第18話 最期の夜
そんな大事な時なのに『中の人』が私で、いいの?
和子さん、見えないけれど、その辺にいるんでしょう?
ここは本物の和子さんじゃないと、旦那様が可哀想だよ。でも、マスターが言ってたっけ。
『自分の事はどうしようもない』って……。
しばらくの間、沈黙が続いた。
ただ、横になっている私と、カツヤの頭を撫でている旦那様。
沈黙を破ったのは、旦那様だった。
「和子、すまない」
……何で突然、謝られちゃうの?
「え? 何がですか?」
また、沈黙が続いた。
とても言い出しにくい事なんだろうか。
この夫婦の話を何も知らないまま、和子さんの『中の人』になった私としては、あまり深い話をされても返答に困るんだけど。
ドキドキしながら、旦那様の言葉を待った。
すると。
「カツヤのお産の時も、この子の時も、俺はここにいない。家の中の事は、全部お前に任せたままだ」
……旦那様、とてもいい人じゃないの。
旦那様は軍人で、今は戦争中だから、それは仕方のないこと。
多分、旦那様本人も、後ろ髪をひかれる思いで出征したんだろうし。
和子さんなら、そこは絶対責めないはず。
「そのお気持ちだけで十分です。どこにいても、私達のことを忘れないでいてくれたら……」
そこまで言ってから、考えた。
生きて帰ってくることのできない人との、最期の夜。
きっと旦那様も、覚悟している。
何を伝えたらいいの?
頑張れ、は絶対違うよね?
だって、この頃の国民みんな、これ以上頑張れない程、頑張って疲弊して苦しんで……。
かと言って、無事に帰ってきてくださいって伝えてもいいの?
家族の元に帰れない、という状況が確定した時、私の言葉が重荷にならない?
何て言葉をかけたらいいのかわからない。
どう言えば、和子さんとしての気持ちが伝わるのか。
何を伝えたら、悔いを残さず戦地へ送り出せるんだろう。
考えてみても、後悔しない言葉なんて思い浮かぶはずはなかった。
だって、一番に思っていることは間違いなく行かないで欲しい、という願い。
私たちを置いていかないで。
ずっとここにいて、我が子の成長を見守って欲しい。
でも、言葉に出す訳にはいかない。
その気持ちを吐き出したら、自分は楽になるかも知れない。
けれどそれは旦那様の負担にしかならない。
妻に縋り付かれ、行かないでって懇願されても、それを振り払って死地へ行くなんてむごすぎる。
そんなこと、和子さんなら絶対にしない。
和子さんは……この時代の軍人の妻はこんな時、きっと堪える。
堪えて堪えて、誰にも知られないところでひっそりと泣くの。
旦那様の無事を祈りながら……。
私が何も言えなくなっていることを察したのか、旦那様がぽつりと言った。
「忘れる訳、ないだろう。どこにいても、何をしていても。和子と子ども達の無事を願っている」
カツヤの頭をゆっくりと撫でながら、私の方を見て、旦那様はまた口を開いた。
「和子と初めて会った時の事だって、今もはっきり覚えている」
「本当ですか?」
「もちろん。和子はあの時まだ14だったな。初めて奉公に来てくれた朝、ものすごく緊張してただろう」
奉公⁉
ということは、和子さんはこの中田家の奉公人……多分、女中さんとして旦那様と出会ったんだ!
お嬢様じゃなくて、身分違いの恋を成就させた人だったとは。
すごいよ、和子さん!
「そこまで覚えていてくださったなんて……」
自分の事を言われている訳ではないけれど、照れる。
旦那様も照れているらしく、坊主頭をかきながら私から視線をそらした。
「和子は気立てがよくて、本当に働き者だったよ。反対を押し切って嫁にしたから、和子には沢山辛い思いをさせたな」
……ということは、和子さんは奉公先のお坊ちゃまに見初められて、周囲の反対を押し切って結婚したんだ!
性格が良くて働き者、しかも可愛い女中さんだった和子さん。
この時代には珍しい、恋愛結婚だった二人。
身分の差を乗り越えて結婚したけれど、きっと身内から辛く当たられたんだろう。
でも、この家には3人しか住んでいない、ということは、中田家の親族は近くに住んでいるのかな。
もしかしたら、あの防空壕で一緒だった人達かもしれない。
旦那様が話す言葉の中に、この夫婦の生い立ちやなれ初め、周りの人に関するヒントを、できるだけ沢山見つけようと思った。
そうだ!
「あの……お願いがあるのです」
「なんだ?」
「お腹の子の、名前をつけて下さい。……戦地へ行っている間に、生まれるかも知れませんから」
そう言った途端、旦那様は私のお腹の上に視線を移して、それから優しく微笑んだ。
「実は、候補はいくつかある。もし、男だったら昭和の和に弓矢の矢で『和矢』にしたかったんだが、『カツヤ』と『カズヤ』だと聞き間違うよな……」
悩む旦那様は、そっと私のお腹に呼び掛けるように言った。
「征伐の征に矢で『征矢』……いや、やっぱり新しいの新に弓矢の矢で『新矢』にしてくれ」
「新矢、いい名前ですね」
そう答えながらも、中田さんのおじいちゃんの名前まで確認していなかったことを、後悔していた。
この名前で間違いないだろうか?
名前でその人の歴史が狂うことだって十分あり得る。
肝心なおじいちゃんの名前を聞き忘れた自分を恨み、不安を募らせた。
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