第3話 好き
「来て……救世主様……♡」
好きな人に抱き着かれ、誘うような甘い言葉を囁かれる。
高校一年の六月。
季節は梅雨の真っ只中で、どんよりとした曇り空から地上へ雨が降り注ぐ日々。
俺の高校生活も、きっとこんな梅雨の季節のような日々が続いて過ぎ去っていくんだろう、と早々に諦めていた。
けれど、現実は違った。
「きゅ、救世主って……! て、ていうか桃木さん……この状況はさすがに……」
動揺と緊張で震えまくる声と体。
あり得ないくらいに桃木さんと密着し、俺はもうここで死んでもいいと本気で思っていた。
華奢な体と、長くて少々ボサついている髪の毛。
でも、そこからは女の子らしい優しさのある甘い香りがして、理性が吹っ飛んで行きそうだ。
桃木さんが俺の背に手を回しているように、俺も彼女の背に手を回したい。
欲望は解放してしまえば次々に出て行きそうだが、それをどうにかギリギリの理性で留め、歯を食いしばる。
「……? 救世主様……? 私のこと……めちゃくちゃにしてください? 私……救世主様の行いであれば……どんなことでも受け入れますので」
「ッッッッッッ!」
声にならない声を、俺は悶えながら口から漏らす。
本当にどういう状況だこれは。
ガチガチに固まり、棒のように気を付けで突っ立ている俺と、そんな俺に思い切り抱き着いてきている桃木さん。
何度も言うが、この状況を他の誰かに見られたら終わる。
次の日から俺と桃木さんは噂され、恋人疑惑をかけられ、なんなら校内淫行の疑惑だってかけられるはずだ。どのみち平和な高校生活は途端に送れなくなるだろう。
地味な俺たちにそれはキツイはず。
桃木さんも、今は冷静さを欠いているだけだ。
きっと俺との噂が広まったら嫌に決まってる。
陰キャラは、ただ静かに、穏やかに日々を過ごしていたいと常々願っているし、二人一組を作らなければならない授業はすべて滅べばいいと皆思っている。
だから、桃木さんの平和と安寧を守るという意味でも、俺は今からすぐにでも彼女を体から引き離さなければならなかった。とりあえず密着しまくりたい欲望を抑えつつ、交渉に乗り出してみる。
「え、えーっと……も、桃木さん……?」
「ううん。露ちゃんって呼んでください。あるいは情けないメスブタ……ぐひっ♡」
いや、何この子。
今、最後サラッととんでもないこと言わなかった?
口元だらしなく歪ませてニヤついてるし。
メスブタ? 聞き間違いか?
「冗談。冗談だけど、露ちゃんって呼んでいいよ? 下の名前で呼ばれると……オタク女は即落ち確定って相場で決まっているので」
「……? い、いや、よ、呼ばないっていうか……そこは簡単には呼べないっていうか……」
ぎこちなく俺が返すと、桃木さんは「え?」と悲し気な表情と共に疑問符。
でも、長い前髪の間から見えた瞳は、普段あまり見えない分ギャップが凄くて、俺は思わずそれに見惚れてしまっていた。ブラウンの宝石みたいだ。
「ご、ごめんなさい。こ、こういうの私の悪い癖で、すぐに調子に乗ってキモくなるなるから……」
「へ……!?」
「だ、だだ、抱き着くのもキモいし、こ、怖かったよね……? 根暗で陰キャで、挙句の果てに授業中にエロ音声聴いてたド変態女の相手なんて……そもそもしたくなかったよね……?」
「は、はい!?」
「い、いいのいいの……。そんなの当然だし、救世主様……じゃなくて、し、敷浪君がキモがるのは自然の摂理で、悪いのは全部私だから……」
「い、いやいやいやいや! ちょっと待って桃木さん!?」
「勝手に舞い上がってごめんなさい。ド変態女、穴に埋まって来ます。存在してごめんなさい……ごめんなさい……授業中にエロ音声聴いててごめんなさい……ごめんなさい……」
「いいよ! 存在していいし、エロ音声も聴いてていい!」
自分でも驚くくらい、反射的に思いの丈を口にしてしまっていた。
桃木さんはポカンとしている。呆気に取られている、という表現の方が正しいか。
「なんなら、俺のこと救世主様って呼んでくれるのもいいし、どんなこと言ってくれても構わない! ていうか、授業中にそういう音声聴いてたのも桃木さんのことだから何か理由があったんだろうし、とにかく俺は君のことなら何でも肯定する気でいる!」
「理由は……その……」
「うん! いい! 本当に何でもいい! ありのままでいい! 君は君らしくしてくれていたら、俺はそれで構わない! 何も求めない!」
「何も求めないというのはつまり……ノミのようにどうでもいい存在だから……ということだよね……」
「違う! 何も求めない理由は一つだよ!」
「……?」
「君のことが好きだからだ!」
――瞬間。
場の空気が確実に固まった。
窓も開けていないし、元よりこの教室内に風は吹き込んでいなかったけれど。
でも、空気が明らかにおかしくなった。
俺と桃木さん。
二人きりの間の空気が。
「……ぅ? ……ぇ?」
固まり、真っ赤になっていく桃木さん。
それは俺も同じだった。
自分で、自分の言ったことがどれほどにとんでもないことなのか時間差で思い知る。
ヤバい。
ヤバい。
とんでもないことを口走ってしまった。
まさか……告白というやつをしてしまうなんて……。
「あ、あの、も、桃木さん……?」
「……ゥ……ァ……。ホッペ、ツネッテミル……。イタイ……イタイヨネ……? ァァ……???」
「桃木さん!?」
故障したロボットみたいになっていた。
カタコトになり、プスプスと頭の上から湯気が出ているような、そんな錯覚を見てしまうほどに朱に染まる彼女。
真の大バカ者は俺で決定。
本当に本当に、何を言ってしまっているのか。
距離感のバグってる陰キャラほど滑稽なものはない。
さっき桃木さんの言っていた自嘲がすべて俺に突き刺さる。
本当にキモいのは俺だ。俺で間違いない。こんな状況で告白する奴があるか。
「……ごめん、桃木さん。俺、本当に何言ってるんだろ……はは……は」
誤魔化すような笑みを一人で浮かべるも、彼女からの返答はない。
下を向いて、ただ何も言わないでいる。
「キモいのは俺の方だった。桃木さんじゃない。俺だよ」
「……」
「でも、ここまで言ったんだから、正直に全部話す。今日、あの状況で桃木さんを助けたのは、全部下心からなんだ」
「……」
「俺……その……桃木さんのことが好きだから。だから……音声が教室中に響いた時……自分がやったって言った。君に……苦しい思いをして欲しくなくて」
「……」
「ずっと話し掛けたいとは思ってたんだ。でも、そのきっかけがずっと掴めないでいたから。だから、ここぞとばかりに出しゃばった」
「……」
「でも、出しゃばった結果がこれじゃあダメだね。下心ありまくりだと、カッコもつかないや」
「……」
「ごめん。それだけ。え、えっと、返事とかも大丈夫。俺が勝手に舞い上がってるだけだし。それこそ、桃木さん以上に」
「……」
「そ、それじゃあ俺、か、帰るね? 嫌な思いさせてごめん。ストーカーとかにはならないので、そこだけはどうか安心して? そ、その、すぐにはなかなか君のこと……諦められないとは思うけど」
「……」
「とにかくさよなら! ごめんなさい! もう近付きません! すみませんでした!」
思いを口にし、走り去ろうとした刹那。
「待って!」
桃木さんの呼び止めを受け、俺は振り返る。
振り返ると、彼女は確かにこちらをジッと見つめ、やがてすぐにこう口走った。
「私も……好き!」
と。
固まった場を溶かしてしまうくらい、熱い思いを瞳に込めて。
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