05 安息と影
安紀十六年十月十日
本城国元老院でとあることが評議され可決された。それはこの二百年ほど選任されなかった太政官職の選任であった。
本城国での太政官は、国王が何らかの事情で一定期間以上国務に就けないような状態である時、国王の代理として国務を担う者のことである。国王が国務に就けない状態とは、病気やケガもあるが、本城国では国王が十八歳未満の若年の場合も該当するとなっていた。
現国王である安憲王は五十才になる頃に、非常に稀な血液の病気を発症していた。世界中を探してもその症例はいくらもなく、有効な治療法も見つかっていなかった。それでも様々な対症療法を受け、国務と言う激務をこなし続けていた。
だがその年の初め頃より体調を崩すことが増えた。主な症状としては、非常に風邪をひきやすいこと、そして、突如襲ってくる異常な疲労感。急に立っていられないほどの眩暈に襲われ、再び立ち上がることが出来ないほど消耗している。そう言うことが多くなった。それでも動ける限り国務をこなしていた。
しかし夏になり、気を失うほどの疲労感に倒れてしまうようになった。非常に疲れやすいと言う症状の病気でありながら、国王と言う忙しい仕事は無理なのであった。元老たちはしばらく国務を離れ、休養するように説得する。始めは拒否していた安憲王であるが、自分の為に国務が滞っている現状があると認識。元老たちの勧めに従って離宮に移り、しばらく休養することにした。
そして安憲王が離宮へと出発したこの日、国王代理を決めるべく元老たちは評議の場を持った。国王代理となる太政官は元老から選ばれる。そして選ぶのは元老だ。評議は揉めるかと思われたが、意外なことですぐに終わった。いや、正確に言えば、始まる前に終わった。評議が始まろうとするとき、評議室の準備に、院付き、と呼ばれる王宮内の元老院関係の世話をする者たちがいた。その中で長老とも呼ばれる年配の院付きの一人が、太政官をお決めになるようであればこれを元老の皆様にお渡しするようにと預かっております、と、一通の封書を差し出した。それは安憲王の親書であった。内容は、太政官職を選任するのであれば、重田永信を推薦したい、と言うものであった。胸の内では皆思うところがあったかもしれないが、安憲王がそうおっしゃるのであれば、と異議を唱える者はいなかった。
元老、重田永信が太政官となった。言うまでもないことであるが、太政官の権限は、国王と同じである。
安紀十六年十一月三日
領南離宮の警備隊に所属する野々村隊員は、遅い昼食を取るため職員用の食堂へやって来た。日替わりランチのトレーを受け取り、殺風景な食堂内を見回す。すると小隊長である少尉が一人で座っているのを見つけた。どうやら彼女も昼食が遅くなったようだ。彼は彼女の前に行った。
「一緒にいいですか?」
そして腰を下ろす前に尋ねた。彼女は顔を上げ、
「ええ」
と応えて食事に戻る。
「少尉も遅くなったんですね」
腰を下ろしながら野々村隊員は言った。
「来週、陛下のご家族がここに移って来られるでしょ、それで宮務庁の方が見えてたの、その打合せで」
「ああ、王妃様と王女様ですね。楽しみです」
「そうなの?」
「はい、どんな方なのかなって、会ったことないですから」
「会ったことって、せめて、お会いしたことありません、ってくらい言いなさい」
「すみません」
「そっちはなんで遅くなったの?」
二人は口に食べ物を運びながら器用に会話していた。任務をこなしながら寸暇を縫って食事をしなければいけないことのある、軍隊ならではの特技であろうか。
「観光客が入ってこようとしてちょっと騒ぎになったんです」
離宮の建物周辺の塀の内側は、一般の人は立入禁止であるが、離宮は歴史的建造物なので観光客が訪れる。そして時々、門に張り付いている王宮警察の警官の目を盗んで侵入しようとする人がいる。注意してすぐに治まればいいが、無視して突入したりする人がいる。そう言う時は警備隊が呼ばれたりする。ちなみに、右の方で歴史的建造物と述べたけれど、約三百年前に立てられた元の建物は先の大戦で焼失している。今の建物は六十年ほど前の戦後に建て直された鉄筋コンクリート製である。しかし元々の神社のような外観を再現してあるので観光客が来るのである。
「また?」
「はい、今日はナシ国人でした。言葉が通じなくて往生しましたよ」
「そう、そんな騒ぎ気付かなかった。ごめんね」
「いえ、いいですよ、すぐ治まりましたから」
「そう、日報にちゃんと入力しといてね」
「ええ? 大したことなかったからいいじゃないですか」
「ダメ。って言うか、そんことでもないと日報に書くことなんてないでしょ」
そう、離宮の警備なんて何もすることがない。することがないので掃除やらなんやら、離宮職員のお手伝いをしてたりするくらいである。王家の方やその関係者が利用する場所と言うことで、一応テロ対策として一小隊配備されているが、離宮警備隊が設置されてから一度も何も起こったことなどない。拳銃は装備しているが、物々しい格好になるのは好ましくない、と言うことで、自動小銃は保管庫内の飾りである。毎朝の点検と、月二回の訓練の時以外は取り出すことはない。
本土東部軍の傘下となる領南離宮警備隊。トップは東部軍本部にいる大佐だが、そこから一気に五階級も飛んだ少尉が現地指揮官を務めるような警備隊。構成は二分隊編成の一小隊。小隊長である少尉を含めて十二名。このような平和な環境であるのが頷ける。
「分かりました」
野々村隊員がそう答えると、食事を終えた彼女は立ち上がり、
「ちゃんとやっとくのよ」
と言って去っていった。
本当に神社のように思ってしまうが、離宮の中心にある建物は本殿と呼ぶ。そしてその左右に、本殿の半分ほどの面積の建物がある。本殿は二階建てであるが、左右の建物は平屋である。本殿の東側にある建物を左殿、西側を右殿と呼ぶ。
それらの建物は、東西約三キロ、南北約四キロという広大な敷地のだいたい中央にある。建物は南を向いており、約二キロ先の敷地の境界を過ぎると、国道、高速道路、鉄道などの、本土東西の交通の主要な道路等がある。それらを過ぎると、断崖と呼ぶほどではないが二十メートルほど下る。そしてその先、そう広くない平地に旧国道や民家等があり、その先は白浜、そして海である。
その浜から西はしばらく岩場が続いたあと、本土南部の臨海重工業地帯へとつながっていく。東側は断崖となり、それはそのまま本土東岸の北部にまで延々続く。離宮があるのは首都、柱奥市から東に七百キロほど離れた領南県領南市である。そこは本土東端南部の地であり、離宮から本土東端までは五十キロほどである。
先に述べた離宮南側の浜は、国王家である御前家の先祖が、東園島から本土へ渡ってきた時に、始めて上陸した地である。そして離宮は、上陸後に仮の拠点として初めて建てられた建物が元である。つまり、国王家が本土に持った初めての家があった場所である。
右殿の南東角にある警備隊詰所に、尾崎軍曹が顔を出したのは十七時半を過ぎた頃であった。彼はその夜、夜勤であった。すぐにロッカールームで装備を整え、隊長である少尉の前に行った。引継ぎ事項を確認する。何もなかった、いつものことであるが。その後自席で何をやるともなく、監視カメラの映像が映る壁面モニターを眺めていた。まあ、定時の見回り以外、夜勤ではそんなことしかやることがない。
壁面スクリーンの一角にはテレビが映されていて、夕方のニュースをやっていた。
『球磨島で建設の進んでいるナシ国軍の基地で、今日動きがありました。先週、新たに一群の施設が完成したようだとの政府発表をお伝えいたしましたが、本日、球磨島のナシ国軍専用港に強襲揚陸艦ワンと、三隻の大型輸送船が入港したとのことです。接岸した船からは大勢の兵員が港に降り立ち、部隊ごとに整列後それぞれ車両に乗り込み、完成した基地施設へ向かいました。政府の見解では、本日到着した兵員の数は一個師団規模と思われると言うことです。また、輸送船からは大型の高速輸送ヘリ五機、装甲車両は数種で計十両ほども陸揚げされたとのことです。これで昨年のナシ国軍駐留開始から、球磨島には二個師団規模のナシ国軍部隊が配置されたと言うことになります。東部諸島の租借地に設置されるナシ国軍基地の意義は、モス国の脅威に対するものと言われておりますが、モス国から遠く離れた地に陸兵を配置するのは、はたしてその意義に沿うものなのかと、今後また民政院議会などで物議を醸すこととなりそうです』
やはり皆軍人である、やることのない警備隊と言えども。そのニュースには全員が目をやっていた。
「あからさまだよなぁ、こんなのやっぱ大山を狙ってるとしか思えないじゃん」
誰かがそう言う。
「だよな、二個師団? こっちは大山基地に何個師団いるんだっけ?」
「さあ、一個師団くらいじゃね?」
「ヤバイじゃん、来られたら終りじゃん」
「かもな」
「大山に増員とかってなったら、どこの部隊が回されるんだろ」
「なんで?」
「そこに転属願い出そっかなって」
「なに、戦場に行きたいわけ?」
「一回くらい戦闘経験したいと思わね?」
「俺はいいや」
「そうか? 一度撃ってみたいじゃん、人を」
若い隊員たちの会話を、事務仕事をしながら聞いていた少尉であったが、そこで口を挟んだ。
「物騒なこと言ってないで、勤務終了の人は片付けを始めなさい」
了解、などと返して、隊員たちが動き始めた。でもその中の一人、大山基地に行きたいと言った丸野隊員は少尉にこう言う。
「でも、せっかく軍隊にいるんですから、一度くらい敵に向かって撃ちたいと思いませんか?」
「思いません」
「え~、少尉変ですよ、こんなとこにいたんじゃ全然軍隊って感じしないじゃないですか。警察官やってた方がましって感じですよ」
「平和が一番よ」
「そりゃそうですけど、俺は一度は撃ってみたいです、敵を」
ずっとモニターを見ながら相手をしていた少尉が手を止め、丸野隊員を見た。
「丸野君、今から殺されるって、本気で感じたことある?」
皆聞いたことのないような少尉の声だった。
「いや、そんなことないですけど」
「じゃあ、今夜寝る前にでも、敵に銃口を向けられて、殺される、今すぐ殺される、逃れようがない、そう感じた時にどう思うか考えてみて」
「はあ」
「そして、その時の気持ちを想像した上で、本当に殺されてみて、想像の中で」
「……」
「その結果、殺さるってことをどう言う風に丸野君が感じるか分からないけれど、丸野君に殺される相手はその気持ちを持って殺されるわけ。人を殺すってそう言うことよ、多分だけどね。一度考えてみて」
「はあ、はい、分かりました」
静かになった詰所内で、勤務を終える隊員たちの片付けの音だけが遠慮がちにしていた。
「ひょっとして、少尉は戦闘経験あるんですか?」
しばらくしてから野々村隊員が尋ねた。少尉は一息の間考えた様子で顔を上げる。
「私がこう言うこと言うと変?」
答えず問い返した、いつもの口調で。
「いえ、少尉もそう言うこと考えてるんだなって」
「そりゃ私も一応軍人ですからね、軍隊らしくないこんなところで、尉官なんて立場でもあるわけだし」
途中の言葉は丸野隊員に向けて言った。
「いやそんな、俺は、すみません」
丸野隊員がそう言って、ヒョコっと頭を下げる。
「軍隊らしくって言うなら、私がこう言うのは何だけど、上官に俺って言うのはやめた方がいいと思うよ。私じゃなかったら平手打ちくらい食らってるかも」
「すみません、気を付けます」
「まあ、私にはいいけどね、気を付けて。さあ、上りの人はそろそろいいわよ、お疲れ様」
そろそろ十八時であった。夜勤ではない隊員たちがぞろぞろとロッカールームへ向かいだした。ロッカールームからは、敵を撃ったことあるのかと思ったぜ、とか、少尉が銃撃戦とか想像出来んよな、なんて声が聞こえて来る。少尉は何も反応せず事務仕事を再開していたが、尾崎軍曹は横目でロッカールームを睨んでいた。
やがてロッカールームから出て来た隊員たちは、少尉や残っている者に声を掛けて詰所を出て行った。
日報をチェックし終えた少尉が席を立ち、ガンベルトに手をやりながら、
「私も上がっていいかな?」
と、夜勤のメンバーに声を掛ける。
「もちろん、お疲れ様でした」
尾崎軍曹がそう返すと、ガンベルトを外し、
「じゃあ……」
と、少尉が言ったところで電話が鳴った。少尉が電話機に視線を移したのを見て、
「いいですよ、上がってください」
と、尾崎軍曹は言って受話器を取った。少尉は外したガンベルトをぶら下げて、お願いね、とロッカーに向かった。
防刃ベストを脱いで警備隊の制服だけの姿でロッカールームから出て来た少尉は、ガンベルトを外している最中の尾崎軍曹を見て、
「どうしたの?」
と尋ねた。尾崎軍曹は外したガンベルトを持ってロッカールームに行こうとしながら答える。
「王妃、王女が移って来られますよね、それで、女性だから監視カメラで映す角度とか範囲を、ちょっと工夫して欲しいところがあるらしいんです。あっ、離宮事務局の次長からです。だからちょっと行ってきます」
「左殿の方?」
左殿は全て王家の方々のプライベートエリアになっている。緊急の時は別だが、通常は王家の方が、いる、いないに関係なく拳銃など装備して立ち入ってはいけないことになっている。ガンベルトを外しているのを見てそう聞いたのだ。
「はい」
「こんな時間に?」
「はい、すぐ来てくれって」
そう言って背を向ける尾崎軍曹に少尉がこう言う。
「いいわ、丁度装備外したから私が行ってくる」
「えっ?」
尾崎軍曹は振り返った。
「どこに来てって言ってた?」
「いやいいですよ、勤務終わってるんですから」
「いいの。で、どこに行けばいい?」
「あー、本殿から左殿への手前の渡りの所で待ってると言ってました」
「わかった」
そう言いながら手近にあったクリップボードを手に取り、少尉は詰所を出て行った。
女性らしい配慮、と言えばそうなのだが、事務局次長の指摘は行き過ぎでは、と思えるほどであった。元々左殿内部を映すカメラは少ない。王家の方々のプライベートを覗き見ることなど畏れ多いからだ。カメラが取付けてあるのは、外部から入って来られるところが映るようなところだけである。カメラ映像をセンサーとして使うシステムがある。侵入者があれば、そのシステムが映像で判断して警報を発する。そう言う仕組みである。
そうは思いながらも、少尉は事務局次長について歩き、指摘事項をクリップボードに書き留めていった。その都度、検討いたします、としか言えなかったが。
指摘は全部で五か所。全ての要望を聞いて別れてから、少尉はもう一度一か所ずつ回り、ここは映したいところをズームして指摘の部分は映らないようにしよう、ここはカメラを少しだけ上に振ろう、などと考えていった。そして最後の所に戻る。そこは北側のテラスに出たところ。建物としては裏側となる北側だけは、数年前の全面改修の時にかつての外観を踏襲せず、大きなガラス窓が並んでいる。掃き出し窓と言うやつだ。テラスに取り付けてあるカメラはその窓を狙っている。その窓に近付く者を映すようになっているのだから当然である。しかしそのカメラの向きでは、お部屋の中が少し映ってしまっていないかと言われたのである。元々そう言うことにならないように壁の方にカメラは寄っている。ほとんど映っていないと思うけど、ほんの少しでも映ったらダメなのだろうか。少尉はそんなことを考えながら、通路の掃き出し窓を開けてテラスに出た。
十一月に入ったと言うのに、昼間は長袖では暑いくらいであった。しかし暗くなってきたこの時間の風は、肌寒いの一歩手前くらいの涼しさで気持ちいい。少尉がそんな風に感じながら出たテラスに人がいた。離宮職員だと思ったが、その人物は上下スウェット姿だった。左殿をそんな格好で歩き回る職員などいはしない。と言うことは王家の方。今この離宮にお見えになるのは、療養中となっている国王陛下だけ。まさかと思いながら顔を確認。その人物は少尉に気付き、少尉の方を見ていた。薄暗い中でも少尉には分かったであろうが、お部屋からの光に照らされてハッキリお顔が確認できた。陛下であった。
「失礼いたしました」
最敬礼でいいんだよね、そう思いながら九十度に腰を折り、少尉はそう言った。
一か月ほど前に、陛下が療養と言うことでこの離宮にお入りになったのは知っていた。でも、本当に療養であったようで、お加減が悪いと言われ、警備責任者としてのご挨拶もさせて頂けていなかった。事実、この離宮には十人ほどの医療関係者もずっと詰めていて、陛下の治療や看護をされている。だからご挨拶なんて出来ないと日々が過ぎ、半分くらい陛下がお見えになることを忘れていた、とまでは言わないが、そんなに意識してはいなかった。不意打ちの邂逅であった。
「警備隊の人かな? ご苦労様、ありがとう」
初めて聞く陛下の声、もとい、肉声。テレビなどでお声自体は何度も聞いている。
「はい、いえ、ごあ、ご挨拶が遅くなり申し訳ありません、ここの警備責任者をさせて頂いている水野少尉です。よろしくお願いいたします」
はあ、かんじゃったし、なんか言葉もおかしかったかも、と思いながら頭を下げたまま少尉はご挨拶した。
「そうですか、いつもありがとう」
「いえ、とんでもございません」
緊張で飛んでっちゃいそう、少尉の心境はこうであった。
「良かったら頭を上げて、顔を見せてもらえませんか?」
「いえ、そんな」
水野少尉の腰は百度くらいに折れた。
「どんな人がここを守ってくれているのか知りたいんですよ。ほら、顔を上げてください」
「……では、失礼します」
水野少尉はゆっくり頭を上げ姿勢を正した。そして陛下と目を合わせた。
「ありがとう。君が水野隊長か、今後ともよろしく」
「はい、全力で任務に励みます。よろしくお願いいたします」
また変なこと言ってるかも。と思いながら、水野少尉は変なことに気付いた。君が? 陛下が私のことをご存知だった? まさか、……ああ、ここに配置されている警備隊の名簿でもご覧になって知っていたってことか。と言うことは、いつになったら挨拶に来るんだとかお思いだったかも。
そんな水野少尉の頭の中とは関係なく、安憲王も頭を回転させていた。そして、
「うん? そうか、君か、長保基地にいたのは」
と、水野少尉に尋ねた。なんで陛下がそんなことを、ってことは飛ばして、咄嗟に返事をする水野少尉。
「はい」
「そうか」
そう言うと陛下は水野少尉を眺めるように見た。水野少尉の頭はほんの少しずつまた下がっていく。どういうことだろう、いろんな背景、配慮、思惑で、自分が長保基地の警備隊の生き残りであることは、かなりのレベルの所で伏せられている。なのでなんで陛下はご存知なのか。そりゃ、どんな機密であろうと、国王なら知ることが出来るであろうが、でも警備隊の生き残り、百八十一分の一である自分のことを知っているとは、仮に生存者の一覧か何かで見ていたとしても、わざわざ覚えているとは思えない(長保基地の戦闘終了時、生存者は百九十九人となっていたが、その後治療の甲斐なく十八名が更に亡くなり、最終的な生存者は百八十一人となっていた)。水野少尉の腰が、そんなことを考えながらまた三十度ほど折れた頃、安憲王が口を開いた。
「時間はありますか? 水野隊長」
「えっ、あ、はい」
「ではこちらへ、少し話しましょう」
安憲王はそう言うと、出て来たところと思われる掃き出し窓の中に入って行った。
水野少尉は掃き出し窓の所まで行ったが、部屋には入らず立ち止まる。陛下が離宮にお見えになる前は入ったことのある陛下の寝室。良い物を使っているとは思うが、想像以上に普通の部屋であった。贅沢な、って感じは全然しない、本当に国王陛下の寝室なのかと思ったような部屋である。
開いていた掃き出し窓から左手に陛下のベッド。そして右側にダイニング用って感じの二人掛けのテーブルセット。寝室にはそれだけである。そのテーブルセットのイスの一つに陛下は見えた。
「どうぞ」
安憲王はそう言って、対面に置かれたイスを指す。
「いえ、入るわけには。私はここで」
入ってはいけないなんて明確な決まりはない。むしろ、陛下に入れと命令されて入らないのは不忠かも知れない、と思ったけれど、水野少尉は足を踏み入れずそう返した。
「何を言ってるんだ、いいから入って座りなさい」
そう言われては入るしかない。では、と足を上げかけて尋ねた。
「あの、靴のままでよろしいですか?」
土足禁止ではないが陛下の寝室である。陛下の足元を見ると、クロックスであった(まあなんと庶民的な)。
「もちろん」
ああ、もう入るしかない。水野少尉はおずおずと寝室に入った。でも勧められた椅子には腰掛けず、ベッドに腰掛けた、なんてことはなく、イスの横にちょこんと立った。悪いことをして職員室に呼び出された生徒のようだった。
「座って」
安憲王の言葉に、
「では、失礼します」
と言って、やっと腰を下ろした。
「そんなに硬くならないで、話しをするだけだから」
「はい」
とは答えるけれど、緊張状態から脱することなどできはしなかった。一般市民にとって国王陛下なんて言うのは雲の上のそのまた上の存在。近くで直接お目にかかるなんて、国民のほとんどすべてが一生に一度もないことである。そんな人がほんの目の前に座っていると言うだけで、ちびってしまいそうになるくらい緊張してしまうのに、会話をするなんて、ああ、頭が空っぽになりそうであった。
「遅くなったけど、本当にありがとう。感謝しています」
「はっ?」
「二年前、長保基地を守ってくれた方々には本当に感謝しています。立場など関係なく、直後に現地で直接皆さんに感謝を伝えたかった。亡くなった方々の亡骸にも直接声を掛けるべきだった。本当に申し訳ない。そしてありがとう。ご苦労様でした」
安憲王は頭を下げた。
「そ、そんな、おやめください。私は何も。その、あの、あの時、救援の部隊が来てくれなければ私は……、守ることなど出来ていませんでした」
水野少尉は陛下より頭を下げてそう言った。
「いや、救援が来てくれたと言うけど、その救援が間に合ったのは皆さんが奮闘してくれていたからです。でなければ間に合わなかった」
「いえそんな」
水野少尉は恐縮仕切りである、陛下の言う通りではあるけれど。
「あなたもその最後の戦闘場所にいたのでしょう」
「……はい」
何で知ってるの?
「とても太刀打ちできるような数ではない敵と戦っていたと聞いています。逃げ出して当然とも言えるそんな恐ろしい状況で、ほんとによくやってくれた」
「いえ、そんな、私は最後だけですから。私は、私のいた中隊は敵が侵入した南防壁ではなく北側にいたんです。ですから駆けつけた時はもう突破されていて、その、最後の何分かしか戦場にはいなかったですから」
生き残った自分を恥じる、なんて思いはなかったが、それでも水野少尉はあの戦闘を恥じ、悔いていた。もっと何か出来ていれば、たとえ数人でも仲間が殺されずに済んだかも。そんな思いであった。
「そう、その最後の瞬間、友軍はほとんどやられているのに、敵は圧倒的なくらいいる。そんな状況から戦闘に参加するなど、ほんとに勇気が必要だったでしょ」
「……」
勇気、なんてなかった。そんなものはなかった。ただ上官の指示通りに動いていたら、最後尾から戦闘に加わることになっただけ。どれほどの敵がいるかも知らずに遅れて飛び込んだだけ。水野少尉はそう思い返し、言葉が返せなかった。
「あなたが戦闘に加わった時、勝ち目なんてなかったはず。あなたも危ない目に合ったんですよね。怖い思いをさせましたね」
「……はい。でも、その、強化、いえ、救援が間に合ってくれたので、助かりました」
「うん、確か被弾したんですよね。足はもう完治しましたか?」
「はい、半年ほどですっかり」
「それは良かった」
少尉はさっき、強化人間の部隊、と言い掛けて思い止まった。でもそれであることを思い出した。
二年前の戦闘後、水野軍曹が所属していた長保基地警備大隊は二百名以下と言う戦力になっており、これはもう実質的に消滅状態だった。基地には新たな警備大隊がすぐに着任。元の警備大隊の残存隊員は基地自体に編入され、基地付き警備兵となっていた。水野軍曹は病室代わりとなった基地内の宿直室でそれを聞いた。
二週間ほどした頃、水野軍曹の所へ基地司令である浅沼大佐が会いに来た。勇戦を労ってくれた後、生き残った者一人一人に会い、今後の希望を聞いて回っているのだと言われた。水野軍曹はその聴取の最後の方であった。そして聞かされたのは、聴取した者の約半分は軍を辞めたいと言ったと言うことであった。水野軍曹は態度を一旦保留した。そして一週間考え、浅沼大佐の元へ行った。そこで、
「私を強化人間の部隊に関わるところへ異動させてください」
と言った。浅沼大佐は顔色を変えることなく、
「強化人間? そんなのみんなのたわごとだ。あれは特務隊だ。特務隊と言うだけあってとんでもない戦闘力だったみたいだけどな」
と言った。水野軍曹は強化人間と言う言葉はタブーなんだと判断し言い換えた。
「では、その特務隊に関わるところに異動させてください」
「あのなあ、あれは俺なんかじゃどこにあるのかもわからんくらいの上が管轄している極秘の存在だ。異動させてやりたくても異動させるところが分からんよ」
「……」
大佐はほんとに知らないのか、知らない振りをしているのか、水野軍曹は考えていた。すると、ホロっと大佐の口からこんな言葉が。
「俺もあの日まであんな部隊の存在知らなかったんだ」
「そうですか」
「ああ」
「……調べる方法はないですか?」
水野軍曹はそう聞いていた。
「馬鹿か、軍の極秘だぞ、俺も知らなかったような。調べてわかるような極秘なわけないだろ」
「はい」
水野軍曹はうなだれた。その彼女に浅沼大佐が尋ねる。
「なんで特務隊に関わりたいんだ?」
「その、気になって」
「そりゃ気になるわな、あんなすごい連中」
「いえ、そうではなくて」
「なんだ?」
「……いえ、いいです」
自分が気になっている理由など説明できなかった。
「なんでだ、言ってみろ」
それでも浅沼大佐にそう聞かれてこう言った。
「その、目が、……優しい目だったんです」
「はあ?」
「きれいな茶色で、少女だったんです」
「何言ってんだ?」
水野軍曹も自分でそう思った。でも続けた。
「すみません。でも、会ったんです、その少女と」
「……特務隊に少女がいたと言うのか?」
「はい、もう一度会いたいんです」
浅沼大佐が探るように水野軍曹を見た。
「……一緒に戦いたいとか思ったのか?」
「いえ、そんなこと。ただ気になって、その、だからもう一度会いたいんです、彼女に」
「特務隊に少女がいたってのはなんだか……、まあそれはいい。で、目が気になっただけでか?」
「……はい。あんな優しい目をした子があんなにすごくて、そのなんて言うか、信じられないと言うか、その、忘れられなくて、もう一度会いたいんです」
しばし無言で大佐に見つめられた。そして浅沼大佐が口を開く。
「分かった。けど、どこにあるかどころか、未だに存在しないくらいのベールに包まれたところに、異動させる手段なんてない。次の候補を探せ。ただ、希望を聞いといてこんなことを言ったらいかんけど、このまま基地直属の警備隊に残ってくれるとありがたい、隊長として」
「隊長?」
「ああ、少尉が一人と軍曹がもう一人残っていたが、彼らは早々に辞めると言って、意思が固そうだったから認めてやった。だから残ってくれたら君が隊長だ、水野軍曹。いや、今回の事で昇級するだろうから、晴れて少尉任官ってところかな。まあ、部下は五十人と少しだけどな(本城国軍では、曹長、准尉と言う階級はない。ちなみに軍曹の下は兵長で、その下はもう一般隊員である)」
「そうですか。……考えさせてください」
現金な奴、と思われるかもしれないが、水野軍曹は隊長とか、少尉に昇級とか言われて、それまでのことが頭から消えていた。専門学校を卒業しても就職氷河期と言われた不景気な頃で、ほとんど仕方なくって感じで入隊した水野軍曹。階級とは違う本城軍独自の、等級を上げるのに必要な昇格試験は入隊後受け続け、A1(アシスタントマネージャー一級)と言う等級まで合格していた。これは中尉クラスで持っている等級であった(中尉にならなければ、その先のマネージャークラス十級の試験は受けられない)。おかげで、功績なんてなかなか上げることの出来ない平時に、軍曹なんてところまで五年で上がってしまった。等級が階級を引っ張り上げてくれたのだ。しかし尉官となる少尉にはそうそうなれるものではない。なので、この私が? となってしまって、それまでのことが飛んでしまうのは当然のことかも知れない。試験があるから受けていただけで、別段出世なんてことは考えていなかった水野軍曹にしても(給料が上がることには魅力を感じていたが)。
水野軍曹は返事をしなかったが、ほどなく月が替わり、新しい編成表では浅沼大佐の言った通り、隊長となっていた。まあ、新しく来た警備大隊とタブってしまうような存在なので、任務区分とか、立場などが非常にあいまいな直属警備隊ではあったが。
そしてその時同時に、浅沼大佐の異動が公表された。長保基地司令としての勤務は年内で終わり。その後は北部方面警備隊本部かと思われたが、中央の軍令部付きと言うよく分からないところへの異動であった。
その浅沼大佐が長保基地を離れる少し前に、水野軍曹は大佐に呼ばれた(昇級はしなかった)。
「まだ特務隊の少女に会いたいとか思ってるか?」
いきなりそう聞かれた。忘れたのはほんの一時だけ。水野軍曹のその思いは変わっていなかった。
「はい」
「そうか」
浅沼大佐はそう言ったきり、手元の書類をめくりはじめ何も言わない。水野軍曹は、書類に書いてある何かを話すのだろうと思い待っていたが、忘れられたかのように何も言われなかった。なので、
「あの」
と、声を掛けた。すると浅沼大佐は手を止め、目は上げぬままこう言う。
「約束も出来んし保証も出来ん、それでもいいか?」
「はっ?」
「例の部隊につながるかも知れんところになら異動させてやれんこともない。どうする?」
「えっ、あの、その」
何か分かったのかも、と焦ってうまく言葉が出ない水野軍曹。
「どうするんだ?」
「行きます、異動させて下さい」
「せっかく持った部下、置いて行くのか」
「いえ、その……」
そう言われると辛い。でも、
「それでも行きたいです」
と水野軍曹は言った。
「ふん、本気なんだな」
浅沼大佐が微笑んだ。
「はい」
「分かった、手続きしといてやる」
「ありがとうございます」
「異動したらお前はもう部下じゃないから、ここにいる間に済まさなきゃいかんな、しまった、急ぎだな」
「すみません」
「まあいい」
「それで、どこに行くんですか? 私」
「うん? んー、まあ、辞令が来るまで楽しみにしとけ」
「えっ?」
「それと、さっき言った通りだからな」
「……」
「そこに行ってあの部隊に辿り着けると約束は出来んからな」
「はい」
「まあ、運とお前次第だ。そのうち運に巡りあってうまくやれたら辿り着けるかもしれん。頑張れ、いや、うまくやれ」
「はい」
何が何だか分からないけれど、どこに配属されるのかもわからないけれど、水野軍曹は明るい気持ちで返事した。
年が変わって二月も終わる頃、水野軍曹に辞令が届いた。四月一日付で本土東部軍に所属変えとなっていた。四月一日、辞令通り東部軍に出頭すると、直属の上司になると言う大佐の所へ行けと言われる。長保基地での最後の半年ほどもそうであったが、軍曹の直属の上司が大佐なんてこと有り得ないのに、またしても大佐直属と言われ驚いた。けれども、浅沼大佐があの部隊につながるようにと何かしてくれたのであろうから、普通のことではないのであろう、と楽観していた。
大佐の部屋に行くと、領南離宮警備隊勤務を言い渡された。離宮警備なんて聞いたことなかったので戸惑っていた。すると、一か月の研修の後、現地司令、小隊長を命ずると言われ、また驚いた。そして、そして、そして、その時点で少尉となると言われ、わけが分からなくなった。
と言うわけで、水野軍曹は水野少尉となり、同時に領南離宮警備隊長となった。
水野少尉はここに来た経緯を思い出していた。運とお前次第だ、と言う浅沼大佐の言葉も思い出した。運とはこのことかも、陛下と話す機会が出来たことかも。きっとそうだ、国王陛下が知らない国家機密などない。陛下にお聞きしろ、お願いしろと言うことだ、そう思った。
「あの、陛下はあの時長保基地救援に来た特務隊のことをご存知ですか?」
水野少尉は伺いもたてずにいきなり聞いてしまっていた。安憲王は表情も変えず、ほんの一拍置いて、
「もちろん」
と答えた。水野少尉は心を落ち着け、再び口を開く。
「私、あの特務隊の人に会いたいのです」
安憲王は相変わらずの穏やかな表情のままだが、眼差しは気のせいか鋭くなり、今度は少し長い間黙った。そしてこう言った。
「さっき言い掛けたようだけど、強化兵部隊のことをどこかで聞いたんだね」
その声はそれまでより低かった。そして、強化兵と言う言葉に水野少尉は驚いた。
「いえ、あの、その……」
水野少尉は言葉が出なかった。
「いやいいよ、いろんな憶測が出回っているし、どこからか漏れた話もその中に混ざっている。聞いてるかどうか、モス国が出所だと思うが、諸外国も本城が強化人間を兵士にしていると勘ぐって、探りを入れ続けている。強硬な国があって困るくらいだ」
「……」
「で、会いたいとは?」
安憲王はさっきまでと明らかに口調を変えた。
「その、すみません」
「いや、知っているものはしょうがないし、少尉の場合は実際に見ている、会っているわけだからね」
水野少尉は俯いてしまった。失敗した、と焦っていた。焦って失敗したと。
「で、凄い能力を持った連中を見て、一緒に戦いたいとでも思ったか?」
「いえ」
「では、彼らに接触して、その情報をどこかに流す、いや、売ろうとでも思ったか?」
「そんな、そんなこと思いません」
あらぬ疑いを掛けられて、水野少尉の声は少し大きくなってしまった。
「ならなんだ? 礼でも言うつもりか?」
「……それもあります」
水野少尉は小さな声でそう言った。安憲王は黙って続きを待っている。
「でも、とにかく会いたいんです」
水野少尉は忘れようもない、あの少し茶色がかったきれいな瞳を思い出していた。優しい目を。
「ただ会いたいだけか」
「はい」
「なぜ?」
「それはその、あの、うまく言えませんが、優しい目をした少女だったんです、私が会ったのは。あの子にもう一度会いたいんです」
安憲王は途中から組んでいた腕を解き、テーブルに腕を置いて言った。
「そして礼を言うのか、助けてくれてありがとうとでも」
「はい」
水野少尉を助けてくれたのは男性であったがそう答えた。礼を言いたいと言うのが望でもなかったが。と言うか、そもそも本当に望んでいることが何なのか、当の水野少尉にも分かっていなかった。
「気持ちはわかるが、そんなの不要だ、彼らには」
「……」
「悪いが諦めてくれ」
「でも……」
言葉が続かない水野少尉。安憲王はまた黙って待っていた。
「お願いします。合わせてください。国王陛下にしかお願いできないことです」
聞いてやろうと言う気がなければ聞こえないほどの小さな声であった。しかし安憲王はその声を聞いていた。
「なぜそこまで会いたい?」
柔らかい口調であった。
「分かりません。でも、あの子の目、あんな優しい目、見たことないです」
「……」
「あんな子が兵士だなんて、なんか私、理解出来なくて、でも彼女たちはすごくて、でも優しくて、なんか、傍にいたいって思って……」
もう水野少尉自身、何をしゃべればいいのか分からなくなっていた。なので心に浮かんだものを口にしていた。
しばらくして安憲王が口を開く。
「それは彼らの、いや、少尉が会った彼女の傍にいて、彼女を助けてやりたいと言うことか?」
水野少尉は顔を上げて言った。
「いえ、彼女を助けるなんて私には出来ません」
「なら傍にいてどうするんだ」
水野少尉はまた俯く。そして、
「友達にでもなれないかと……」
また小さな声でそう言った。
安憲王は少尉が俯いていたからなのか、何とも言えない表情をした。まあ、それは笑顔に分類される類のものであったが。そして心の内では、友達か、と言っていた。しかしすぐに表情を戻すと、
「少尉、とにかく今日はここまでだ」
と言った。水野少尉は顔を上げる。
「はい、すみませんでした」
「少尉の希望を聞くとか聞かないとか、そんなことは私は言わない」
「はい」
「そもそも、強化兵のことは存在しないことになっている。分かるな?」
陛下はさっきも、強化兵と言った。強化人間ではなく強化兵なんだ。と認識しながら、水野少尉は姿勢を正して頷いた。
「と言うことは、今の話もなかったことになる」
頷きたくはなかったが、水野少尉は、
「はい」
と言った。安憲王は頷いて続ける。
「存在しないものの話、存在しなかった会話なのだから、決して誰ともこの話をしないと約束してくれ。これは、かつて少尉が命懸けで守ってくれた長保基地以上に守らなければいけないことだ。いいか?」
一息意を溜めてから水野少尉は頷いた。
「はい、お約束します」
「ありがとう」
安憲王のその言葉を聞いて水野少尉は立ち上がった。
「本当に申し訳ありませんでした。失礼します」
そして頭を下げてそう言い、そのまま入って来た掃き出し窓に向かった。その背に安憲王は声を掛ける。
「少尉、ここは気に入ってるか?」
水野少尉は振り返って答えた。
「はい」
「少尉のような実戦経験を持った者には退屈な仕事じゃないか?」
「いえ、その……、軍人の身で、陛下のお住まいをお守りする身でこんなことを言っては失格ですが、私はもう戦えないかもしれません」
「なぜ?」
水野少尉はそう尋ねてきた安憲王の表情が変わったのに気付いた。失格だと早速思われてしまったかも、と思ったがこう言っていた。
「私はあの時、本当に死を覚悟しました。怖くて、でも逃げることも出来なくて、死にたくないとばかり震えながら考えていました。でも助けられてから、生き残ったと思ってから気付いたんです。あんなに死にたくないと思った自分が、人を殺していた、たくさん殺していた、と言うことに。私にはこの矛盾を乗り越えて、もう一度人に向かって銃を撃つことは出来ないかもしれません。人を殺す自分が怖いんです」
安憲王は水野少尉を見つめていた。
「そうか」
そしてそう言った。
「申し訳ありません」
水野少尉はまた頭を下げた。すると、
「なら、もっと静かなところでも少尉は構わないかな?」
「えっ?」
水野少尉は顔を上げて安憲王を見た。
「いやいい、引き止めて悪かった、行っていい」
安憲王はそう言う。水野少尉は安憲王の寝室を出た。
陛下の最後の言葉、飛ばされる。存在しないものを知っている危険人物。そして、自分で戦えないなんて言う警備役、幽閉がてらどこか僻地にでも飛ばされる。そう思った。辞めようかな、またそう思った。でも、今度は逆に辞めさせてもらえないかも、危険人物だと認識されたであろうから。暗い気持ちで警備隊詰所に向かった。
安紀十六年十一月十二日
王妃、純子様と、王女、慶子様が領南離宮にお入りになった。本殿前でお出迎えをし、水野少尉はご挨拶をした。安憲王の療養期間が長引くと言うことでの、言わば移住であった。そう聞いていたが、先週水野少尉が安憲王にお会いした時は元気そうであった。なので本当に長引くのか、と思ったが、その翌日から安憲王への面会が相次ぎ、数日後には体調を崩され、再び面会禁止となっていた。安憲王の体調が良いようだと聞いた関係者が詰めかけて、また疲れさせたようである。その所為で、純子様、慶子様は、初日は安憲王の寝顔しか見られなかったようである。慶子様の二つ上の兄、皇太子の宗憲様は首都の王宮に残られ、離宮にはお見えにならなかった。
慶子様は非常に活発で明るい方であった。二つ下で年の近い水野少尉をすぐに呼び出し、遊びに誘うのであった。どうせやることないでしょ、と言って。恵子様との接触が増えたことで、必然的に純子様とお話しすることも増えた水野少尉。ヤキモチをやいたのか、事務局次長からは、陛下御一家の担当は私よ、とばかりに睨まれることが多くなった。それでも同年代の女性である慶子様との時間はやはり楽しく、水野少尉は充実した日々を送っていた。
安紀十六年十一月二十五日
水野少尉は上司である本土東部軍本部の大佐から三日前に呼び出され、この日出頭した。いきなり異動を命じられた。新しい配属先への着任日は一月四日であった。約一か月後である。配属先は陸軍技術局の島鳥観測所であった。用件はそれだけだったので、急ぎ離宮に戻り、島鳥観測所を調べる。なにしろ、技術局自体、名前を知っている、と言う程度の所であったので、島鳥観測所なんてところは全く知らなかったからである。軍のデータバンクにはさすがに載っていて、本城国の上を飛ぶ、もしくは上空で静止している、他国の人工衛星を監視している所となっていた。そこの警備でもやるのかな? と言うのは、今回は配属先の施設名だけで部署が知らされていなかったからである。場所を調べると、本土西部の中央に横たわる、島鳥山脈の中であった。陸の孤島のようなところ。ほんとに静かな僻地に飛ばされてしまった。と、水野少尉は覚悟するだけであった。
安紀十六年十二月十八日
王女様相手にこんなことを思ってはいけないのかも知れないけれど、せっかく仲良くしてもらっているのに、あと十日ほどでお別れしないといけないと寂しく思っていたその日、純子様と恵子様がいなくなった。離宮内は、いやいや、関係機関、そして政府は騒然となった。その日お二人は、年末のお買い物に領南市街にお出掛けになられた。そしていなくなった。ガードとして王宮警察の私服警官四人が同行していたが、お二人が別々の店に入られ、まずは恵子様がそこで行方をくらまし、そのことで右往左往しているうちに純子様もいなくなったようであった。
水野少尉も心配して詰所に籠って情報を集めていたその日の夜、個人のスマホに知らない番号から着信があった。気付いたのは夜も遅くなって自室に戻ってから。知らない番号からであったのでどうしようかと思いはしたが、三十回以上も掛かって来ていたので、なおさら怪しいと思いながらも、結局掛けてみた。ワンコールも鳴らないうちに飛び出した声は、
『びっくりした?』
と言う、慶子様の声であった。心配したと言う水野少尉に、すぐ切らなきゃいけないから簡単に言うね、と慶子様。そして聞かされた話は、事情は説明できないけれど、自らの意思で離宮を離れたとのことであった。故に身の危険はなく安全だから心配しないで、とのことだった。心配しているであろうから、美穂子には(水野少尉の名前)話しておこうと思っただけだから、他の人には内緒で、美穂子もしばらく蒼い顔しといて、と、あっけらかんと言われてしまう。その電話番号はその後二度と通じることはなかった。
同じ頃、純子様が元老院に連絡を入れていた。自分たちの意思でしたことだから、心配せず、騒ぎにもするな。それだけであった。元老院はこのことを政府、議会にも伏せ、その夜お二人は離宮にお戻りになったこととした。近日中にご旅行に行かれる予定であるとも。
安紀十七年一月四日
水野少尉は島鳥観測所に着任した。実際に着いたのは昨夕である。なぜなら、一番近い雲入市のホテルからでも、朝出発したのでは間に合うように辿り着ける公共交通機関がなかったからである。そのくらいの山奥にある。おかげでお正月の三が日は転勤用の調整休日だったのに、ほとんど移動で潰れてしまった。その着任前日の一月三日の夜、仮に与えられた部屋に数人が押し掛けて来て、ささやかながら着任前に歓迎会をされてしまった。外部の者がほとんど来ないところの様で、水野少尉のことが珍しかったからのようである。と言うか、数人と言ったけれどその四人で全員、あとは所長だけだと、会の最後の方で知らされた。ほんとにとんでもない僻地に飛ばされたと、水野少尉は実感した。
翌朝、観測所所長の鰻渕大佐に挨拶をした。ここには四人しかいないと昨夜聞いたので、そこの長が大佐なんて言う階級に驚いた。いえ、所長が大佐だと言うことはもちろん知っていたけれど、そこに部下が四人しかいないことを知らなかったので、それに気付いて驚いたのである。
着任の挨拶を済ますと、
「昨日は悪かったね、僕はお酒飲まないもんだから、そんなのがいるとしらけちゃうかなと思って欠席させてもらっちゃった、許してね」
と言われ、この人ほんとに軍の人? と思わされた。服装も軍服ではなく、グレーのスラックスにノータイで白ワイシャツ。その上から色が飛んで白んだ紺のジャンパーを着ている。白い靴下に足元はサンダル。白髪交じりの頭はお世辞にも手入れされているとは見えず、微妙に右後ろ辺りに寝癖が見える。そして、痩せているとかそう言うことではなく、見るからに締まっていない体。走るとか、荷物を運ぶとか、汗をかくようなことは何年も、いえ何十年も、ひょっとしたら生まれてこのかたしたことないかも、と感じてしまう。こんな人が軍にいて大佐なんて階級なんだ、と水野少尉は観察してしまった。
「いえ」
そう応えると、
「で、水野さんの勤務場所はここじゃないんだよね」
と、言われる。
「はっ?」
水野さんと呼ばれたことより、ここじゃないって方に驚いた。
「いや、ここの所属ってことにはなるんだけど、ここではないんだ」
水野少尉には意味が分からない。
「どういうことですか?」
「一応ここの付属施設ってことになってるところがあるんだけど、水野さんはそっちなんだよね」
「えっと、なんと言うところですか?」
「なんと言う……、特に名前ないんだよね」
「はっ?」
「うーん、僕は訓練所って言ってるけど、それが正式名ってことじゃないから」
「そうですか。それでそれはどこにあるんですか?」
「ああ、これこれ、昨日地図描いといた」
鰻渕大佐はそう言うと机の上から紙片を取り、机を回って水野少尉の方へ来た。その途中で、あっ、あれも、と言って一旦戻り、やはり机の上から何か手に取ってから。
手渡された地図は、なんと言うか、大雑把、としか言えないようなものであった。この観測所からのものだが、交差点名などなく、曲がるべきところの目印が書いてあるってもの。例えばこの観測所を出て、最初の突き当り、と書いてあるところを左に曲がる(そこまでは約二十キロと書いてある)。そしてそこから約六キロと書かれたところに、日の出スーパーと書かれたところがあり、その少し先の十字路を右。そんな感じの地図である。水野少尉が思わず見入ってしまう箇所があった。そこはその前の四つ辻から、約十七キロと書かれた辺りの左側に、右側の幹が折れた松の木、と書いてあり、その先の小道を左折するようなところである(丁寧に、小道、と書いてある)。その約十七キロの間、他に何も目印は記されていない。右側の幹が折れた松の木は、その十七キロ行った辺りではその一本しかないのであろうか? と言うか、そんな木、見つけられるの? こんな地図で辿り着けるのだろうか? 地元のタクシーの運転手さんなら分かるかな? って言うか、タクシーここまで来てくれるのかな。そんなことを思っていたら、地図を見る水野少尉の顔を鰻渕大佐が身を屈めて覗いているのに気付いた。水野少尉が気付いたことに気付くと、
「これ、ここの車の鍵、これ乗ってっていいから」
と、黒いプラスチックの塊を渡される。
「あ、ありがとうございます」
そう言って水野少尉が受け取ると、
「出て左側の駐車場の奥の方に停まってる白い車だから」
と説明された。
「分かりました。あの、お聞きしてもいいですか?」
水野少尉は尋ねる。
「なに?」
「その、訓練所ってところの住所を教えてもらえないですか?」
あからさまに困った顔をする鰻渕大佐。
「住所、住所、住所……」
そして腕を組み、床を見つめてそう呟くように言う。
「地図は頂いたんですが、念のためナビに入れようかと」
水野少尉がそう言うと鰻渕大佐は顔を上げ、嬉しそうにこう言った。
「ああ、それなら住所必要ない」
住所を調べるのがそんなに面倒だったのか、と水野少尉は感じた。それと同時に、貸してくれると言う車のナビに登録済みなのだろう、と思った。でも鰻渕大佐の次の言葉はこうだった。
「そこ、周りの山が険し過ぎて、ナビ使えないから。ナビで行こうとすると余計に迷うと言うか辿り着けないから」
……一体どんなところにあるの?
「そうですか」
そう言うしかない水野少尉だった。
「それで、その訓練所にはいつから行ったらいいですか?」
机の方に戻って行く鰻渕大佐にまた尋ねた。
「ああ、今から行って。向こうは今日来ると思ってるはずだから」
「はあ、そうですか」
なんだかほんとにわけが分かんない。これは本当に僻地中の僻地に飛ばされるって言うやつかも。王様を怒らすとこうなるんだ、怒らせたつもりはないけれど。まあ、危険人物ってことで刑務所なんかに送られるよりはましか。水野少尉はそう思いながら、
「では、すぐに向かった方がよろしいですか?」
と、鰻渕大佐に言った。
「うん、気を付けて行ってね」
「はい、では失礼します」
そう言って水野少尉は所長室を出ようとした。その背に鰻渕大佐の声が掛けられる。
「ああ、一つ言い忘れた」
水野少尉は振り返った。
「その軍服脱いでってね」
「はっ?」
「いやー、山ん中にそんなに軍の施設があると思われたくないんだよね、この辺の人に。なんだかのんびりしすぎてるんで、ここも税金の無駄遣いだみたいなこと言われてるらしいし。だから私服で行って、軍の関係者だと思われないように」
「……分かりました」
一晩寝させてもらった部屋で水野少尉は着替えた。すっかり色褪せたジーンズに、これまた着古したライトグレーのスウェットシャツ。私服なんて休日の部屋着程度のものしか持っていなかった。もしこんな山の中で、途中にお店を見つけたら寄ろうかな、なんて思いながら、防寒のジャンパーなんて、軍の支給品しか持っていないことに気付いた。裏地がキルティングのハーフコートは持っている。でも一月の山の中、これじゃ絶対寒い。でもまあ、車移動だからいいか、と思い直してとりあえずそれを着た。
今朝、通常の軍の定時である朝八時に着任の挨拶をと思い、七時に食堂へ行った。まあ当然だけど、総員五名の所に調理員などいなかった。ひょっとして自分たちで作るのかな? と、狭い厨房に入ると、使っている痕跡がない。どうなっているのだろう、と大きな冷蔵庫を開けてみた。飲み物しか入っていない。やたらとビールが多いし。そして冷凍庫には氷しかない。と、冷蔵庫の横に大きな業務用って感じの冷凍庫があるのに気付いた。って言うのは嘘で、存在感抜群のその巨大な冷凍庫には最初から気付いていた。食材はこっちかな、と大きな蓋様の扉を持ち上げて開けてみる。冷凍のお弁当やお惣菜がたっぷり入っている。スープやご飯なんかもある、アイスクリームも。ひょっとして、皆さんこれを食べてるの? と周りを見ると、奥に電子レンジが六台もあった。ここの食事はこれなんだ、と水野少尉はまた驚いた。
その時、昨夜部屋に来た男の人の一人が食堂に入って来た。おそらく寝起きそのままって感じの上下スウェット姿。
「おはよう、ミカミさん、早いね」
ミカミさん? ミしか合ってないぞ、と思いながら、
「水野です、おはようございます」
と挨拶を返した。でもその人は聞こえていないかのようにスーッと厨房にまで入って来て冷蔵庫を開けながら、
「ああ、左端の二列、そこは所長の好きなのばっかだから、出来たら食べないであげて」
冷凍庫の蓋を持ち上げている水野少尉にその人はそう言う。
「はあ」
「そこ以外なら、好きなのいくつ食べてもいいからね」
冷蔵庫を閉めて、厨房を出て行きながらその人はそう言う。手にはスポーツドリンクを持って。そして食堂の壁際に積んであった段ボール箱を漁りだした。そして中から四つの栄養食品バーを取り出し、それを水野少尉に見せながら、
「この手のやつはここにあるから、これも好きなの食べていいよ」
と言って、早くも出て行ってしまった。
水野少尉は冷蔵庫のコーヒーを電子レンジで温め、栄養食品バーで朝食を済ませた。
着替えを終え、荷物を持って部屋を出て建物の出口に水野少尉は向かう。誰にも会わない。皆さんが勤務している部屋がどこにあるのか知らないけれど、静まり返っている。人がいないみたい。今朝食堂で会った人以外、所長にしか今日は会っていない。ほんとにここはどういうところなんだろう。と言うか、ほんとに軍の施設なの? そう思いながら水野少尉は建物を出た。
外に出て左側に駐車場と言っていたけれど、左側には何もない。右側にも駐車場なんてものは見当たらない。仕方がないので建物に沿って左に行く。角を折れ、建物の裏側に向かう。再び角を折れる。すると、向こうの角の辺りに駐車場があった。その手前に扉もあった。裏から出て左側だったんだ、って、裏口がどこにあるのかなんて知ってるはずないのに。
思った通り防寒力の弱いハーフコートでは寒く、小走りで駐車場に向かう。駐車場を見つけた時に気付いていたけれど、そこには三台しか停まっていない。大きなSUV、SUVタイプのミニバン、小さなSUV、が各一台ずつ。こんな立地なのでSUVタイプが揃っているのは分かるけれど、どれも普通の市販車だった。どう見ても軍用車両ではない。あっ、軍事施設だって思われたくないとか言ってたっけ。
三台の車に近付き、水野少尉は渡された鍵の解錠ボタンを押す。小さなSUVのハザードランプが点滅した。ドアを開け急いで乗り込みエンジン始動。早くエンジンが温まって欲しい、と思いながら渡された手描き地図を取り出した。さあ、この地図片手に、今から宝探しだ、と言う心境だった。
観測所は軍のデータで調べた時に、標高千メートルくらいの所にあるって見た覚えがあった。そこからさらに登っていっていた。車外温度計は走り出してしばらくでマイナス表示になり、年末に降った雪が残っていた路面は凍っていた。しかし、不安しかなかった鰻渕大佐手描きの地図は意外なほど正確で、例の松の木も、そこに辿り着けば、ああこれかと分かる立派なランドマークだった。と言うわけで、ひやひやしながらもあとは五キロ先で一度曲がるだけと言うところまで来た。と言うか、そこは曲がってから手描き地図では道が数ミリほどしか描かれていない。つまり曲がったらもうすぐそこにあるってことだ。水野少尉のハンドルを握る手は軽くなった。
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