死がふたりを結ぶまで

篠矢弓人

花崩れの少年


 霞んだ視界の端を、一匹の蟻が横切った。

 自分の倍以上はある虫の死骸を引き摺り、せっせと巣穴へ運んでいる。小石を避け、窪みを登り、時折獲物を取り落としそうになりながらも、一心不乱に突き進む。


 檻の中、むき出しの冷たい地面に横たわってそれを見ていた少年は、引き摺られていく死骸のその後を夢想する。何層にも分かれた真っ暗な巣穴の中。夥しい数の蟻に囲まれた虫の死骸は、喰い千切られ、解体され、とかされ、やがて──。


「おい起きろ。飯の時間だ」 


 少年の空想は、食事を運んできた奴隷商人の声で遮られた。商人は食事を出し入れするための小窓から屑野菜を水で煮ただけのスープを二人分置くと、鉄格子を揺すって鍵に異常がないかを確認し、何も言わずに出て行った。


「あ……」


 自分よりも重い虫を運べる蟻でも、木の椀の重みには耐えきれなかったらしい。巣への帰路についていた蟻は、餌となるはずだった虫もろともぺしゃんこに潰れていた。呆気ない最期だった。


 ふと視線を移すと、早くもスープを食べ終わってしまったらしい幼い同居人が、じっとこちらを見ている。昨日この檻に放り込まれたばかりの子供は、少年よりずっと幼く、まだ幼児と言っても差し支えない年齢だった。朝晩二回しか出されない粗末な食事では、きっとお腹が空くのだろう。


「俺の分も食べな」


 言葉が分からないのか、首を傾げている子供に、少年は自分の椀を差し出した。両手に繋がれた鎖手枷がジャラリと鳴る。子供は戸惑ったような目で、少年と木の椀を見比べた。


「遠慮すんなよ。俺はもうじき死ぬから、いらない」


 自嘲気味にそう言った少年の言葉が伝わったのか否か。子供は少年の手から椀をひったくると、檻の隅に縮こまるようにして、がつがつとそれを貪った。

 誰も取らねぇから、ゆっくり食べな。そう言いたかったが、言っても無駄かと口を閉じた。本音を言うと、もう声を発するのすら億劫だった。もう一週間以上、少年は殆ど何も口にしていなかった。


 頭は常にぼんやりとしていて、視界は暗い。体は冷えきり、手足は枝のようにやせ細っている。もはや空腹さえ感じない。死の足音はひたひたと、少年の背後へ迫っていた。


 しかし少年は、むしろ死神のかいなに抱かれるその時を今か今かと待ち望んでいた。出来ることなら苦しまず、あの蟻のように呆気なく死にたいものだが、贅沢は言わない。この奴隷商の檻から一歩も出ずに餓死できるのなら、それで良い。ただの奴隷として買われ、どこの誰とも知らない人間のもとで働くのに比べたらマシだった。


 少年は数日前まで『エルムの花小屋』の商品だった。エルムの花小屋とは、ここザルド帝国の植民地であるエルムという国から仕入れた子供達を専門に取り扱う店だ。仕入れた少年少女たちはそれぞれ花の名前が与えられ、客である帝国人に向けて、舞台の上で歌や槍舞を披露する。そうして自分を見初めてくれる、たった一人のご主人様が現れるのを待っているのだ。少年も、そんな『花』の一人だった。


 沢山の血の繋がらない兄弟姉妹たちと一緒に船に乗ってこの国に売られてきた少年は、その類い稀なる歌と舞の才能を見込まれて幼い頃からは花小屋の舞台に立っていた。


 しかし、少年の買い手はなかなか付かなかった。少年の容姿が他の『花』とは異なっていたためだ。多くのエルム人は男女問わず華奢で色白、甘く愛らしい顔立ちや清廉な美貌をもっていたが、少年はそうではなかった。褐色の肌に筋肉質な四肢、太い眉が勇ましい精悍な顔つき。黒褐色の髪質は硬く、金色に輝く大きな猫目は、気の強そうな印象を与える。万人が求めるエルムの花を鑑みると、少年はいわゆる規格外だった。


 けれど少年は来る日も来る日も舞台に立ち、肌を磨き、教養を身につけ、いつ売られても恥ずかしくないよう自己研鑽を怠らなかった。それは、いつか自分だけの主人が現れるという夢見がちな希望がさせたというよりは、少年がその生活を気に入っていたからこそ為し得た努力だった。


 少年はただ、楽しかったのだ。兄弟姉妹と過ごす花小屋での生活が、楽しくて仕方なかった。月日が経ち、他の花たちが次々と売られ、新しい弟妹が増えてとうとう最年長となった後も、少年は花としての生活を続けていた。


 そんなある日、いつも通り演舞を終えた少年は花小屋の店主に呼び出され、馬車に乗せられた。


「ここ最近、花崩はなくずれは出なかったんだが……すまねえなぁ。お前さん、もうここには置いとけねぇんだ」


 店主にそう告げられて初めて、彼は自分が十五歳になったことを知った。故郷を出てから十年が経過しようとしていた。愛玩用の『花』としての寿命が尽きた以上、花小屋に居ることはできない。花崩れとなった少年は、労役用の奴隷を扱う奴隷商に売り渡された。


 檻に入れられた少年は、今回は買い手がつくことを望まなかった。『エルムの花』は奴隷とは違う。『花』として育てられ、愛でられて生きていくのだと教え込まれていた少年には、奴隷として生きる人生なんて想像もつかなかったのだ。そして少年にとって、奴隷として生きていくということは即ち、今までの人生も努力も全て否定されるようなものだった。


 今までの人生を捨てるくらいなら、全てを抱えたまま死んでしまいたい。こうして少年は生きることを辞め、飲まず食わずを貫き通していた。当然、商品に死なれては困る奴隷商人から散々殴られ、時には食べ物を無理矢理口に突っ込まれることもあった。それでも頑なに拒食を続ける少年にとうとう商人の方が折れたのか、そのうち放って置かれるようになった。


 ケホッ、と咳き込むと肋骨のあたりがズキズキと痛む。おととい商人に蹴られた場所だ。もしかしたら折れているのかも知れないが、そんなことは少年にとってどうでも良いことだった。


 目を閉じると、故郷エルムの海が瞼に映る。真っ白な砂浜、瑠璃色の海には帝国へ向かう船、可愛い弟妹たち、眩しい光に照らされた舞台……。


 ああ、コレが走馬灯というかやつか。少年は力なく笑った。思い出すのは、美しい思い出ばかりだ。こうしてみると、案外悪くない人生だったんじゃないだろうか。


 けれど、少年には一つだけ叶えたい望みがあった。それは、とうの昔に少年の手から零れ落ち、諦めていた願いだ。けれど、もしも……もしも、人生をやり直せるならば。


「……誰かに、愛されてみたかった」


 そのとき、少年の呟きに呼応するように、ガチャリと鉄格子が開かれた。


 入ってきたのは奴隷商人と、背の高い黒服の男二人組だった。二人とも、純血のザルド人の証である黒髪に紫色の目をしている。一方の男の顔には、大きな傷があった。よほどの上客なのか、普段は客に対しても仏頂面の商人が揉み手で対応している。


「へぇ、申し訳ございません。十四、五歳の男と言われますと、ウチではコイツしか扱いが無くてですねぇ」


 檻の中には自分と幼児しかいないことから、少年は話題に上っているのは自分だと直ぐに分かった。黒服の二人が、道端のゴミでも見るような目で少年を見下ろす。


「この小僧が?死にかけじゃないか」

「いやいや、今ちょっと眠そうにしてますが、ちょうど一週間前に信頼できる筋から仕入れたばかりの新品でしてね。こう見えてコイツは元……」

「黙れ!」


 気づけば少年は叫んでいた。自分でもどこにそんな力が残っていたのかと思うような声量に、商人も驚いて口を閉ざす。


 自分が花崩れであることが知れれば、他の弟妹達の誇りまで貶められてしまう。自分は不出来だったせいで売れ残ってしまったが、エルムの花は本来こんな場所で二束三文で売られる存在ではないのだ。


 『花』の価値を貶めてはならない。ただその一心で、少年は声を張り上げた。


「……確かに、叫ぶ元気はあるらしい。この小僧で良いだろう。おい!」


 顔に傷がある方の黒服が呼びかけると、もう一方の男が商人に銭袋を手渡した。中を確認した商人が満面の笑みを浮かべているところを見ると、十分過ぎる代金が支払われたらしい。


 外は凍えそうな寒さだった。低い灰色の空からは、今にも白雪が落ちてきそうだ。少年は繋がれていた手枷を引っ張られ、いつかのように馬車に乗せられた。以前と違うのは、馬車がお貴族様でも乗せるかのような豪奢なものだったことだ。


「しかし、こんな子供を買うとは……旦那様の奥様探しは上手くいってらっしゃらないんですかねぇ?」

「馬鹿言え。これは旦那様から坊っちゃんへのお誕生日プレゼントだ」

「へえ、坊っちゃんの!そりゃあ良い、解剖には是非立ち会わせていただきやしょう」


 隣で交わされる二人組のやりとりに、少年の顔から血の気が引いた。彼らの言う『坊ちゃん』とやらは、わざわざこんな子供を買ってどうするつもりなのだろう。解剖という単語が嫌な想像を掻き立てる。嬲り殺されるくらいなら、いっそこの場で舌を噛み切ってやろうかと少年は思ったが、結局出来なかった。


 エルムの花は、呼吸の止まるその一瞬まで美しくあらねばならない。百合の毒を呷るか、銀のナイフで胸を刺すか、それが彼らの理想とする死に様だ。少年は殊更自分の容姿を醜く思っていたので、死ぬときくらいは無様な姿を晒したくはなかった。七日以上絶食したにも関わらず、まだ動き続ける己の心臓の生き汚さを少年は呪った。


 馬車は長いこと山道を走り続けた。車体が大きく揺れるたび、肋骨に激しい痛みがはしる。途中、何度か意識を失いかけたが、そのたびに黒服に叩き起こされた。二、三の山を越えると、やがて賑やかな市街地に出た。ザルド帝国の首都ヴェルデンだ。そこから更に進んだ先、閑静な郊外にその屋敷はあった。


 威圧的な灰色の壁。黒い屋根はあちこちが円錐状に尖っていて、まるで城塞のようだ。窓は多いが、この寒さに開ける者はいない。


 男達に引き摺られるようにして、少年は中庭に連れて行かれた。建物に囲まれて四角く切り取られたその場所は、広さはあるが箱庭のような印象だ。その一角、ぽつんと置かれた小屋の前に、ひょろりと背の高い赤毛の青年が立っていた。黒服の1人に呼び掛けられると、青年はソバカスの浮いた顔をあからさまに顰める。


「うっへぇ、マジでやるんですか?イゼドさん。坊ちゃんは『キレイな状態で連れてこい』って言ってたじゃないですか」

「パーシェ、ここでは旦那様の命令が絶対だ。いちいち口答えするんじゃない。それより準備は出来ているんだろうな」

「やりましたけど、馬用のヤツっすよ?人間にも使えんのかね……」


 傷の男はイゼドという名らしい。パーシェと呼ばれた青年が小屋を開けると、黒服達は少年を小屋の中に押し込んだ。小屋の中は熱気が充満していて、鉄の焼ける臭いがする。イゼドが手を払う仕草をすると、パーシェは「ごめんな、チビちゃん」と言い残して小屋を出て行った。


 分厚いグローブをはめたイゼドが、炉に積まれた焼け石の中から棒のようなものを持ち上げる。その手に握られた真っ赤な焼き鏝を見て、少年は自分が今からされる仕打ちを悟った。


 とっさに逃げようとした少年を、もう一人の黒服が取り押さえる。口の中に布を詰め込まれ、床にうつ伏せに磔にされた。ボロ切れのようなシャツがたくし上げられ、外気が肌に触れる。


 いやだ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ

 どうして、何で、何で俺だけこんな目に

 醜いから?花崩れだから?

 誰にも愛してもらえなかったから? 

 いやだ いやだよ

 誰か、誰でもいいから、助けて

 かみさま……!


 少年の祈りは届かなかった。皮膚の焦げるおぞましい音と同時に、千の針で刺すような痛みが身体中に走った。焼き鏝を当てられている腰を中心に、痛みと熱が広がっていく。


 声にならない悲鳴が迸るたび、詰められた布が喉に入ってえずく。何度も気を失いそうになるが、吐き気と痛みで再び覚醒させられる。地獄だった。


「悪く思うなよ坊主。旦那様は何事にも区別を付けたがるお人でな、使用人か奴隷か、判るようにしておけとのご命令なんだ」


 焼き鏝を押し当てながら、イゼド世間話のような軽い口調でそう言った。当然、少年には聞く余裕などなかったが、彼は気にせず話続ける。


「おっかない人なんだよ。まぁ、オマエのご主人様よりはマシだがな」

「坊ちゃん、お顔だけは女神様のようなんですけどねぇ」

「違いない。だが、中身は正真正銘の悪魔だ」


 イゼドがそう嘯いたときだった。バンッと大きな音を立てて、小屋の扉が開かれた。驚いた黒服達が振り返った拍子に焼き鏝が外れ、拘束が緩む。涙で滲んだ視界の先に見えたのは、扉の前で仁王立ちする小さな子供の姿だった。


 新雪のような真白い肌に、黒檀のように艶めく黒い髪。浮世離れした白皙の美貌。黒服達を射抜く双眸は、ゾクリとするほど冷たいすみれ色をしている。


 神様が来て下さったんだ。少年はそう思った。そう感じてしまうほど、彼の姿は美しく、超然とした神々しさを放っていた。


「ここで何をしている」


 透き通った高い声が、部屋の空気を一瞬にして凍らせる。容姿も声も中性的だったが、仕立ての良い服装から、辛うじてその子供が男であることがうかがえた。


「……坊ちゃん、お早いお帰りで」

「何をしているんだと訊いている」


 へつらう素振りをみせたイゼドを、彼は一蹴した。聴くもの全てに畏れを感じさせるような、他者を支配することに慣れきっているような、そんな温度の無い声で。


「僕は無傷で連れて来いと言ったはずだ」

「しかしですねえ、坊ちゃん」

「口答えするな」


 彼はぴしゃりと言うと、少年に視線を移す。少年は思わず身を縮こまらせた。少し動くだけでも激痛に苛まれるが、あの美しい生き物の視界に無様な姿を映す方が嫌だった。

 彼は硝子玉のような感情の読めない瞳で少年を見下ろすと、視線を逸らさないまま命令した。


「……イゼド、彼を部屋に運べ」


 今度はイゼドも逆らわなかった。少年は口布を外され、麦袋のように担ぎ上げられる。

 小屋を出る際に、派手な赤毛とすれ違った。パーシェだ。彼は緑色の瞳を細めて「遅くなってごめんな」と囁いた。どうやら彼が『坊ちゃん』を呼んできてくれたらしい。少年は朦朧とする意識の中で礼を言ったが、パーシェに伝わったかどうかは分からなかった。


 少年が運び込まれたのは三階の大きな部屋だった。壁一面の本棚と、天蓋付きのベッド。凝った造りの文机とソファが置かれ、暖炉には暖かな火が揺らめいている。窓際に一つ、空っぽの鳥籠が置かれていた。


「……ッ!」

「痛むだろが、我慢してくれ。無傷で寄越すように伝えたんだがな、彼奴らはお父様の言うことしか聞かないんだ」


 火傷した箇所を丁寧に冷水で洗って、薬を塗られる。本当は薄汚い身体を清めたかったようだが、傷に障るから今度にしようと『坊ちゃん』は言った。布を当て、包帯で固定した傷の上をなぞり、彼は小さく舌打ちをした。


「痕が残ったら厄介だな……他に痛いところは?」


 少年が遠慮がちに肋骨の痛みを伝えると、彼は幾つか質問をしたり触診した後、折れてはいないようだと呟いた。棚から出した塗り薬を布に塗布し、痛みのある箇所に貼り付ける。火傷の手当ての手際の良さといい、『坊ちゃん』はまるで医者のようだった。

 治療した箇所を真剣に検分していた彼は、突然思い出したかのように少年へ問い掛けた。


「君、名前は?」


 少年は『花』だった頃の名を名乗りそうになって、寸前で飲み込んだ。きっと自分の名は、もう新しい弟妹が使っている。


「……ありません」

「そうか。無いと不便だからそのうち考えよう。僕の名前はルウグだ」

「る、ぅーぐ?」


 舌を巻くような慣れない発音に苦心して少年が呼ぶと、幼い主人は「おや?」という顔をして首を傾げた。


「もしかして君、エルム人か?」


 その言葉に、少年は心臓が止まるかと思った。みるみるうちに血の気が引き、ガチガチと歯の根が合わなくなる。

 何で?何でバレた?どうしよう、自分なんかが花崩れだとバレたら、弟妹達に迷惑がかかる。


「ち、ちがっ……」

「その年齢でエルム人となると花崩れだな。ああ、別に隠さなくてもいい。僕の名前を呼ぶときの発音がエルム訛りだったからすぐ分かる。エルム語には濁音を含む語が少ないから発音に慣れないのだろう。エルム語は『に』の開拗音および二音目に長音符を含む場合が多いことから、猫の鳴き声に似ていると評されるらしいな。興味があるから今度聞かせてくれ。ちなみに僕の名前をエルム風に言い換えるなら火の神ルーグだ。まあ呼びやすいように呼ぶといい。何か質問は?」


 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。どうやら自分をエルム人の花崩れだと断定した根拠を述べられたのだと分かり、小さな主人がこんなにも饒舌だったことに驚き、訊きたいことはあるかと尋ねられていることを理解するのにたっぷり十秒を要した少年は、混乱しつつも口を開いた。


「ほんとに、神様だったんだ……」

「は?」


 少年は慌てて首を振った。神に助けを乞うたら貴方が来た。なんて突然言ったら、間違いなく頭のおかしい奴だと思われるだろう。


「ええと、ご主人様……?」

「お父様のように呼ばれるのは嫌いだ。名前で呼んでくれ。話し方も畏る必要はない」


 黒服達の会話から、自分の飼い主が『旦那様』ではなく目の前の子供であることは分かっていたので相応しく呼んだつもりだったが、駄目だったらしい。なるべく主人に失礼の無いようにと、少年は必死に舌を動かした。


「るぅ、ルぅーぐ……る、ルウ」

「ふむ、鬼火ルウか。良い妥協点だな」


 正確とは程遠い発音だったが、主人は思いの外お気に召したらしい。ルウ、ルウ……と自分でも何度か口にした後、今度からそう呼ぶようにと少年に命じた。


「さて、質問が無ければ仕事の話に移るが、何かあるか?」


 そう訊かれて少年は困った。どうやらこの主人は、自分が花崩れであることなんてどうでも良いらしい。弟妹たちに迷惑がかからないという点については安心だが、仕事という言葉が気になった。この帝国で、エルム人が就ける仕事なんて『花』以外には無いはずだ。奴隷として労役につけということだろうか。


 少年は少し前まで奴隷として生きるなら死んだ方がマシだと思っていたが、この気高く美しい子供の従僕になるのなら、それでも構わないと思い始めていた。他者に膝を着かせる風格を、この小さな主人は持ち合わせていた。


「あの、ご主……ルウ。俺エルム人なのに、気にしないのか?」

「僕と歳の近い同性であれば別に問題ない。君に引き受けて貰いたいのは、人体実験の被験者だから」


 歳が近い、という言葉にも驚いたが、その後に続く言葉で少年はさらに驚愕させられた。そういえば黒服達が馬車の中で解剖がどうのと話していたが、冗談ではなかったらしい。少年の無言をどう受け取ったのか、ルウは大きな瞳を瞬かせて小首を傾げた。


「あぁ、別に君の体を切り刻んだり、ヤク漬けにして売り飛ばすつもりは更々ないから安心してくれ。人体実験とは言っても、趣味の範囲だから」


 全く安心出来ない補足に、少年の顔が引きつる。

 とんでもない主人に拾われてしまった。神々しい救世主だと思っていた子供の中身は、とんだ狂科学者だったらしい。


「つまり俺は、その……アンタの趣味用のオモチャってこと?」

「理解が早くて助かる」


 ルウは再び棚を漁ると、今度は小瓶に詰められた薬品を持ってきた。『冥府の月』というラベルが貼られた小瓶の中には、とろりとした紺色の液体が入っている。


「せっかくだから、僕の専門分野を君に見せておこう。君もこれから投与されるものが何なのか知りたいだろうから」

「専門?……さっき治療に使ってくれた塗り薬とか、そういう医薬品の調合が専門なんじゃないのか?」

「それは表向きの趣味だ。お父様は僕が医者を目指しているのだと信じ込んでいるようだからな。……手を出してくれ、これは飲まずに使う種類のものだ」


 ルウは少年の手を取ると、そこに小瓶の液体を一滴垂らした。紺色の液体は一瞬ぎゅっと縮んだかと思うと、みるみるうちに糸状に解ける。糸が隙間無く絡み合いながら楕円に広がると、やがてその中に、キラキラと光が灯り始めた。幾条かの星屑が零れ、綿のような雲が、すーっとその下を滑っていく。

 そうして最後に、金色に輝く球体がゆっくりと浮かび上がった。──月だ。


「きれい……」


 掌に小さな夜空を創り上げたルウは、少年の反応にほんの少しだけ口角を上げて言った。


「僕の研究分野は魔術薬。人になし得ぬ奇跡を追求する学問だ」






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