第四章 昭和二十年・春~初夏
第16話 とんでもないことでございます!
割れるような頭の痛みが、嘘のようになくなった。
痛くないって、なんて幸せなんだろうって思った途端、今度は下腹部に痛みが移動した。
さっきの痛みとは種類が違う、重苦しさ。
そう、苦しいんだ、私。
「和子、和子!」
耳元で呼ばれる、私じゃない名前。
目を開くと、すぐそばに中田さんにそっくりな顔。
だけどとっても残念な瓶底丸眼鏡と坊主頭の旦那様だった。
私、また『和子さん』として、ここへ戻ってくることができたんだ。
すごいよマスター! そしてあっちの和子さん!
「和子、どうした?」
私は旦那様にひざまくらされたような姿で、抱きかかえられていた。
はっとして、自分でお腹をさすってみる。
確かに感じる膨らみは、ここに赤子がいるって事。
さっき見た夢と、同じ風景。つまり、あれからそれほど時間は経っていないはず。
でも、さっきよりずっと重苦しくて、また気が遠くなりそうな状態だった。
体調が悪くなっていることは明らかだった。
これを何とかしないと、中田さんが本当に消えてしまう。
冷静に、冷静に。
まず、今起き上がったらきっと貧血で倒れるから、旦那様に甘えて横になっていよう。
ああ、頭がくらくらする。腹部は苦しいし、息をするのもつらい。
「あの……ごめんなさい、お腹が張って苦しいのです。少し横になっていたら治ると思いますから」
「解った。今、布団を敷いてくる」
私の頭をそっと床に降ろして、旦那様は茶の間のすぐ隣の部屋へ。
先に敷いてあった布団には、既にカツヤが眠っている。
そこへ並べて、布団を用意してくれた。
その間、私の貧血は少し落ち着いてきた。
ひざまくらをやめて、頭が下になったからかも知れない。
布団を敷いている旦那様に、急いで声をかけた。
「その枕を、足元へ置いてもらえませんか? 枕の上に、座布団も重ねて下さい」
「それはかまわないが、何故?」
「貧血になっているので、脳に血が流れるように、足を高くするのです」
「そうか」
旦那様はそれ以上特に何も言わず、素早く準備をしてくれた。
さらに、寝間着を出してくれたので、そろそろと起き上がって着替えてみようとした。
旦那様とはいえ、私にとっては全く知らない人の目の前で着替える訳にはいかない。
立ち上がって、旦那様の死角で着替えようと考えたのがいけなかった。
しゃがんだ姿勢から、立ち上がった途端、まためまいがした。
「和子!」
倒れる前に、旦那様が横からしっかりと支えてくれる。
目が合った。
薄暗い部屋でも、これだけの至近距離だとわかる。
心の底から心配してくれているということが。
「まだ危ないから、無理するんじゃない!」
「すみません……」
そのまま、背中と膝の後ろに手を添えられ、軽々と抱きかかえられた。
「ええっ!」
ある意味憧れのお姫様抱っこが、こんな形で実現するなんて。
落とされたら大変、と、旦那様の首にしがみついた。
でも、その足取りはとてもしっかりしていて安心できた。
さすが、軍人さん。きっと鍛え方が違うんだ。
そのまま、布団の上にそっと降ろされた。
私と寝間着を交互に見て、察したらしい旦那様がさらりと言った。
「着替えるなら手伝うぞ」
「と……とんでもないことでございますっ」
何を言うんですか旦那様!
慌てて返事をする。
夫婦だと当たり前なのかも知れないけれど、今の私には絶対無理だ。
モンペを脱いで、この浴衣に着替えるだけなら、寝たままの状態でもできる。
「ひとりでできますから……」
あっちに行ってとは、さすがにはっきり言えなかったけれど、旦那様が察してくれたらしい。
他の部屋へ行ったようだった。
隣で静かに寝息をたてているカツヤを起こさないようにして、着替えを開始。
ブラウスはボタンを外して腕を抜くだけなので、寝たままでもすぐ脱げた。
モンペは、紐でウエストを調整するらしく、これも難なく脱げた。
良かった。きっちりした着物だったら、脱ぐのも畳むのも大変だっただろう。
最後にちゃんと着物を着たのが成人式、という私にとって、着物の着付けはかなりハードルが高い。
そういった意味では、和子さんが昭和の女性で良かったとも言える。
そんなことを考えつつふと目線を自分のお腹に向ける。
脱いでから気づいた、自分のお腹の状態。
これは、一体どうなってるの?
私のお腹は、包帯の大きなサイズのものでぐるぐる巻きにされて、がっちり固定されていた。
お腹の重苦しさの原因のひとつが、このぐるぐる巻きのせいだとわかった。
今すぐ、ほどかなきゃ!
これって確かさらし、だよね?
武士が切腹する時、内臓が飛び出さないように、お腹に巻いたりするんじゃなかったっけ。
とにかく急いで外したかったので、さらしの端を見つけて、すぐにほどきはじめる。
次第に締め付けから解放されて、少しずつお腹が楽になってきた。
ふうううっとお腹と呼吸をリラックスさせて、ぐるぐるとさらしを巻き取りながらほどいていく。
ああ、何て楽なんだろう。こんなものをずっと巻いて生活していたなんて、和子さんは我慢強い人なんだなあ、とある意味感心してしまった。
締め付けから解放されるのと同時に、お腹のサイズも変わってきた。
全てほどいた私の目に、どどんと大きなお腹と少しだけ出っ張ったおへそが映る。
嘘!! こんなに大きかったの?
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