最強でも無敵でもない復讐者は女神殺しの夢をみる

銀狐

第1話 復讐者は荒野からやってくる


 乾いた風が吹きすさぶ荒野に建つ小さなトラットリア。


 見渡す限り枯れ木と赤茶けた大地が広がる辺境の街道は、かつては旅人が疲れた足と空腹を癒す宿場として賑わっていたが、長く続いた戦争の影響ですっかり寂れてしまっていた。


 食事時には遅い昼下がりに、小柄な少年が来客を告げるベルを揺らす。


「いらっしゃい」


 店主らしき中年女性が愛想の無い声で、咥えた煙草に火を点けながら出迎えた。


「失礼。ちょいと、休ませて貰いますよ」


 落ち着ける場所に辿り着いた安堵から少年、アイチは大きく吐息を漏らす。

 疲労を感じさせる覚束ない足取りを横目に店主は眉を顰める。ボサボサの黒髪にはフケが溜まり、古ぼけた濃い灰色の外套と首元に巻いた薄汚れた手マフラーは見た目にも不潔で、彼が長い年月をかけて外を放浪していた事を予見させるには十分な姿だった。


 一瞬、店主は追い出そうかと口を開きかけるが、両目に布の眼帯を巻き杖で地面を探る仕草から直ぐに目が不自由だと気が付く。


「……そのまま。真っ直ぐ歩けばカウンター」

「ああ、こいつはご丁寧に。お手数をおかけします」


 拝むように左手を上げ、もう片方の手に持った杖で足元を確認しつつカウンターに座った。足元に転がっていた空き瓶の存在を踏みつけることなく気取り、爪先で近くに寄せてから軽く屈み、転がって行かないように置き直す。


「小汚い癖に律儀なモンだね。別に転がしといても構いやしないのに」

「踏んづけちまったら危ないでしょう。それに……随分と賑わってるようじゃありませんか」

「……メニュー。読み上げるかい?」


 余計な詮索はするなという含み、アイチは肩を竦め首元のマフラーを緩める。


「注文は決まってますよ。甘い飲み物と食べ物をお願いします」

「フレンチトーストとココアがあるわ」

「いいですね。甘い匂いが外からでも感じ取れたから期待してたんですよ……酒臭いのがちょいと難点ですがね」


 店主は怪訝な顔をしてから、ギリギリ聞き取れる音量で呟いた。


「余計な真似はしないでおくれよ。迷惑だから」


 それだけを告げて材料を取りに奥の保存庫へと消えて行った。


 アイチは若干の手持ち無沙汰から杖を両手で抱えた左右に揺らす。

 店内に客は他に一組だけだが、閑古鳥が鳴くには少々その一団は騒がしく、店内に充満する酒気の原因でもあった。


「……ふむぅ」


 聞く気は無くとも、自然と会話が耳に飛び込んでくる。


 ゲラゲラと響く品性の無い男達の笑い声。匂いからして相当量の飲酒をしているらしく、先ほど拾った空き瓶も連中が空けた物なのだろう。酔っ払いが騒いでいるだけかとも思ったが、どうやら様子が違っていた。


「おいおい、お嬢ちゃん。本気で言ってんのかい。冗談だったら止めとけ」

「俺らを雇うって、俺達の職業が傭兵だって理解してんのか?」

「勿論、わかっているわ。冗談で仕事を頼むモンですか」


 野太い声色の圧を、綺麗な、けれど語気の強い少女の声が跳ね返す。


「報酬はちゃんと用意してる。貴方達が満足するくらいにはね」


 粗野で乱暴な態度に一歩も引くこと無い、堂々とした対応に男達は気圧されたのか声のトーンを落としてから、改めて視線を少女に集める。


 町娘らしい地味な装いだが勝気な雰囲気と、顎のラインで切り揃えた金髪に猫を思わせる力強い眼差しが特徴的な美少女。しかし、男達が視線を集中させたのは、身体を動かす度にたゆんと主張するたわわな胸部だった。


 勿論、それらの見た目情報は、盲目であるアイチには目視できないことだが、甘い匂いに誘われた要因は、彼女が注文したらしい手つかずのココアが、酒瓶だらけのテーブルに置いてあったからだ。


「そんな難しい話じゃないわ。町に住み付いた無法者達を追い出して欲しいの」

「無法者を追い出すくらい、自分とこの自警団に任せりゃいいだろ」

「地元の自警団が頼りにならないから、こうやってお願いに来たの。傭兵稼業も戦争が終わって懐事情は厳しいはずでしょ。断る理由なんて無いと思うけど」


 交渉慣れはしていないが物怖じしない態度に最初こそ男達は、戸惑うように顔を見合わせていたが、直ぐに顔付きがよこしまな色に染まる。ニヤッと隠し切れない愉悦を口元に浮かべつつ、仲間内の一人が女性に値踏みするような視線を向けて身を乗り出した。


「まぁ、話は理解したぜお嬢ちゃん」

「それは良かったわ」


 無意識に両腕を胸の前で組んだ所為で、豊かな膨らみがより強調されてしまう。

 柔らかさを連想させる艶めかしさに、逸る気持ちを落ち着かせ生唾を飲み込んだ。


「で、どうなのよ。受けてくれるの?」

「う~ん、そうだなぁ。懐の具合が寂しくなってんのも本当だしなぁ」


 男の一人がワザとらしく顎を摩りながら返答を濁す。


「俺達は傭兵だ。金を積まれりゃ誰が相手でも戦うのが生業さ」

「なら話は簡単でしょ。受けるのか受けないのか、ハッキリしてちょうだい」

「まぁまぁ、急かすな急かすな。嬢ちゃん、物事は順序ってモンが大切だ。金勘定もいいが傭兵ってのは命を張ってナンボの商売だ。信頼の置けねぇ依頼人からの話を、そう易々と請け負うって訳にもいかねぇのよ」


 含みを持たせた言い回しに、少女は苛立ちから眉尻を吊り上げる。


「ハッキリしないわね。はぐらかし続けるのが信頼ってわけ?」

「急かすなってお嬢ちゃん。話は最後まで聞きな。誰も断るとは言ってねぇよ」


 詰め寄る少女を宥めながら男達は仲間同士で意味ありげに目配せを送る。

 不満げな顔で腰に手を当てる少女は、何かを企む男達の様子に気が付いてない。


 聞き耳を立てている間に店主が材料を持って戻ってきたが、騒ぎを気に留める事なく取り注文の料理を作り始めた。

 ミルクで溶いた小麦粉の中に卵の中身を投入し素早くかき混ぜる。


「相手が自警団も腰が引ける厄介者だってんなら、こっちも相応の準備が必要だ。人手が足りなきゃ集めなけりゃならないし、人が揃えば武器や防具、それと飯代やら宿代やら諸々の経費がかかっちまう」

「ちゃんと必要経費として報酬に反映させるわ。食事も宿も町の方で用意させる」

「それだけじゃあ、ちと足りないんだよなぁ」

「他に、何が欲しいっていうのよ」

「勤労に対する感謝。温かぁぁぁい、心遣い」


 肩を竦め大袈裟に言うと、他の傭兵仲間達がぷっと吹き出す。


「大罪の王がおっ死んだこのご時世、剣戟稼業で銭稼ぐにゃ世間の風ってのが冷たい。身体張って鉄火場を乗り切っても、金貨袋を投げて寄越されるだけで感謝の一つもありゃしない。世知辛いの一言で片づけるには人情紙風船だと思わないか?」

「何を言いたいのか全っ然、意味不明なんだけど」

「さっき言っただろ。依頼の請負ってのは信頼関係だって。つまりは……」


 荒れた唇を厭らしく歪めてから、傭兵はカウンターの横にある階段を指さした。


「ちょうどゆっくりできる場所が二階にある。そこでしっぽり……いやいや、じっくりと親睦を深めるってのはどうだい?」

「――っ!?」


 少女の背中にゾワッと悪寒が走る。


「最っ低!?」


 下卑た笑みと共に伸ばされた手から逃げるよう少女は後ろに飛び退いた。


「おっと。へっへ、落ち着けって逃げるなよ」


 粗暴な態度を露わにした男達は立ち上がり少女の逃げ場を奪うが、少女は取り囲む男が伸ばした手を払い除け気丈に睨みつけた。


「気安く触らないで! 足元を見るどころか下品な要求して、恥ずかしくないの!?」

「全く恥ずかしくないね。過酷な日々にちょっとした潤いを求めて何が悪い」

「馬っ鹿じゃないの! アンタ達に頼ろうとしたわたしが間抜けだったわ!」


 強引に囲む男達の間に割って逃げようとするが、力で屈強な男達に勝てる訳が無く、逆に肩を掴まれ動きを拘束されてしまう。


「ちょっと、止めて、触らないでって言ったでしょ!?」

「騒ぐな騒ぐな。ほら、仲良くしようぜ、なぁ」

「うるっさいっ! 誰がアンタ達なんかと……!」


 両腕を振り乱し暴れるが男達を振り解く事は出来なかった。


「変態! スケベ! 下種野郎共! わたしはアンタ達が好き勝手できるほどお安い女じゃないの!」


 怒りのまま少女は怒鳴り暴れるが、複数人に掴まれてはどうにもならない。

 アイチは我関せずと無関心。同じく店主も騒動を完全に無視して木製のカップにココアを注いでいた。甘く香ばしい匂いが鼻孔を擽り、アイチは顔を少し上向きにして鼻の穴をひくひくと動かした。


「フレンチトーストとホットココア」

「ありがとうございます。ああ、久し振りの甘味、こりゃ美味そうだ」


 濃厚な甘い香りが口内に大量の唾を分泌させ、手の平を擦り合わせてから、正面に置かれたフレンチトーストの皿を両手で自分の方へ寄せようとする。


「……ん?」


 が、動かない。店主が皿を置いた手を離さずそのまま掴んでいるからだ。


「騒動はゴメンだよ。片付けるのはあたしなんだ、割れた皿も、死体もね」


 心底嫌そうな小声で改めて釘を刺す。

 顔を上げたアイチはいやいやと半笑いで手を振った。


「俺も面倒事は苦手な性質なんで。ご心配には及びませんよ」


 そう告げると納得したのかしてないのか、無言で店主は皿から手を離す。

 改めてフレンチトーストに向き合い、舌なめずりをしてから合掌する。


「いただきます」


 一礼をした後、カウンター上に手を這わせナイフとフォークを探り当てた。

 握ったナイフがパンケーキを切るより早く、食欲を減退させる下品な声色が飛んでくる。


「もう辛抱溜まらねぇぜ。ババア! ちょいと二階を借りるぜ!」

「嫌だって言ってるでしょ!? ちょっとおばちゃん、見てないで助けてよ!」


 トラットリアの二階には宿泊できる部屋が存在するのを、無法者連中は知っているようだ。喜色が浮かぶ男の声に顔色を失った少女は助けを求めが、厄介事を嫌う店主は完全無視を決め込み、咎めたり返事をしたりする様子はなくそっぽを向いて黙って煙草を吹かす。

 少女の蒼白の顔面に絶望の色が宿る。


「そ、そんなぁ」

「へへ、話がわかる婆だぜ。ほらお嬢ちゃん、観念しなって」

「嫌だ! ふざけるな!」


 暴れる少女の腕を掴み男達は二階へ続く階段まで無理やり引き摺っていく。

 階段はカウンターの側。アイチが食事をしている直ぐ真横だ。


「……もぐっ」

 熱々のフレンチトーストを口一杯に頬張り、甘いココアで胃の中に流し込む。

 久しぶりの甘味が身体に染み渡り、溜まった疲労を癒してくれていた。


「やめ、なさい! 離して……離せってーのっ!」


 何とか逃げ出そうと必死になってもがき続ける少女だが、体格の良い男四人組との力の差は歴然。むしろ暴れる動きに合わせて揺れる胸が、男達の欲情を無駄に搔き立てた。


「くそっ、ガキの癖に美味そうな身体しやがって」

「おとなしく観念しちまえよ。そうすりゃ、お互いに楽しい時間を――どっわ!?」


 我先にと先頭を歩く男が階段の手前で何かに足元を掬われた。


「――痛ッ!?」


 完全に油断していた男はそのまま正面に転倒、階段に顎を強く打ち付けた。

 痛みに悶絶する男の側には空き瓶が転がる。


「あ、あのガキ! 今、杖で瓶を……!?」


 目撃した男の一人が指を差すと同時にアイチは立ち上がり、逆手に握っていた杖を回転させ少女を掴む手を叩き、拘束が緩んだ隙を見て自分の方へと引き寄せる。


「えっ、なっ――きゃっ!?」

「そのまま、足元に気を付けて、後ろに下がっておくんなさい」


 男達から引き剥がした少女の胸元を杖で押して自身の後ろへ下がらせる。

 突然の事に少女は戸惑っていたが、自分が助けられた事実は認識できていた。


「あ、あの。ありがと」

「いえいえ。此方こそ余計な真似をしちまって」

「おい、ガキ!」

「テメェ、何の真似だッ、ああッ!?」


 転んだ男は立ち上がり顔を真っ赤にして恫喝。それに合わせ他の連中も威勢の良い声を張り上げるが、アイチは臆する様子も見せず、指に付着したフレンチトーストの砂糖を舐めってから、眼帯に覆われた顔を居並ぶ男達に向ける。


「この男の子、目が……?」

「いけませんよ兄さん方。嫌がる娘さんを無理矢理ってのは、ちょいと頂けない」

「うるせぇ! ふざけた喋り方しやがって……痛い目に遭いたいのか、ゴラァ!」


 美味しいチャンスを不意にされた男達は、怒りに身を任せ全員で椅子に座るアイチを取り囲むが、本人は落ち着いた様子でココアの注がれたカップを手に取る。


「クソガキがッ。舐めてんじゃねぇぞ、ああッ?」

「舐めるなんてとんでもありやせん。ただ、兄さんらの不格好な口説き方が、ちょいと気に障っただけですよ」

「こッのガキ!!」

「――ちょっ……!?」


 ココアを啜りながらの挑発的な一言に激昂した男が腰に吊るした剣の柄を握る。流石に驚いた少女は制止の声を張り上げようとしたが、刃を首元に突き付けられたのはアイチにではなく剣を抜こうとした無法者の方だった。


 静まり返る店内。アイチは椅子から立ち上がり杖……いや、仕込み杖から細身で片刃の刀を逆手で抜刀し刃を男の首筋に突き付けていた。


「えっ、あっ……は、はや……」


 男は柄を握ったまま固まり、喉元に迫る殺気にわなわなと唇を震わせた。

 誰にも、それこそ目の前に居た男ですら気が付いた時には刃が届いていた。

 剣を抜いた瞬間だけ切り取られたかのような早業に、皆が絶句し空気が硬直する中で、男の誰かが言葉を零した。


「そ、そういえば……噂に、聞いたことがある」


 知っているのか? そう問うような視線が男に集まった。


「盲目で、チビで、暑苦しい恰好のガキで、みょうちくりんな喋り方をするが、仕込み杖のとんでもなく凄腕の剣客が居るって……マジだったのかよ」


 今度は少年に衆目が集まる。


「強いかどうかは知りやせんが、特徴は合ってますね……ところで、お姉さん」

「な、なによ?」

「連中に、頼み事があったんじゃないんですかい?」


 ハッとなった少女だったが、直ぐに殺気に縫い付けられ動けない男達を睨む。


「あったけどさ、もういい。こんな情けない連中、こっちからお断りだっつーの!」

「テメェ――んぐッ!?」


 べぇと舌を見せる少女を恫喝しようとするが、僅かに滑った刃の感触に押し留められる。


「わ、わかった。降参だ、不埒な真似もしないッ。だから、剣を下ろしてくれ!」

「ご理解頂けて、感謝しますよ」


 離した刃をクルッと回転させ鞘へと納めた。

 殺気から開放され一度は安堵の息を漏らすが、ここまでやられて男達も腹の虫が治まらない。腕っぷしの強さで稼いできた人間が、腰の剣も抜かずに降参では面子が保てないと、一度は引いた様子を見せながらも、互いに無言で目配せを送り合い、カウンターの方へと戻るアイチに悟られないよう、ゆっくり慎重に得物に手を伸ばす。

 指先が柄に触れたその刹那、風切り音が空気を断つ。


「……あ?」


 一拍遅れてストンと金具で繋げてあるベルトごと、剣が床へと落下した。


「兄さん方も人が悪い。滅多な事はよしてくださいよ」

「――ッ!?」


 振り向いていたアイチの手には、いつの間にか抜き身の仕込み杖が握られていた。


「店汚すなって釘も刺されてるんだ。互いに、ここいらで手打ちにしときましょう」


 静かだが殺気の滲む警告に、絶句した男達の顔が一気に青ざめた。


「い、行くぞッ。ここ、これ以上、相手にしてられるか……!」


 ベルトを失いずり下がるズボンを押さえながら不格好と無様を晒した男達は、食事と酒の代金を叩き付けると逃げるように店を後にしていった。


 騒々しい連中が退散し店内は静けさが宿る。

 残ったのは無関心を貫く無愛想な店主と、刃を鞘に戻してカウンターに座り直し、黙々と食事を続けるアイチ。そして終始、口を挟む暇すら与えられなかった少女の三人だ。

 ハッと意識を取り戻し、戸惑いながらも食事をするアイチに深々と頭を下げる。


「あ、あの……ありがとう。助けて貰っちゃったみたいね」

「いやいや、余計なお節介を焼きました。店主も、注意されてたのに、騒がせてしまって申し訳ありませんね」

「……ふん。散らかってなきゃ別に構いやしないよ」


 軽く頭を下げながら、アイチはカップを両手で握り締め音を立ててココアを飲む。

 先ほどまでの勇猛さからは打って変わって、気が抜けた謙虚な態度を見せるアイチに、少女は値踏みでもするような不躾な視線を注いだ。


「そういえば挨拶がまだだったわね」


 頬を綻ばせた少女はぽんと手を叩き、椅子に座るアイチとの距離を詰める。


「わたしはアンジェリカ、近くの町に住んでるの。貴方のお名前は?」

「アイチです。市道アイチ」

「素敵な名前ね、ちょっと変わってるけど。わたしのことはアンジェで構わないわ」

「はいはい、よろしくです。アンジェリカさん」

「だから、アンジェで……」

「いえいえ。そんなそんな、アンジェリカさん」

「……むむっ」


 素っ気ない対応に少女……アンジェリカは苦々しい顔をするが、めげずに話を続ける。


「君、中々の強いじゃない。連中の間でも噂になってたみたいだし、もしかして有名な傭兵か何かなのかしら?」

「まさか。傭兵なんて物騒な仕事、とてもとても」

「物騒って、アンタがそれを言う? 凄腕の剣客だって言われてたわよ」

「自分はただの流れ者です。そりゃ道中で面倒事に巻き込まれて、斬ったはったは何度かありますがね。まぁ、噂話には尾ひれ背びれが付きモノですから、話し半分程度に聞いといて貰えると、当事者としては助かります」


 謙虚な口調で告げて最後の一切れを口に放り込み、名残惜しそうに咀嚼する。


「なら、アイチはこんな片田舎に何をしに? 観光するような場所じゃないわよ」

「特別に何をしようって訳じゃありませんけどね。ただの道中ですよ」


 探るような口調にアイチは嫌な予感を抱きながら、皿に付着したシロップを指で拭い最後まで味わう。


「急ぐ旅じゃないんなら、ちょっと君に聞いて欲しい話があるんだけど」

「誰も急ぎじゃ無いとは言ってません。一応、目的ってモンもありますから」

「そうだとしても、明日明後日までの大急ぎって訳じゃないんでしょ」

「そりゃ、まぁ……そうですが」


 つい優柔不断なところが出てしまい、アンジェリカはこの隙を狙い顔を近づける。


「君にとっても悪い話じゃないと思うわ。最終的に何処を目指すにしても、長く続く旅暮らしなら先立つ物が必要でしょ? 単刀直入に言うは……君の腕前を見込んで、お願いしたい荒事があるの」

「お断りします」

「ありがと。実はわたしの住んでる町が……って、はあっ!?」


 少しは聞く耳を持ってくれると高を括っていたのだろう。アイチににべもなく断られ、アンジェリカは両目を見開いて大袈裟に驚いた。


「申し訳ありませんが、懐具合もまだ比較的に温かいモンで。わざわざ厄介事に首を突っ込んでまで稼ぐほどじゃありませんから」

「だからって、話くらい聞いてもいいんじゃない。それが人情ってモンじゃない?」


 ココアを飲みながらそっぽを向くアイチに追い縋るよう、アンジェリカは正面に回り込み熱心な説得を続けるが、面倒事に関わりたく無いと言う心は解せない。


「すいません。義理も人情も、自分にはもう手一杯なんです」

「さっきは助けてくれたのに!」

「アレは連中が騒がしかったからですよ。見捨てるのも寝覚めが悪いですし」

「今! 今まさに見捨てられそうなんだけどなぁ!?」

「お力になれず申し訳ありません」


 アンジェリカから身体ごと顔を反らしココアを飲み切ると、アイチは立ち上がり懐から数枚の硬貨を取り出す。


「目的のある旅ですので、お先に失礼さえて頂きます。店主さん、馳走になりました。勘定、ここに置いておきますよ」

「毎度」

「ちょちょ、ちょっと待って、待ってってば!」


 支払いを済ませ何度も呼び止めるアンジェリカを無視し、アイチはそそくさと店内を後にしようとする。

 尚も呼び止めてくるアンジェリカは、背後からアイチの肩に手を伸ばした。


「――待ちなさいって!」


 諦めの悪さに流石に苛立ったアイチは内心で舌打ちを鳴らす。

 手荒な真似はしたくない。これ以上、無駄に引き止められる前に、さっさとこの場を立ち去ってしまおうと踏み出したその一瞬。背後の気配と足元の確認を怠った迂闊さが、アイチに不運を呼び込んでしまった。


「……ん?」


 右足裏が硬く不安定な何かを踏んづけた。前に進むはずだった重心が行き場を失い、アイチの身体は大きく真後ろへと傾いた。踏んだのは空き瓶。乱暴者を転ばせる為に蹴ったのが運悪く足元に転がっていたのだ。


「――うわっ!?」


 咄嗟の出来事で崩れたバランスを立て直す事ができず、アイチは大きく仰け反りながら背中から床に転倒する。


「――危ないっ!?」


 背後から追い縋ろうとしたアンジェリカもこれにはビックリ。反射的に倒れる背中を支えようと手を伸ばす。アイチもその気配を察知して、彼女に掴まる為にと杖を握っていない右手を肩の後ろに回した。しかし、互いに伸ばし合った手は刹那の出来事で目測が合わず、指先すら掠める事なく素通りしてしまう。藁にも縋る気持ちで伸ばした手の指先が引っ掛けたのは、全く予想外のモノだった。


「……えっ?」

「――痛ッ!?」


 最後の悪あがきも虚しく、ブチブチッと布地を裂くような音を奏でながら、アイチは背中から硬い床板の上に倒れ込んだ。寸前で頭を浮かせて後頭部は守れたが、受け身を取ることまでは出来ずに背中を強打する。


「痛ってて……ん?」


 鈍い痛みに顔を顰めながらも、右手の中にはまだ布の感触がある事に気づく。指先で探るよう確認してみると、引っ掛かった布は固い布地だけでは無く、何やら触り心地の良い柔らかで薄地が内側に重なっているのが分かった。


「き、君ッ……アンタは」

「……おやまぁ。見事な無毛地帯」


 アンジェリカの震え声と驚いたような店主のコメント。

 アイチは全てを察知した。今現在、アンジェリカがとんでもない辱めを受けていて、恐らくは見えぬ眼前の上では、つるんとした桃源郷が広がっているであろう事を。


「……あ~っと、見えてない。見えちゃいませんから、ご安心してください」

「~~っ!?!?」


 余計な一言の直後、アンジェリカの顔は首まで真っ赤になった。

 短い沈黙の後、思い切り息を吸う音だけが聞こえた。


「ワザとじゃないし八つ当たりなのはわかってるけど……こっの、馬鹿ッ、変態、痴漢、金払えええぇぇぇぇぇぇッッッ!?!?!?」


 最後のはそれでいいのか。

 疑問を呈したくなる罵詈雑言を捲し立て、アンジェリカの怒声が閑古鳥の代わりに寂れたトラットリアに鳴り響いた。


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