第8話 昭和の女

大きな門をくぐり、和風庭園を横目に見ながら通り過ぎると、立派な玄関が見えた。

当たり前だけど、全部和風な建具。

旦那様が引き戸に手をかけて、玄関を開ける。鍵はかかっていなかった。

避難する時も絶対に鍵をかける令和の世とは、やっぱり違う。

リビングではない、居間とか茶の間という言葉がふさわしい、レトロな空間に入る。

丸いちゃぶ台の上には、空っぽの食器と、湯呑に入ったお茶がそのまま残されていた。

食べ終わるか終らないかのうちに、空襲警報が鳴ってあの防空壕に避難したのだということがわかる。

一緒にご飯を食べていたはずの和子さんが、どうして一人だけ先に防空壕へ避難していたのか、その辺の事情は謎だけど。

とりあえず、この家の主婦らしく、まずはここのお片づけをしようと思った。


素朴な疑問が、頭に浮かびあがる。

あれ、この時代のここって、水道は整備されているの?

……多分、なかったはずと自己解決。

小学校三年生の時、そう、ちょうどいつもの四人で秘密基地ごっこをしていたあの頃の社会見学は、浄水場とゴミ処理場だった。確か戦前は、軍隊にしか水道がなかったって水道局のおじさんが言ってた。

つまり、一戸建ての家は、そのまま蛇口をひねれば水が出てくる訳ではないはず。

まさか、村のどこかにある井戸まで汲みに行かなきゃならないのだろうか?

だとしたら、かなりの重労働だ。

私は必死に台所を見回す。こんなに立派なお屋敷だもの、きっと家の中に井戸があるはず!


そしてわかった。流し台には水道の蛇口らしきものはなくて、ちょっと離れたところにポンプのようなものがあった。

やっぱりこの井戸水を使うらしい。

ど、どうやって汲むの?

茶碗を持って流し台に立ったものの、挙動不審になっている私を見て、旦那様が声をかけてくれる。

「和子、気分が悪いのか?」

ありがたい言葉をかけてくれたのを幸いに、腹痛のふりをしてその場を取り繕うことにした。

「あ……すみません、ちょっとお腹が……」

そう言った途端、旦那様の顔色が変わった。

「片付けはいいから、早くカツヤと一緒に休みなさい。誰よりも早く避難してたということは、身重の体で無理して走ったんじゃないか?」


ミオモ?

一瞬、頭の中で変換できずにいた私だったけれど、頭じゃなく、体で理解した。

お腹の下の方に、違和感があった。なんとなく重苦しくて、皮膚が張っている感じ。

防空壕の中でずっと座っていたせいだと思っていたけれど、何かが違う。

ってことは、私、もしかして、妊婦?


……ちょっと、待って。

妊娠どころか、実は妊娠に至る行為すら、はるか昔に未遂で終わって以来、全く機会がなかったという干物の私が妊婦⁉

まさに『私』としては、マリア様と同じ?なんて。畏れ多いお方と自分を並べてみたけれど、まあ、これは夢なんだし。

ますますネタが増えたと思えば、この波乱に満ちた夢をじっくり味わうのも悪くないかも知れない。

そっと掌をお腹に当ててみると、微妙に膨らんでいるような気がする。

しかも、お腹の脂肪という感じではなく、何だか固い。肉の柔らかさがない。

この時代、余分なお肉がついている人なんていないから、和子さんのこのお腹は、純粋に妊婦のお腹。

まだそれほど目立っていないことから察するに、妊娠後期ではなさそうだ。

愛実の妊娠中、確か6か月位までは、普通の服が着られていた程度のお腹だったし。


お腹に意識を向けたら、なんだか途端に痛くなってきたような気がする。

ちょっと、まさか生まれようとしてる訳じゃないよね?

背中に冷や汗がつうっと流れ落ちるのを感じる。

鈍い痛みに、思わずしゃがみこんだ。


「和子! 大丈夫か!」

「か~しゃん!」

カツヤが心配そうに、私の顔を覗き込む。

「カツヤはいいから、奥の間で寝る支度をしていなさい」

「はぁい」

茶碗を置いた旦那様が、駆け寄ってきた。

私の腰に手を置いて、抱きかかえるように私の体を支えてくれた。

やっと至近距離で旦那様の顔を見ることができる。

少し緊張して、視線を合わせたら。

え……?

眼差し、輪郭、雰囲気。

あのマンションで見た、盛り塩を落とした男性とそっくりだった。まさか、本人?

いや、本人にしては、残念なところが多い。

レトロすぎるビン底眼鏡と坊主頭が、ちっとも似合っていないんだもの。これさえなきゃ、とってもイイ男なのに。

「大丈夫、です。大丈夫だから、お願い、眼鏡を外して……」

「え?」

だって、髪の毛をすぐに生やすのは無理だけど、せめてその眼鏡を外せば、『盛り塩さん』並みの男前になるはずだもの。

こんなギャグ漫画にしか出てこないような眼鏡をかけていては、いい男が台無しだ。

そんなことは口に出せず、ただ、旦那様を見つめていたら、さらにお腹が痛くなってきた。

何だろう、痛みと、お腹の皮がぱんぱんになっている感じ。

内側からぎゅうぎゅう押されているのに、どうにも痛みを逃す術がなくて辛い。

よく愛実が「お腹が張る」って言っていたのは、このことだったんだろうか。

冷や汗が出るほどの張りで、目の前が暗くなる。頭からすうっと力が抜けていく。


あ、貧血だ、と思った時にはもう、倒れていた。

旦那様の腕の中へ。

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