封するかどうかは悩むところね。下着とかだったら恥ずかしいし」
芽衣さんは、さっきの暗証番号を入力して宅配ボックスを開けて、荷物を取り出した。
「悠太さん、この荷物、母からだわ。宛名のところに、母の今の住所も書いてあるわ。「【京都市北区北山……】さっき、高柳さんが言ってた北山の住所かもしれないわ。電話番号も書いてある」
「その住所と電話番号を、とりあえず、メモにでも書いておこうよ」
「そうね」
さすがに箱の中身まで開封するのは、どうかと思ったのか、芽衣さんは、箱は開けずに宅配ボックスへと収め直した。
僕らは、マンションを出て、さっきのバス停まで戻った。
さっきの携帯電話番号へ電話をかけるために、付近に公衆電話がないか探したけれど、見つからない。
「ダメもとで、僕のスマホで掛けてみようか。でも、この時代でも、そのまま5Gのスマホが使えるかはわからないけれど」
上着のポケットからスマホを取り出す。
「あっ、僕のスマホは、いちおうアンテナ表示が生きてるよ。掛けてみるね」
「ええ、お願い」
電話は繋がった。でも、コールの直後、留守番電話メッセージの自動音声に切り替わった。
とりあえず、タイムトラベルのことは伏せて、自分の名前だけを留守番メッセージに残すことにした。
「設楽悠太です。芽衣さん、もしよければお返事待ってます。よろしくお願いします」
僕らは、取り急ぎ、芽衣さんのお母さんの家へ行くことにした。
さっきのバス停まで戻り、バス停の路線案内の操作パネルで、住所から検索する。
目的地には【松ヶ崎】のバス停が表示された。
「ここから、バスを一回乗り換えて、五十分ほどかかるらしいよ」
「とりあえず、行ってみるしかないわね」
僕らは、ほどなくして来たバスに乗った。
◇
僕らは、バスを乗り換えるために【出町柳】のバス停で降車した。
間近に見える賀茂川の景色を眺める。
「ああ、さっきの賀茂川デルタに戻ったね」
「ええ、ふりだしに戻った感は否めないけれど、今の母のいる家の住所がわかっただけでも、かなりの進展ね」
「そうだね。あっ、ちょっと待って」
僕はスマホを取り出すと、着信通知をみつけた。バスに乗ってる間に、メッセージの着信があったようだ。
「さっき掛けた芽衣さんのスマホから、メッセージの着信があるよ」
「なんて書いてあるの」
「えっと、【この悠太くん、君は何年前から来たのかな】と書いてあるよ」
「えっ、やっぱり、私たちがタイムトラベルで来ることを、今の時代の私は知ってるってことよね」
「そうかもしれないけれど。メッセージのこの文面だけでは、わからないよ。返信をするね」
僕はメッセージ画面に【僕は二十七年前から来ました。今、僕の横には、二十六年十一ヶ月前からタイムトラベルで来た芽衣さん本人も一緒にいます】と入力して返信した。
しばらく待つと、またメッセージで返信の着信があった。
「あっ、返事が来たよ。【了解。また後ほど連絡するわ。でも、電話は音声では掛けてこないでもらえると助かるわ。何かあればまたメッセージで連絡して、お願い】と書いてある」
「電話には出られない状況なのかもしれないわね。とりあえず、連絡ができるだけでも、安心したわ」
「そうだね。あっ、次のバスが来たよ」
僕らは【松ヶ崎】行きのバスに乗った。
◇
僕らは、バス停【松ヶ崎】で降車して、芽衣さんのお母さんの家へと向かう。
僕のスマホが、この時代でも最低限の機能は使えるとわかり、地図アプリを起動する。
この付近は、二十七年前の地図と比べても都市開発による区画整理なども行われてなくて、街並みもほとんど変わってないようだ。
お母さんの家の場所もわかり、歩いていくと、すぐに辿り着いた。
「ここみたいね。【萱島】の表札もあるし。母が在宅だといいのだけれど」
芽衣さんがインターフォンを押す。
「留守かしら、誰も出ないわ」
何度もインターフォンを押すけれど、反応がない。
「そうだね。もうしばらく、待ってみてはどうかな。他に行くあてもないし」
「そうね」
◇
夕陽も暮れ、辺りは暗くなってきた。
芽衣さんも諦めたようだ。
「誰も帰ってこないわね。このまま待ってても、今日は無理かしら、明日朝、あらためて来てみましょうよ」
僕は途方に暮れた。
「明日まで、どこで待つの」
「近くにビジネスホテルでもないか、探してみるわ」
「そうだね、ここで待ってても仕方ないし、明日また出直そうか。今日は歩き使われてクタクタだよ」
芽衣さんはスマホで検索して、近くのビジネスホテルを見つけた。
「近くに、シングル二部屋予約できるところがあるわ」
「えっ、ここの時代に泊まるのかい。元の時代に、いったん戻ってもいいと、僕は思うんだけれど」
芽衣さんは即答する。
「でも、元に戻るには、タイムマシンのある駅のロッカーまで戻らないといけないし、今からじゃ、さらに夜遅くなるから、バスもなくなるかも」
「うーん、そうだね。予約してしまったのなら、今更キャンセルできないし、とりあえず行こうか」
相談もなしに、一方的にホテルを予約するなんて、芽衣さんは、せっかちだなと思ったけれど、仕方ないか。
さっきのバス停【松ヶ崎】にまで戻って、僕は時刻表を調べた。
「次のバスまで、かなり時間があるね」
「そうね。この距離なら歩いたほうが早いかしら」
「ちょっと距離があるみたいだけれど、仕方ないか」
すっかり暗くなった高野側沿いの歩道を歩いていた。
そのとき、スマホの着信音が鳴った。
一瞬、僕のスマホかなと思ったけれど。芽衣さんがウエストポーチの中からスマホを取り出して通知画面を眺めている。
この時代に、芽衣さんのスマホに連絡を入れることができる人物は、誰なのかなと、僕は思った
しかし、スマホ画面を、じっと見つめている芽衣さんの表情が焦っているようで、唯ならぬ感じがして、何も聞けない。
芽衣さんは、ふと思いついたように言う。
「悠太くん、ちょっとコンビニへ寄りたいの。ホテルに持っていく飲み物と、おにぎりを買って行くわ」
「そうだね、できるだけ、お金も節約したいし、コンビニで買っていくほうが良いかもしれないね」
◇
僕らは、道中、コンビニを見つけて入った。
芽衣さんは、ペットボトル飲料、おにぎり、パンなどの棚を眺めている。
僕は、この時代の情報を知りたくて、週刊誌でも買おうとしたら、この時代には、紙の雑誌やコミックや新聞も廃止されたのか、書籍コーナー自体がない。
タッチパネル式の電子書籍の売場になっている。
スマホをかざして、ダウンロードする仕組みだ。試してみたけれど、僕のスマホは昔の機種のままなので、対応してなくて諦めた。
芽衣さんが、まだ、おにぎりの陳列棚の前で迷っている。
「悠太くん、この時代には、珍しい飲み物、パン、おにぎりなども色々あるわ。おにぎりは中身の具がコオロギの佃煮だって。マンボウの赤身もあるわ。悠太くんは、どっちがいい?」
「えっと、マンボウので。それなら、僕らの時代にもマグロの代わりに赤身の寿司に使われていたから、僕も食べられると思う」
「じゃ、私はコオロギの佃煮ね」
おにぎりの棚を見ると、普通に紅鮭や梅干しやツナマヨもあるじゃないか。なぜ、そんなのを選ぶんだろう。
芽衣さんは、そのあと、小さな紅葉の葉っぱの形のモノが入っている、ペットボトルのお茶を選ぶ。
僕用には、桜の花びらの入ったお茶を選ばされた。
芽衣さんは、次々と、僕の希望とは真逆の商品を選んでいく。パンは、わさび醤油クリームパンと、生八つ橋パンを選んだ。
僕も生八つ橋パンを選ぶ。
しかし、パッケージ袋をよく見ると、アボガド餡入りの生八つ橋入りのパンだって。
芽衣さんって、味覚が独特なのかな。意外な一面も結構あるみたいだ。
さっきも社員食堂で、スペシャルカレーなんて言って、中身の具が謎な大盛りをガツガツ食べていたし。
コンビニを出ると、芽衣さんはウエストポーチから何かを取り出し、コンビニのレジ袋の中へ入れて、ガサゴソしていた。
「どうしたの」
僕がたずねると芽衣さんは、あたふたしながら答えた。
「コンビニで会計したあと、お財布どこに片付けたかなと、わからなくなって」
芽衣さんって、おっちょこちょいなんだな。
僕は鴨川へ振り返り、景色を眺めながら、芽衣さんが財布を探し終えるまで待っていた。
「ああ、よかった。あったわ。待たせてごめめんね」
「そっか、よかったね」
二十分ほど歩いていくと、ホテルが見えてきた。ビジネスホテルというよりも、瀟洒な佇まいの観光客向けのホテルのようだ。
「ここだわ」
「すごく豪華な雰囲気だね」
「僕らの手持ちのお金で足りるのかな」
「明日、お母様に会えたら、お金を借りることができるかもしれないし。大丈夫じゃないかな」
「そうかな」
僕は、明日、お母さんに会えるかどうかもわからないし、芽衣さんはお金の使い方にも無頓着なのかなと思ったけれど。萱島コンツェルンのお嬢様なら、この程度は当たり前なのかなとも思い直した。
ホテルのフロントでチェックインを済ませて、エレベーターに乗り、それぞれの部屋の前に来る。
また、芽衣さんのスマホが鳴った。
芽衣さんはスマホを取り出して、通知画面を眺めている。
この時代に、芽衣さんのスマホに連絡を入れることができる人物は、いったい誰なのかなと、また僕は思ったけれど、真剣な表情でスマホ画面を眺めている芽衣さんを見て、じっと待ってるいのも失礼かなと思い、部屋の鍵を開けようとした。
芽衣さんは、スマホをウエストポーチへしまうと、部屋へ入ろうとしてる僕の手を引っ張っぱる。
「悠太くん、明日のことを相談したいから、とりあえず、それぞれの部屋で食事して、一息ついたら、後から悠太くんの部屋へ行ってもいいかしら」
「うん、わかった」
明日のことの相談って、何だろうと思ったし。スマホ画面をじっと見つめていた芽衣さんの表情が、さっき、コンビニ前でスマホの画面を見ていたときよりも、さらに焦っているようで、唯ならぬ感じがして、誰からの連絡なのかも、たずねたくなった。
芽衣さんと僕の部屋は隣どうしで、部屋へ入ってベッドに腰をおろすと、隣の部屋から、シャワーの音が聞こえてきた。瀟洒なホテルのわりに、部屋の壁は薄いんだなと、そんなことを思う。
芽衣さんがシャワーが終えて、僕の部屋へ来るまでに、コンビニで買った食事を済ませておこうと思い、おにぎりとパンを食べた。
マンボウの赤身の手巻き寿司は、普通に美味しかったけれど、アボガド餡入りの生八つ橋入りのパンは、美味しいといえるかどうか、不思議な味がした。
ペットボトルに桜の花びらの入ったお茶は、普通に美味しかった。
少し苦味もあるけれど、桜の花びらが、今の夏に季節外れだけれど。これには、京都らしさを感じる。
隣の部屋のシャワーの音はまだ続いている。
空腹を満たしたからか、街中を歩きまわった疲れが、どっと押し寄せてきて、ベッドに寝転がってるうちに、うとうとと眠ってしまった。
◇
脚元に重みを感じて、気がつくと、ベッドの上の僕の脚の上には、バスローブを羽織った芽衣さんが跨っていた。
「ええっ、芽衣さん、これは何の真似ですか」
「だって、何度、部屋のドアをノックしても返事がないから、心配になって、フロントの人に鍵を空けてもらったら、ぐっすり眠っていたから、悠太くん、歩き疲れてクタクタだと言ってたから、マッサージをしてあげようと思って」
「寝てる間に、こんなことされたら、驚くよ。先に起こしてくれたらいいじゃないですか」
「まあまあ、そんな怒らずに、リラックスしてね」
「ホテルの一室で、女の子と一緒にベッドの上なんて、リラックスできるはずないじゃないか」
僕は跳ね起きて、ベッドから降りようとしたけれど、芽衣さんに両太腿をつかまれていて、身体が動かない。芽衣さんって、こんな剛力だったのかと驚く。
「いったい、何の真似ですか」
芽衣さんが真剣な表情をして、顔を寄せてくる。
「悠太くん、私のこと好きでしょ。未来では夫婦なんだから」
「それとこれとは別だよね。僕はまだ芽衣さんのこともよく知らないし。まだ会ったばかりじゃないか」
「まあまあ、いいじゃない」
芽衣さんは、僕のシャツやパンツを脱がせ始めた。
「芽衣さん、ちょっとシャレにならないよ、やめてよ」
僕はベッドから降りようとしたけれど、芽衣さんが身体を乗せて、僕の身体を固定しているので、一切動けない。
なんて剛力、いや、怪力なんだ。
僕の言うことには構わず、芽衣さんは自身バスローブを脱ぐのに、紐をほどこうとしている。
さすがに、これはダメだと、僕は渾身の力で、芽衣さんの身体を押し退けて、身体を起こした。
僕と芽衣さんはベッドから転げ落ちた。
「芽衣さん、勘弁してください。僕と芽衣さんは、未来では夫婦らしいけれど。今の僕の気持ちとしては、芽衣さんは、まるで姉か妹みたいな感覚に思えるんです。親近感はあって、芽衣さんのことは決して嫌いではないけれど。こんなことをしたい相手とは、どうしても、僕には思えないんだ。本当にごめん」
芽衣さんは、はだけたバスローブの胸元を直して、涙をこぼし泣き始めた。
「やっぱり、私には無理だわ。悠太くん、ごめんなさい。こんなことして」
芽衣さんの泣き顔をみて、逆に、僕のほうがいたたまれなくなる。
「気持ちは嬉しいけれど、どうしても困るんだ。芽衣さんの気持ちを傷つけてしまったことには謝るけれど。もう、こんなことはしないと約束してくれるかな。でないと、もう一緒に行動できないよ」
芽衣さんは、泣きながら謝る。
「ごめんなさい。そういうことじゃないの。でも本当にごめんなさい」
僕は戸惑った。
「そういうことじゃないとは、どういう意味なの」
「ごめんなさい。それは今は言えないのよ」
芽衣さんは時々【今は言えない】と言うけれど。僕は、どうしたらよいものか、わからない。
「とりあえず、芽衣さんは、自分の部屋に戻ってくれるかな。僕は大丈夫だから、もう泣くのはやめて」
「そうね、そうするわ。本当にごめんなさい」
芽衣さんは、バスローブの紐を締め直して、泣きながら、部屋を出て行く。
直後に、隣の部屋のドアの開閉音が聞こえたので、僕も、ほっとした。
「なんだったんだろう。急にあんなことをしようとした芽衣さん。さっきまでは、そんな感じの人には思えなかったのに」
僕は、気を取り直して、シャワーを浴びて、お湯を貯めて湯船に浸かると、しばらく考えた。
お風呂から上がって、ベッドに腰を下ろすと、隣の部屋からシャワーの音が聞こえてきた。
その音を聞いてるうちに、また眠気が襲ってきた。
◇
翌朝、僕は先に起きて部屋を出て、フロントで待っていると、芽衣さんがエレベーターで降りてきた。
「悠太くん、おはよう。昨晩はごめんなさい」
「おはよう。もう、その話は大丈夫だから、気を取り直して、今日からまたよろしく」
「ええ、そうね」
芽衣さんは元気をなくしたままだ。
僕はいろいろ問い質したいことばかりで、ホテルで朝食を呑気に食べる雰囲気でもないと思ったけれど、昨晩のことは、これ以上、触れずにおいた。
とにかく、この時代へ来た目的を果たさないことには、元の時代へも戻れない。
僕らはホテルからチェックアウトして、昨日と同じバスに乗り、芽衣さんのお母様の家へと向かった。
バスの車内でも、芽衣さんは沈んだ表情のままだった。
芽衣さんに何があったのだろう。昨晩、スマホにかかってきた電話と関係はあるのだろうか。
◇
僕らは、昨日と同じ道のりで、芽衣さんのお母さんの家へ着いた。
インターフォンを押すと、若い女性の声ですぐに返答があった。
「芽衣お嬢様、おかえりなさいませ」
僕にも聞き覚えのある声だ。
「芽衣さん、この声は神宮寺さんでは?」
「そうね。友里さんの声だわ」
門の扉が自動で開くと、芽衣さんは、躊躇する間もなく、スタスタと入っていく。
急いで、僕もあとに続く。
外から見た通り、中の敷地は広くて、大きな庭だ。石畳の和風の庭を抜け、家屋の玄関扉の前まで来ると。またすぐに扉が開いて、神宮寺さんに迎えられた。
「お嬢様、おつかれさまです」
「友里さん、お母様は、いらっしゃるのかしら」
芽衣さんは、友里さんがここにいることよ事前にわかっていたようだけれど、僕には、の状況が飲み込めない。
「芽衣お嬢様、詳しい話は中で。お母様は、もう支度をしてお待ちです。悠太様も、どうぞ、お入りくださいませ」
芽衣さんが淡々と答える。
「とにかく喉が渇いて、お腹もペコペコなの。友里さん、私にはスペシャルカレーいただけるかしら」
「かしこまりました」
芽衣さんは、本当に食いしん坊だなと、しみじみ思ったけれど。それよりも、芽衣さんが、この時代の友里さんに対して、普通に会話している状況にも戸惑う。
それと、神宮寺さんは、いつどこにいても、用意周到なパーフェクト人間だなと感心した。
◇
僕は居間に通され、ソファに座って待った。
芽衣さんは、神宮寺さんと一緒に他の部屋へ行ったきり、まだ帰ってこない。
さっきまで、想定外のこと続きで、すっかり忘れていたけれど、スペシャルカレーと聞いて、僕も空腹なのを思いだした。喉もカラカラだ。
それにしても、神宮寺さんには、会えたけれど、芽衣さんのお母さんは、まだ出てこられない。
前に一度、警察署で出会ったときから年月を経て、僕にとっては二十七年後の世界だから、今だとおいくつなのだろう。
部屋の調度品の上には、写真立てがある。
僕は写真立てを手に取って見た。
芽衣さんに、とてもよく似た三十代くらいの女性が、笑顔の女の子と一緒に並んで、学校の校門前で撮った写真のようだ。
女の子は小学生くらいで、芽衣さんだろうか。親子ともそっくりで、さすが親子だなと実感する。
小学校の入学式だろうか。写真の色は褐色ががっていて、二人の服装も昔の時代を感じさせる。
写真自体は、電子式の表示パネルでもなくて、カメラ屋さんで、ごく最近プリントしたみたいな綺麗な状態の銀塩写真だった。
この時代にも銀塩写真プリントは残っているんだなと、しみじみ思った。
扉が開いた。
手に取った写真立てを元の位置に戻して振り向くと、芽衣さんのお母さんと、お盆にティーカップを持った神宮寺さんだった。
お母さんは二十七年前と変わらず、お元気で加齢を感じさせない美麗なマダムのままで驚く。
先日、警察署で初めてお会いしただけなのに、不思議と懐かしさを感じる。
さっき、昔の写真を見たばかりだからかもしれない。
「悠太さん、お久しぶりですね。といっても、二十七年前かしら。うふふ。お元気そうでなによりです。立ち話もなんですから、お座りになってくださいな」
僕が応接のソファへ座ると、お母さんは、笑顔を振りまいて、僕の向かいに座った。
神宮寺さんは、僕にはアイスティーを、お母さんにはアイスコーヒーのグラスを差し出してくれた。
お母さんが僕に勧める。
「外は暑かったでしょう。さあさあ、冷たいううちにどうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
僕はアイスティーを一口飲んだ。
そういえば、昨晩、ペットボトルの桜入りアイスティーを飲んだあとは、何も飲んでなかったな、喉がカラカラだと思いながら、アイスティーを一気に飲み干した。
「あれっ」
僕は急に眩暈がして、気が遠くなり、前屈みにテーブルに伏せてしまった。お母さんが咄嗟に僕の身体を支えてくれる。
「あらあら、どうなさったの。大丈夫かしら。大変だわ、友里さん、隣の部屋へお連れして介抱してあげてくださいな」
僕は神宮寺さんの両腕で抱え上げられ、お姫様抱っこで連れていかれた。
神宮寺さんも、芽衣さんと同じく剛力なんだなと、驚いたあたりで、僕は気を失ってしまった。
◇
夢の中だろうか、僕の前に、芽衣さんと結衣さん、そして芽衣さんのお母さんが並んでいる。三人とも僕に向かって微笑んでいる。
こうして眺めていると、芽衣さんと結衣さんは、お母さんにとても似ているなと、しみじみ思う。
「悠太くん、悠太くん……」
芽衣さんの声がした。
芽衣さんと結衣さんは双子だから、どちらの声も同じはずだけれど、なぜか僕には、その声が芽衣さんの声だとわかる。
言葉の語尾や話し方の高揚の違いなのだろうか。しばらくのあいだ、一緒に行動した時間が長いと、お互い会話をしていていても、芽衣さんの喋り方が、柔らかくなってきたからかなとも思った。
でも、眠くて、眠くて……。
繰り返し、僕は【夢から覚めない夢】をみていた。
夢のシーンが切り替わった。
僕は赤ん坊の身体になっている。
見上げると、父と母が、僕の顔を見下ろして、微笑んでいる。
でも、なぜか、父と母の顔がソフトフォーカスになっていて、顔がわからない。
「お父さん! お母さん!」
僕は夢の中で叫んだ。
父と母の顔がハッキリと見えてきて、安心して、眠りにつく。
「悠太くん、悠太くん……」
また、芽衣さんの声が聞こえる。
身体が揺れる。
「悠太くん、悠太くん……」
また、芽衣さんの声が聴こえる。身体が揺り動かされる。
◇
目が覚めた。僕の身体は、さっきまでの赤ちゃんの身体ではなく、元の身体だ。やはり、さっきまでのは夢だったんだ。
「悠太くん、大丈夫かしら」
芽衣さんが、僕の顔を覗き込んでいる。
目が覚めたばかりの僕は、芽衣さんと目が合った。
「お母様、悠太くんの目が覚めたわ」
「そう、よかったわね。友里さん、悠太さんのバイタルチェックをしてくださいな」
「かしこまりました。奥様」
目覚めたばかりで、まだ朦朧としていたけれど、神宮寺さんの声が聞こえる頃には、意識がハッキリしてきた。
僕の身体が、ベッドに拘束されていて、動けない状態なのに気づく。
さっきまで着ていた服から、病院で手術の際に着る患者衣に着せ替えられている。
「これは何ですか。なぜ、僕は拘束されているのですか」
「悠太くん、あのね、これには理由があるの」
僕に寄り添う芽衣さんが戸惑っている。
神宮寺さんがお母さんに報告している。
「奥様、悠太様のバイタルは問題ありません」
「そう、よかったわ」
神宮寺さんとお母さんとのやりとりから、僕の身に何が起きてるのかと、不安になった。
三十年後に僕が病気で亡くなるという未来も、この状況は、関係あるのだろうか。
周りを見渡すと、ここは病院の処置室のようだ。
僕はベッドの上に寝ている。
紺色の手術着を着た医師や看護師たちに囲まれている。
その中に、お母さん、芽衣さん、友里さんもいる。
数人のスタッフたちが、周りの様々な医療機器に向かって作業をしている。
磯村さんもいるじゃないか。
「磯村さん!」
僕は磯村さんを呼んだが、磯村さんは振り向いて、僕に無言で笑いかけるだけだった。
横を向くと、僕の隣にもベッドがあり、同じ薄いグリーン色の患者衣を着た女の子が寝ているのに気づく。
その女の子の横顔を見て、僕は驚く。
「えっ、結衣さんですか?」
ベッドの上の女の子は、芽衣さんと同じ顔で、でも表情が虚で無表情で、まるで人形が眠っているようだ。
「あのね、これは結衣じゃないのよ」
芽衣さんが、言いにくそうに否定する。
お母さんがベッドに眠る女の子を見つめながら、話を続ける。
「悠太さん、単刀直入に言うと、クローンである結衣の、オリジナル体の人間が【真衣】なのよ」
「結衣さんがクローンで、真衣さんが人間? どういう意味ですか」
僕は、まだ夢の中なのかと、頭を振る。
「悠太さんが、ずっと行動を共にしていた芽衣も、実は結衣と同じく、真衣のクローンなのですよ」
「芽衣さんもクローン!?」
やっぱり夢だ。誰か、僕の頬をつねって。
お母さんが神宮寺さんに合図をする。
「結衣と亜衣と留衣も呼んでくださいな」
扉が開いて、医師と同じ紺色の手術着を着た、芽衣さんと瓜二つの容姿の女性三人が、部屋に入ってきた。
「えっ、これって、五つ子じゃないですよね」
この期に及んで、僕はまだ、クローンというシチュエーションを信じられないでいる。
結衣さん、亜衣さん、留衣さんと呼ばれた女性は何も答えず、三人とも人形のように無表情だ。
芽衣さんが僕に打ち明ける。
「お母様の言うとおり、私たち四人はクローンなのよ。私も結衣も亜衣も留衣も、磯村さんが、オリジナルの人間の真衣を模して造ったクローンなの」
何なんだ、この状況は。
「では、この前、誘拐された結衣さんは、どうなったのですか。ここにいる人形のような無表情なクローンとは違うんですか?」
「あのときの結衣も、ここにいる結衣も同じ同一のクローンなの。でも、今は感情表現や自我意識が制限されていて、このとおり人形みたいに見えるけれど。磯村さんがあらかじめ設定するプログラム次第で、あのときの結衣のように、簡単な感情表現や行動ぐらいは制御できるのよ」
クローンという言葉だけでも突拍子もないのに、プログラムで制御だなんで、現実感の欠片もない。
「だったら、芽衣さんは、なぜこんなに自由に話したり、行動できるのですか?」
「私は、他のクローンとは異なる仕様なの。結衣、亜衣、留衣だけでなく、もっと他にも私と同じ容姿のクローンはいるのだけれど。名前が付いてるのは、私と結衣、亜衣、留衣の四人だけ。
そのうち、私だけは、自律行動もできる特殊な仕様なクローンなのよ。プログラムだけで動く、完全な人工インプラント脳ではなくて、私は、元の人間の真衣さんの脳細胞由来の組成も多く含まれているハイブリッド・インプラント脳だから、人間のように自分の意志だけで自由に行動できるのよ」
「人工インプラント脳って、どういうこと? これも演劇部の話か何かですか」
「そうじゃないのよ。これは現実の話なの」
「だったら、最初の結衣さんの誘拐は、何だったのですか。あれも嘘だったのですか」
芽衣さんが困惑する。
「あれには、理由があって。本当は結衣が最初から、あのまま悠太くんを、この時代へ連れてくる計画だったのだけれど。結衣の身体にトラブルが生じて、計画を続けることができなくなったの。
それで急遽、私が代行することになったんだけれど。誘拐は、結衣を途中退場させるために、磯村さんが考えた、その場しのぎの嘘だったの。私たちによる自作自演の誘拐だったのよ」
「やはり、嘘だったんですね」
「本来の計画では、結衣に誘われた悠太くんがファミレスで一緒に会食することになって。悠太くんが離席した合間に、結衣が悠太くんの飲み物に睡眠薬をいれて眠らせて、酔ったふうに見せて、お店から連れだすという計画だったのよ」
「何なんですか。そんな茶番みたいな計画。そんな大掛かりなことまで仕組んで、僕を連れてきたとして、いったい何をしたいんですか?」
「ごめんなさい。私も、こんな無茶なやり方は嫌だったんだけど。なぜ、悠太くんを連れてくる必要があったのかも、その医学的な理由までは、私も詳しくは知らされてなくて。磯村さんとお母様の言うとおりにしただけなの」
芽衣さんの目から涙が溢れる。
今、僕の目の前で涙を流している、この人がクローン?
磯村さんが、僕に近づく。
「悠太くん、いきなり全部を説明することはできないんだけれど。これには複雑な理由があってね」
「何が複雑なんです。ちゃんと説明してくださいよ」
「それはだね……」
磯村さんも、どう説明すればよいのか、困惑しているようだ。
僕は意地になる。
「芽衣さん、結衣さん、亜衣さん、留衣さん、真衣さんだなんて、これも、そっくりな五つ子を使ったマンガみたいな、僕への冗談なんですよね」
取り乱した僕に対して、困り果てた磯村さんを見かねたのか、お母さんが口を挟む。
「磯村さん、私から説明します」
お母さんが、ベッドに眠る真衣さんの頬を撫でながら、神妙な口調で話し始める。
「実は、ここで眠っている人間の【真衣】は深刻な病気に侵されているのです。病気の進行を止めるために、今までずっと冷凍睡眠で保管されていたんです」
また話が突拍子もなく、僕の理解が追いつかない。
「真衣の病気が発覚した頃、あることがきっかけで、磯村さんは、タイムマシンを手に入れて、未来へ行くことができるようになったのですが」
僕は黙って、お母さんの話を聞くことにした。
「しかし、未来の医療技術を駆使しても、真衣の病気を完治させるのは無理でした。未来でクローンの技術を得ることもできて、代わりの身体となる真衣のクローンも作ってはみたのですが、そのクローンにも欠陥が見つかり、代替の身体も失敗だとわかったのです」
真衣さんのクローンに欠陥があるということは、芽衣さんにも欠陥があるのではと、心配になったが、今はお母さんの話を聞くしかない。
「しかし、真衣と遺伝子情報が適合して、かつ、正常な遺伝子情報を含む、別の人間の細胞を手に入れられれば、未来の医療技術で、真衣の病気を治せるかもしれないとわかったのです」
「それが僕と、どう関係があるのですか」
お母さんの代わりに、磯村さんが説明を引き継ぐ。
「ここからは、説明が難しくなるから、簡単に言うけれど。ウイルスのRNAやDNAが、稀に人間の細胞のDNAに影響を与えて、病気を発症させる話は知ってるかい」
僕は、うなずく。
「ええ、大学の講義で、少しは聞いた覚えがあります。動物由来のコロナウイルスが変異して人間に感染し、古代から人間の身体の中にあったレトロウイルスと影響しあい、ウイルスのRNAから転写された人間のDNAが書き換えられ、未知の病気が発症する可能性がある話ですよね」
磯村さんも、うなずく。
「その通りだよ。これは、悠太くんが生まれる前の話なんだが。ある動物由来の変異したコロナウイルスが、人類にもパンデミックを起こして、日本中の人々が、その病気に感染してしまったんだよ」
僕は、うなずく。
「昔、そんな病気が流行ったことは、教科書でも読んだことがあります。その数年後にはウイルスも無毒化して、大丈夫になったとは習いましたが」
磯村さんも、また、うなずく。
「無毒化はしたが、当時、コロナウイルスに感染した人たちの遺伝子情報には、悪影響を残してしまったんだ。コロナウイルスのパンデミックの起きなかったオーストラリアで育ち、感染していなかっま悠太くんを連れてきて、細胞を採取して、未来の再生医療に活用すれば、真衣さんの病気も治せるはずなんだ」
磯村さんは説明を続ける。
「真衣さんに適合した細胞は、悠太くんの身体から採取するしか方法がないんだよ」
そこが、僕には、どうしてもわからない。
「僕に限らず、コロナウイルスに感染しなかった人なんて、当時、他にもいくらでもいたはずじゃないですか。なぜ、僕じゃないとダメなんですか」
「悠太くんは、真衣さんに近しい遺伝子情報を持っているからなんだ。他にも近しい候補者はいたけれど、悠太くんの他は皆、当時コロナウイルスに感染していて、その病気の遺伝子の因子を持った細胞しかなかった。残念ながら、感染した細胞では使えないんだよ」
「だから、なぜ、僕は真衣さんと近しいのですか。今となっては嘘でしょうけれど。もしも芽衣さんとは将来は夫婦だったとしても、血のつながりもないですし、どう関係があるというのですか」
「それはだね、困ったな」
磯村さんは、この質問にだけは、どうしても詳しく答えられないらしく、頭を掻いている。
見かねたお母さんが、また後を引き継ぐ。
「実は、悠太さんと真衣は、準一卵性双生児なのよ」
「えっ、僕と真衣さんが、双子!?」
僕も驚いたけれど、磯村さんも初耳のような表情をして唖然としている。
芽衣さんだけは、お母さんから事前に聞いていたのか。双子だと聞いても、動揺はしていないようだ。
磯村さんが、お母さんに何かを言いかける。
「ちょっと待ってください」
しかし、お母さんは、視線で磯村さんを制して、僕に話しかける。
「そう、あなたと真衣は双子なのよ」
僕は呆気にとられた。
「じゃあ、僕も、あなたの息子なのですか」
「そうじゃないのよ。実は私は、真衣や芽衣の母親でもないのよ」
「どういうことですか」
「私も真衣のクローンなのよ」
「ええっ!」
僕は驚嘆する。
「ちょっと、それは……」
磯村さんまでが驚いている。
僕の聞き間違いかと思った。
「お母さんも、真衣さんのクローンだというのですか」
「そうよ、私は芽衣よりも、さらに人間に近しい、真衣由来の脳細胞を持ったクローンなのです。だから、このように自由に思考も行動もできるのですが、磯村さんと一緒に何度もタイムトラベルで時代を行き来しているうちに、このように老いてしまったのよ」
お母さんは、自分の手の甲を撫でている。
磯村さんは呆れ果てているようだ。
僕は真剣にたずねる。
「だったら、僕の本当のお母さんは、どこにいるのですか」
「悠太さんの本当の母親は【奈々子】という人よ。真衣と悠太さんを産んだあと、すぐに亡くなられたと聞いています」
愕然とした。
「僕の両親は、警察でも会いましたよね。あの設楽夫妻です」
僕の意にも介さず、お母さんは続ける。
「お父様の萱島春人様は、最愛の妻、奈々子さんを亡くした失意で、生まれたばかりの悠太さん真衣を手離そうとされたのです」
「僕の実のお父さんが、萱島春人さんで、僕たちを捨てたんですか」
もう、わけがわからない。
「春人様が、執事の水戸野英治郎さんと、神宮寺友里さんを呼んで【悠太さんと真衣さんを里子に出すように】命じられたのですが。真衣さんは、生まれた当初から身体が弱くて里子に出せる状態でもなくて、外国の先進治療を受けるために、すぐに海外へと移されたのです。
真衣は闘病の末、なんとか二十歳は迎えましたが、これ以上、病状が悪化しないようにと、冷凍睡眠に処されたのです。
その真衣さんの細胞を元に、磯村さんが作りあげたクローンが、芽衣、結衣、亜衣、留衣、私たちなのです」
お母さんが、ベッドの真衣さんの身体を撫でていく。
「生まれたばかりの僕も、オーストラリアへ移されたのでしょうか」
「ちょっと違うわね。健康だった悠太さんは、少しの間、独身の友里さんが育ててくれていたのですが。そのあとすぐに里親が見つかり、里子へ出されたの。当時、海外へ赴任が決まっていた設楽夫妻に引き取られて、そのまま一緒にオーストラリアに、しばらく住むことになったのよ」
僕は記憶を探る。
「たしかに、父は外資系の企業で海外赴任も多くて、日本に帰ってきたのは、ごく最近のことですけど。僕が里子だなんて、聞いたことさえないですよ」
お母さんが、かぶりを振る。
「水戸野さんと神宮寺さんが、生まれてすぐの悠太さんを、こどものいないご夫婦の家庭へ里子に出される相手を探されたとき。春人様が、候補のご家庭に条件をだされたのです。悠太さんが成年するまでは、出自を明かさないようにと。しかし、設楽ご夫妻は、成年後も黙っていたのでしょうね」
辻褄は合いそうな気もする。
それと、僕と両親は、血液型は共通していたから、気にもしなかったけれど、実は、あまり顔が似ていない。
「その話が本当だとして。水戸野さんといえば、社員食堂にいらした老紳士の方ですよね。でも、神宮寺友里さんって、そこの神宮寺さんですか? 二十代に見えますけど」
僕は、傍らに待機している神宮寺さんへ目を向ける。
お母さんも、友里さんに目を移す。
「ここにいる友里さんは、芽衣や私と同様に、人間に近しい仕様のクローンなのです。
オリジナル体の人間の神宮寺友里さんご本人は、萱島家へのお勤めも、とうの昔に引退されていて、今ここには、いらっしゃらないのですが。
研究所での手伝いと、芽衣たちの世話をしてもらうために、ご自身のクローンを造っていただいて、今は、このクローンの友里さんが、ご奉仕して下さってるのです」
誰もがクローンだなんて。もう、わけがわからない。
「真衣は里子にだされず、萱島家の深窓の令嬢として、存在を隠されたまま海外で育ちました。芽衣は、その真衣の代役として、萱島家にいるのですよ」
その話を聞いて、芽衣さんが悲しそうな顔をしている。
「僕の育ての親が、設楽家のお父さんとお母さんで、実の親が、萱島春人さんと、亡くなった奈々子さんという女性で、春人さんに僕は捨てられたということですね」
「ええ、そのとおりね」
クローン、双子、里子、コロナウイルス、冷凍睡眠……。次々と出てくる話に戸惑う。
目の前にいる、芽衣さんのお母さんだと思っていた人のことは【真衣マダム】と呼ぶことにしようと、どうでも良いことを、僕は考えながら、この突拍子もない話から、現実逃避したくなった。
真衣マダムが、結衣さん、亜衣さん、留衣さんに指示を出す。
「結衣、さあ、始めて」
何が始まるだ。
僕は、まな板の上の鯉のように、ベッドに拘束されたままだ。
この状況では不安しかない。
手術帽を被ってマスクと手袋をした結衣さんが、僕の左脚の傍らに立ち、僕の患者衣に手をかける。
「何をするんですか!」
僕の身体はベッドに固定されているから、抗う術もない。
昨晩のホテルでの芽衣さんと違って、この結衣さんは、まるで人形のように無表情で、淡々と作業を始める。
結衣さんは、実験などでよく見かけるガラス製の平皿のシャーレをベッドの傍らに置き、僕の患者衣の腰回りをはだけた。
真衣マダムは引き続き、指示を出す。
「亜衣、あなたも始めて」
亜衣さん僕の右側に立ち、僕の胸回りを脱がし始める。
「留衣、はじめて」
次々と、真衣マダムの指示がとぶ。
留衣さんは、僕の頭の左側に立ち、両手で僕の顔を固定し、急に顔を近づけてきた。
そして、なんたることか、僕の口にキスをし始めた。
「やめてください!」
僕は首を横へ向けようとしたけれど、ロボットのような留衣さんの怪力で、顔をつかまれていて、まったく動かせない。
留衣さんは、僕の唇をこじ開けて、舌を入れてきた。
亜衣さんは、僕の胸部をひたすら撫でている。
結衣さんは、シャーレを、僕のお腹の上に置き、淡々と僕の下腹部を撫で続けている。
「やめてください! やめてっ!」
ベッドに拘束されたままの僕は、身じろぎさえできない。
しかし、昨晩に芽衣さんからホテルの部屋で迫られたときと同じく、今回も、結衣さんたちの容姿を見ると、異性に対する性的な欲求や、淫らな気持ちは一切起きなかった。
突然、こんな状況に置かれて、むしろ戦慄した。
さっき、僕と真衣さんが、準一卵性双生児だと聞かされて、その理由がわかった気がした。
僕らは双子だから、親身には思っていても、恋愛感情や異性としての魅力を感じなかったんだ。
身動きひとつ取れず、どうにもならない僕は叫び続ける。
「やめてっ、なぜ、こんなことするんだ!」
磯村さんが、頭を掻きながら答える。
「昨晩、ホテルで芽衣さんに誘惑させて、君の精子を採取する計画だったんだが、君がそれを拒否したから、こうなったんだよ」
それで、芽衣さんは、急にあんなことをしたのか。しかし、今はそれどころじゃない
「磯村さん、ちょっと待ってください」
「我慢してくれ、どうしても拒否するなら、手術で身体を切って、精子を採取してもいいんだが、この方法のほうが、君にも負担が掛からないからね。だから協力してくれないか」
そのあいだにも、結衣さんは僕の下腹部を、亜衣さんは僕の胸部を撫でている。
三人とも感情がなくて、事務作業のように、淡々と作業を続けている。
留衣さんは、もう僕が窒息するかと思うくらい、容赦なく、口を密着してくるから、喋ることさえままならなくなる。
「や、やめてください! やめて!」
こんな異様な状況と、双子の兄妹と知ったからには、そんな気も起きない。精子を採られるどころじゃない。
「や、やめてください! やめて!」
僕は、唸り続けた。
磯村さんは諦めて、結衣さんたちに指示した。
「ああ、もういいよ、終了! やっぱり、感情のないクローンたちでは、悠太くんも気が乗らなくて、うまく採取できないか」
結衣さんたち三人が、ベッドから離れて、部屋の隅へと移動する。
助かった……。
磯村さんが思案している。
「うーん、この三人じゃダメとなると、友里さんのクローンは、性的なことには一切使わないと、神宮寺さんご本人とも固く約束していて、行動制限プログラムのプロテクトもあるから頼めないし……。仕方ない、じゃあ、芽衣さん、君がもう一度採取してくれるかな」
磯村さんが、芽衣さんへ振り向いて指示を出そうとした瞬間、ゴツッ! と大きな音がして、磯村さんが床にうつ伏せに倒れた。
丸椅子を片手に持った芽衣さんが、仁王立ちしている。
床に倒れた磯村さんが頭を抱えて、芽衣さんを見上げる。
「痛たたたっ……。何をするんだ!」
芽衣さんが、怒り心頭の表情で言い放つ。
「磯村さん、無茶も大概にしてよ!」
磯村さんが脅える。
「何なんだ、芽衣さん、ハイブリッド・インプラント脳に不具合でも出たのか?」
憤慨した芽衣さんが、磯村さんを見下ろす。
「そんなわけないわよ。昨晩は、私のスマホに【真衣の病状が良くなくて、急を要するから、悠太くんに睡眠薬を飲ませて、ホテルで誘惑して、精子を採取して】だなんて、無茶な指示を出すし。私と悠太くんは双子なのに、そんなことできるわけないじゃない。このセクハラ! 変態オヤジ!」
芽衣さんは、慌てる磯村さんに向けて、もう一度、椅子を叩きつけた。
「ギャーっ!」
頭を両手で抱えた磯村さんは、悲鳴をあげて、床に倒れたまま失神した。
しかし、芽衣さんの叩きつけた椅子は、磯村さんには当たっていなくて、頭の真横の床に叩きつけられただけだった。
たとえ、こんな状況になっても、人を殺すのだけはダメだ。
僕は、ほっとした。
芽衣さんが、ベッドに駆け寄り、僕の拘束具を外して、身体を起こしてくれる。
「悠太くん、早く、服を着て」
僕は、ベッドの傍らのカゴの中に入っていた服を着る。
周りを見渡すと、結衣さん、亜衣さん、留衣さんは、何をしたら良いかわからず、指令を待っているロボットのように、無表情のまま動作を停止して立っている。
芽衣さんの怪力を熟知している他の白衣のスタッフたちは、抵抗もせず、一目散に扉から逃げ去った。
真衣マダムは、磯村さんが、ぶっ倒れたショックで、暫しフリーズしたかのように、立ちすくんでいたが、気を持ち直して、白衣のスタッフたちの後を追って、扉から出ていった。
◇
静観していた神宮寺さんが、芽衣さんに駆け寄る。
「芽衣お嬢様、後始末は、私にお任せください。さあ、悠太様と一緒に、この場を脱出なさってくださいな。いつもの送迎用のクルマに、水戸野様が待機されています。私から、この後すぐに水戸野様へ連絡しておきますから、ご協力いただけるはずです」
芽衣さんは、神宮寺さんに、ペコリとお辞儀をした。
「かたじけない、友里さん」
芽衣さんは、まだ身体が弛緩していて、足がふらつく僕を、背中に背負って、外へと連れ出してくれる。
僕も真似て、肩越しに、芽衣さんへお礼を言う。
「かたじけない、芽衣さん」
芽衣さんは照れて、こう返す。
「礼を言われるほどのことではござらぬ」
時代劇かよ!と、ツッコミそうになったけれど。
昨晩から、さっきまでのことを考えると、お互い、冗談でごまかしながら、照れるしかない。
「僕のほうこそ、かたじけない」
再び、丁重にお礼を言った。
本当に、かたじけない。女の子に背負われて逃げていく男子、なさけないでござるよ。
「お気になさるな」
芽衣さんは、僕を背負ったまま、駐車場へと、忍者のように、素早く駆けていく。
◇
駐車場へ来ると、シルバーのメルセデスの横に、水戸野さんがドアを開けて待っていてくれた。
「さあ、悠太様、先にお乗りください」
水戸野さんは、僕の肩を持ち上げてくれて、クルマの後部座席に寝かせてくれた。
芽衣さんは、助手席に乗り込む。
「水戸野さん、ありがとう、助かるわ」
「神宮寺より、事の経緯は聞いております。急ぎましょう」
水戸野さんも運転席に乗り込む。
あらかじめエンジンを起動させてあったのか、クルマは颯爽と走り出す。
運転も上手く、急いでいても、全く車内は揺れなくて、快適な乗り心地だ。
後部座席に寝ていても、地面の振動が心地よい。
「水戸野さんは、昔は、お父様の専属の運転手をされていて、そのあと秘書になり、今では執事をされているのよ。他にもいろいろ特技をお持ちで、とても頼りになるの」
落ち着いた声で、水戸野さんが答える。
「まあまあ、芽衣お嬢様、お話はそれぐらいで。それよりも、そろそろ、スペシャルカレーで、カロリー補給されないと、お身体に障りますよ」
水戸野さんが車内の収納ボックスから、レトルトごはんのようなパッケージを出して、芽衣さんに渡す。
僕はたずねた。
「カロリー補給?」
芽衣さんが、ごはん入りの、レトルトのスペシャルカレーをチンして、ガツガツと食べながら答える。
このクルマには、小型の電子レンジまで搭載しているのか。
「悠太くんも、真衣型のクローンには欠陥があると、さっき話を聞いたわよね。
私たちクローン体は、私のような怪力特性など、個体ごとにカスタマイズされた、特殊な才能もあるけれど、エネルギー消費も激しくて、常に高カロリーな食事をしていないと、細胞を正常に維持できなくなるの。
うまくコントロールできれば、お母さん、いえ、さっきの真衣さんの加齢されたクローン体のように、それなりに長生きはできるみたいだけれど。
私みたいに、普段から無茶ばかりしていたら、この身体も、いつまで持つかわからないと、磯村さんは言ってたし」
お嬢様らしからぬ食べっぷりで、淡々と答える芽衣さんに、僕は、何と言ってよいのか悩む。
「スペシャルカレーや、芽衣さんの大食いには、そんな理由があったなんて、知らなくて。ごめん」
「悠太くんが、謝ることじゃないわ。私たちは、そういう仕様なんだから」
「仕様だなんて、悲しいこと言わないでよ。僕にとっては、芽衣さんはクローンだなんて思ってなくて、今も、同じ人間どうしとしか思えないから」
「ありがとう」
そう言った芽衣さんの声は、少し悲しそうな表情だった。
僕は、このやるせない気持ちを、どう鎮めればいいのだろう。
芽衣さんが長生きできない身体だなんて、悲しすぎるの通り越して、胸が軋む。
さっき、真衣さんが病気だと聞いたときは、それほど悲しくもなかったのに。見た目は、全く同じ女性なのに、なぜ、芽衣さんのことだと、こんなにも心苦しいのか。
クルマが停まった。
どこかの研究所の門の前へ来たみたいだ。
細身の背の低い守衛さんが水戸野さんと話している。
そういえば、この守衛さん、僕のいた時代に来た、萱島研究所にいた守衛さんと同じ顔だ。
年齢も、当時と同じ中年のままのようだ。
もしかして、この守衛さんもクローンなのか。
「水戸野さん、芽衣お嬢様を宜しくお願いします。先程、私へ友里から連絡が来ていました」
芽衣さんは、守衛さんにお礼を言って頭を下げる。
「須藤さん、ありがとう」
「お嬢様、お気をつけて」
水戸野さんは、須藤さんに軽く手を上げて、クルマを発進させる。
僕は、たずねた。
「あの守衛さんは味方なのですか。それから神宮寺さんのことを【友里】とおっしゃってましたが」
芽衣さんは振り返って、僕に言う。
「あの守衛さんは【須藤守さん(すどうまもる)】という名前なんだけど、友里さんとはご夫婦なのよ。友里さんと須藤さんは、お二人とも、萱島の研究所を引退後も、クローンとして、勤めていただいてるの」
僕は、芽衣さんにたずねた。
「神宮寺さんは、生まれたばかりの僕を、少しの間、育ててくれていたと、さっきは聞いたけど」
「それは、友里さんが十代の頃のことらしいわ。悠太くんの里親が見つかったあと、須藤さんと縁があり、ご結婚されたの。お二人とも格闘技好きで、その縁がきっかけだそうよ」
格闘技好き、おもしろい縁だなと思いつつ、須藤さんも、見かけによらず、神宮寺さんと同様に強い人なのかな。似たもの夫婦というのは、やはりあるんだなと思った。
水戸野さんの運転は心地よくて、疲労困憊していた僕は、後部座席で寝入ってしまった。
◇
目が覚めると、僕は六畳間ほどの和室に布団の上で寝かされていた。
僕の傍らには、ずっと看病してくれていたのか。芽衣さんが、座卓の上に顔を横向きに寝かせて眠っている。
陽の差し込む障子を開けて、四十代の半ばくらい女性が入ってきた。僕の顔を見て、ほっとしている。
「悠太さん、お目覚めですか」
この女性の声には聞き覚えもあり、顔をよく見ると、神宮寺さんに、どことなく似ている。
「もしかして、神宮寺友里さんご本人ですか」
「ええ、そうよ」
神宮寺さんは、目尻の皺を綻ばせて、横になっている芽衣さんに、肩掛けを掛けている。
「研究所にいる夫の須藤と、私のクローンから連絡がありましたの。その上で、水戸野様へ連絡して、うちで、とりあえず匿うことにしたのよ。でも、すぐに、追手が来るはずだから、悠太さんが目覚めて体調が整ったら、すぐにまた、次の場所へ避難してくださいな」
「助けていただいてありがとうございます。なんとお礼を言ったらよいのか」
僕は神宮寺さんに何度も頭を下げた。
「あっ、悠太くん、起きたのね」
芽衣さんが目をこすりながら、身体を起こす。
「芽衣お嬢様、そろそろお支度をしないと、追手も、そろそろ、この場所に気づくはずです」
「そうね、神宮寺のおばさま。匿っていただいてありがとう。でも、研究所を裏切ってしまった私はこのあと、どうしたらいいのかしら。殴ってしまった磯村さんのことも気がかりだし。大丈夫かしら」
「磯村さんに、あの後、私のクローンが怪我の処置をしたそうよ。頭の怪我も大したことなかったみたい。芽衣お嬢様が手加減されたからかもしれないわね」
「そう、よかったわ。命に別状なくて。磯村さんもあんな人だけれど、悪い人ではないから、私も今までに何度もよく助けてもらったし」
「そうね。でも、磯村さんは、今回の計画を何が何でも遂行されるはずです。まずは、悠太さんの身の安全を最優先に考えないといけないですね」
芽衣さんは、神宮寺さんにたずねる。
「水戸野さんと須藤さんは、居間にいらっしゃるのかしら」
僕たちの話し声が聞こえたからか、障子を開けて、水戸野さんと、もう一人の男性が顔を出した。
僕は二人に礼を言う。
「水戸野さん、ありがとうございます。こちらは、須藤さんですか、あれっ?」
須藤さんは、研究所の門で会ったときと、風貌が変わらず、同じ初老の年齢に見えた。
「須藤さんのご本人は、クローンと同じ年齢なのですか? 神宮寺さんはご本人とクローンでは年齢が違いますけど」
「悠太様、私は友里とは違って、今の姿の年齢のほうが好きなので、この容姿のクローンをつくって、研究所にお勤めしているんです。警備の仕事は若い連中とも一緒にしておりますから、見た目が老人のほうが、力仕事も若い者が私の代わりをしてくれますからね。仕事も楽できますから」
須藤さんは、そんな冗談を言いながらも、五十代半ばの細身の容姿にも関わらず、武道でもされてそうな、体幹のしっかりした方だ。芽衣さんがさっき言ってた、格闘技好きという話も単なる好きではなく、高段者なのかもしれない。
神宮寺さんが言う。
「芽衣お嬢様が、やはりメイドは若いほうが素敵だわと、我儘をおっしゃるので、私のクローンは二十代の頃のままにしておりますの。私からも、須藤には若い頃の身体のクローンのほうが、運動神経も良くて、いざというときに頼りになるわよと、言ってるのですけれど。あの人は、ワシはいつまでも現役だと聞かなくて」
神宮寺さんと須藤さんが、夫婦で言い合ってるのをみて、仲の良い夫婦なんだなと、感心した。
芽衣さんと僕が、将来は夫婦という当初の話は嘘だとわかり、本当は準一卵性双生児の真衣さんのクローンだと知ったのだけれど。
「芽衣さん、なぜ、僕と将来は夫婦になると、嘘をついたんだい?」
芽衣さんは戸惑いながら答える。
「えっと、それはね……ごめんなさい。嘘でした」
芽衣さんは、僕に謝りながら、話を続ける。
「未来では夫婦だと言うほうが、悠太くんから私が精子を採取するとなったとき、有利に進められると、磯村さんが考えたのよ。計画上の嘘だったのよ。悠太くんの未来の本当のお嫁さんは、私にもわからないわ。嘘ばかり言って、本当にごめんなさい」
芽衣さんは、視線を合わすのも申し訳ないという感じで、平謝りしてくる。
「だとしたら、僕の本当のお嫁さんも、別にいるってことなのかい」
「ええ、そうだといいわね……」
芽衣さんの歯切れがなんだか悪い。
本当のことを知っているのか、知らないのか。あるいは、これも嘘なのかもしれない。
事情を知ってか、知らずか、神宮寺さんが話の腰を折ってくる。
「さっさ、悠太さん、追手が来ないうちに、急いで出かける支度をしてくださいな」
僕と芽衣さんは、急いで支度をして、玄関から出た。
水戸野さんが、クルマのドアを開けて待っていてくれる。
芽衣さんは、さっきまで着ていた夏物の半袖のブラウスとキャロットスカートから、動きやすい服装に着替えていた。
上着はTシャツの上に、グレー色のジャージを羽織っている。
下は紺色のデニムのパンツを履いている。
靴は白色のキャンバス地のスニーカーだ。
今度のクルマは、さっきの外車とは異なり、国産の軽自動車だ。
僕と芽衣さんは、後部座席に並んで座る。
芽衣さんが、僕に説明してくれる。
「このクルマは、須藤さんが特別に手配してくれたの。このクルマなら、水戸野さんや須藤さんご夫妻とも繋がりはないし、追跡までの時間を稼げるし。軽自動車のほうが傍道を逃げたりも便利だから」
軽自動車のワゴンタイプとはいえ、ハイブリッドカーでもなく、ガソリンエンジンのインタークーラー付きターボ仕様だ。軽快に走れるだろう。
須藤さんが、クルマの後部荷物スペースへ、リュックバッグを五個と、ウエストポーチを十個を積んでくれる。
神宮寺さんは、僕と芽衣さんに、一個ずつウエストポーチを渡してくれた。
「芽衣お嬢様、ウエストポーチに、お湯の要らないスペシャルカレーのレトルトパックと、携帯用カロリー補給ステックを詰めてあります。数に限りがありますので、お気をつけて。こちらの予備のウエストポーチは、悠太様がお待ちください」
「ありがとう。神宮寺のおばさま」
芽衣さんは、助手席の窓越しに神宮寺さんにお礼を言う。
神宮寺さんも窓越しに答える。
「芽衣お嬢様、お気をつけて。私たち夫婦も、このあと、どこか別の場所に身を隠します。ここにいると捕まるおそれもありますからね」
「そう、ごめんなさい。せっかくご夫婦で、ゆっくりされていたのに」
須藤さんが、芽衣さんにドヤ顔で言う。
「いえいえ、私たちにとって、芽衣お嬢様たちを守ることも、生き甲斐の一つですから、こんなことは朝飯前、いや、朝飯は先程召し上がりましたな。ワッハッハッ」
冗談を言う須藤さんをあえて、無視するかのように、水戸野さんがクルマを発進させて、つぶやいた。
「あの男は、いつ、いかなるときでも冗談が欠かせないやつで。でも、そつがなく、やることは、ちゃんとやってくれます。私たちの乗ってきたクルマも、追手を撹乱するために、このあと、須藤が、どこかへ乗って行って、処理してくれますから」
水戸野さんと須藤さんの仲の良さと、お互いの信頼関係も伝わってくる。
僕はウエストポーチの中味を確認した。
携帯用カロリー補給スティックと言ってたから、カロリーメイトみたいな箱を、僕は想像したけれど、無色透明の液体の入った樹脂製ペンライトのようなスティックだ。
「芽衣さん、この携帯用スティックで、どのくらいのあいだ、カロリーが維持できるのかな」
「それは非常用だから、せいぜいもって、二時間くらいかしら。レトルトのスペシャルカレーだと丸一日くらいはもつのだけれど。体力を大幅に使うと、その半分くらいで消費する感じだわ」
「そうなんだ」
もしこれが切れて、カロリー補給できなくなったとき、芽衣さんの身体がどうなるのかは聞けなかった。
僕が深刻な顔をしていたからか、芽衣さんが笑顔で言う。
「心配しないで、日常生活程度の行動なら、少々カロリーが補給できなくても、大丈夫だから」
「そうなんだ」
これから起こることを考えると、日常生活程度で終わるはずもなく、僕は心配になる。
でも、僕が芽衣さんを不安にさせるわけにはいかない。
「大丈夫よ、悠太くん、須藤さんの言ってた朝飯前じゃないけれど、朝ごはんも、さっき食べたばかりじゃない」
朝飯といえば、さっき出かける前に、神宮寺さんが食卓に用意してくださったスペシャルカレーを、僕と芽衣さんは、急いで食べたのだけれど。
そのとき、芽衣さんは、最初の結衣さんの誘拐の事の顛末を、僕に説明してくれた。
「最初の磯村さんの計画では、駅前で最初に悠太くんと出会うときから、私が担当する予定だったのよ」
「結衣さんでなくて、芽衣さんが?」
「そう。それと、一ヶ月後の世界から来た私ではなく、あのとき、悠太くんが言ってたけれど。悠太くんと同じ時間軸の私が、あなたに出会う計画だったのよ」
「そうなんだ」
「でも、あの日、同じ時間軸にいた私の身体にトラブルが起きて、出ることができなくなったの。それで代わりに結衣で遂行することになったのだけれど。結衣だけでは長丁場のシナリオの複雑な行動は無理だと、リスク回避のために、急遽、一ヶ月後の私が呼び出されたのよ。案の定、結衣にトラブルが起きて、結衣を回収して、私が交代するために、磯村さんのアイデアで、急場しのぎで誘拐事件がでっちあげられたの。もしも、結衣が公道で倒れて、救急車を呼ばれたら、クローンのことが明るみになって、大事になるから」
「そんな嘘をついた複雑な事情もあったのですね。でも、芽衣さんの身体のトラブルは、今は大丈夫なのですか」
なぜか、芽衣さんは、しばらく考えたあと答えてくれた。
「ええ……。その日、私が朝寝坊して、朝ごはん抜きで研究所へ来たの。それで途中でカロリー切れを起こして、動けなくなって、計画に支障をきたしてしまって……」
朝寝坊だなんて、芽衣さんらしいといえば、そうかもしれないけれど。
なんだか、また嘘かもしれないと、僕は思った。
でも、芽衣さんの身体の調子が本当に悪かったのかもしれないと思うと心配になる。
僕も、今の芽衣さんが、そう言うのなら、嘘でも、そう思うことにする。
「そうなんだ。でも、もし身体の調子悪くなったら、すぐに言ってよ。そのときは、味方の誰かに連絡を取りたいから。水戸野さん、神宮寺さんら須藤さんたち連絡先を、僕にも教えてくれないかな」
「そうね、わかったわ」
芽衣さんが、三人の携帯電話の番号を紙にメモしてくれた。
それを僕はウエストポーチに収める。
携帯電話のアドレス帳に登録だと、いざというとき、壊れたり、バッテリーが切れたら困る。
また、僕と芽衣さんは、それぞれの手持ちの携帯電話を、出発する前に神宮寺さんが預けていた。
神宮寺さんが言うには……。
「お二人の携帯電話は、真衣さんに位置情報を追跡される心配もあるので、別の携帯電話をご用意しましたので、こちらを持っていてくださいな」
神宮寺さんは、僕と芽衣さんに、代わりの携帯電話を渡してくれていた。
◇
水戸野さんの運転する軽自動車が、どこへ向かっているのかは、僕にもわからなかった。
京都市内の国道を南下して、さっき、名神高速道路の高架の下を通過したところだ。
芽衣さんが僕に教えてくれる。
「これから行くのは、さっきの研究所とは別の場所にある、もうひとつの研究所なの」
「そんな場所に行って、真衣マダムに見つからないんですか」
「真衣マダムって?」
芽衣さんが笑う。
「真衣さんだと、オリジナルのご本人なのか、お母さんなのか、紛らわしいじゃないか」
「そうね、真衣マダムでいいわ。私も二十七年後には、芽衣マダムになってるのかもね」
芽衣さんはそう言いながら、悲しい顔をした。
クローンの寿命は、どのくらいなんだろう。
真衣マダムと磯村さんは、タイムトラベルを繰り返した結果、さっきの年齢に加齢した姿になったそうだけれど。実際に、二十七年間も長生きできるのだろうか。
さっきの話では、真衣さんのためのクローンの代替をつくるのも断念したそうだし。
芽衣さんの表情から察すると、寿命のことは、聞きづらい。
「芽衣マダムか、いいね! 僕はその頃、どんなダンディなおじさんになってるのかな。そのときも、芽衣さんと一緒にいたいね」
僕は冗談めかしていったけれど、それは本心だ。たとえ夫婦じゃなくて、双子でクローンだとしても、ずっと芽衣さんと一緒にいたい。
たった数日間のことだったけれど、これまで一緒に行動してきて、芽衣さんのことは、やっぱり愛おしい。
今はまだ、異性に対する恋人という感覚ではないのかもしれないけれど。
「そうね、悠太くんなら、歳をとっても、枯れ専の女子にもウケそうね」
芽衣さんが笑顔に戻っている。
そんな僕の様子を、バックミラー越しで微笑ましく眺めている水戸野さんが、咳払いをした。
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