空だって飛べる②

 懸命に手足を動かす。小半時、ばたばたと体を動かし続け、壁に辿り着いた。壁に触ると、反動で体が後退する。まだ、じたばたと泳いでいって、壁に辿り着く――といったことを、何度か繰り返した。やがて、壁に着いたら、壁を手で強く押せば、反動で反対側に体が移動して行くことに気がついた。反対側の壁についたら、今度は足で蹴る。そうやって、壁の間を往復しながら、徐々にスピードを上げて行った。

 俺は何とか入口の柱に捕まることができた。

 柱に捕まって床に降りる。頭を床に向けて、柱をよじ登るのだ。妙な感覚だった。俺の体は空中を漂っている時が一番、安定しているようで、柱をよじ登るのに、かなりの力が要った。

 なんとか、頭が床に着くまで、柱を下って? 登って? 行った。

 さて、これからどうする?

 寝室から廊下に出る。狭い廊下だ。床と水平になって、両手両足を伸ばせば、廊下の壁につく。そうして、廊下を移動して行った。先ずはトイレだ。目が覚めてから、ずっとトイレに行きたかった。

 狭いトイレだったことが幸いした。壁に足と手をついて、つっぱりながら、下へと移動し、トイレタンクにしがみつきながら、用を足した。

 不思議なことに、排尿は重量に逆らわずに下へと落ちて行った。

(ここでなら、生活できそうだ)と思って、苦笑した。

 一生、トイレで生きて行くなんて、御免だ。

 次は食事だ。アパートの間取りは1LDKなので、台所はリビング、ダイニングとひとつになっている。部屋が広く、壁が遠いので、少々、厄介だ。

 何か重りがあれば、体が浮かなくなるかもしれない。

 鉄下駄のようなものを履くか、トレーニング用の足首に巻く重りがあれば、普段通り、地上を歩くことができるのではないかと思った。だが、健康オタクでもない俺の家に、そんなものはない。

(重いもの、重いものはないか?)懸命に思考を巡らす。

 結局、思いついたものと言えば、買い置きの米くらいだった。最近、買ったばかりだが、生憎、一人暮らしなもので、二キロ入りしかない。

(無いよりましだ)と台所の床においた米を取りに行く。

 入口の柱を登って行く。頭を床に向けているので、降りて行くと言った方が正しい。水中で浮力に引っ張られるような感じで、体力を使う。いや、水中の浮力より明らかに強い。体を空中で水平に保とうとして、強い力が働くのだ。

 床に置いた米が見える。入口から遠い。ふと、良いことを思いついた。台所にあるキッチンテーブルの下に潜り込むのだ。こうすれば、テーブルが重しになって、体が浮かないかもしれない。

 やった! 柱から冷蔵庫に捕まりながら、テーブルの下に潜り込むことが出来た。何時の日か、彼女と同棲することを夢見て買った三点セットのキッチンテーブルだ。厚みのある天板がスチール製のフレームに乗っている。かなりしっかりしたものだ。テーブルの重量は、四、五キロは優にあるはずだ。

 テーブルの下に潜り込む。背中がテーブルの天板についた。成功だ――と思った瞬間、テーブルが俺の体と共に浮き始めた。テーブルの上に乗せておいたティッシュボックスや箸立てが、がらがらと床に落ちた。

「おっ! くそっ! ダメなのか‼」

 バランスを崩して、テーブルが“ドタン!”と大きな音を立てて、床に落ちた。うちはアパートの三階だ。日頃、階下の住人への騒音を気にしているが、この時ばかりは騒音に驚いて、「何が起きたんだ!」と誰か様子を見に来てくれないかと思った。

 だが、何も起きなかった。

 もう日中だ。働きに出ていて、家には誰もいないのだろう。そう言えば、どうでも良いことだが、今日、俺は会社を無断欠勤してしまっている。

 俺はぷかりと台所の宙に浮いた。結構な重さのあるテーブルでも体が持ち上がってしまった。二キロ程度の米では重しにならない。鉄下駄を履いても、足首に重りをつけても結果は同じだっただろう。大体、運動不足の俺が十キロ以上の重しを足首につけて、歩くことなどできるはずがない。

 どうしても俺を宙に浮かせたいようだ。

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