第2話 届かない想いと記憶の代償
『書斎カフェ・追憶』での仕事にも、少しずつ慣れてきた。とはいえ、相変わらず不器用な失敗は絶えないけれど。
そんな私の日常に、ささやかな光をくれる存在がいた。常連客の、悠斗さんだ。すらりとした長身に、優しげな目元。彼が店に入ってくると、窓から差し込む光までが、少しだけ柔らかくなる気がした。
私がコーヒー豆を床にぶちまけて顔から火が出るほど恥ずかしがっていた時、彼は嫌な顔一つせず、「大丈夫ですか?」としゃがみ込んで、一粒ずつ拾うのを手伝ってくれた。その日から、私の視線は、無意識に彼を追うようになっていた。
その日、悠斗さんの様子はいつもと違っていた。ページをめくる手は何度も止まり、こめかみを押さえては苦しげなため息をつく。やがて、彼は本をぱたりと閉じ、大きな決意を固めたように席を立つと、まっすぐカウンターへとやって来た。
「マスター…ご相談したいことが、あります」
悠斗さんの声は、切実に震えていた。
「忘れられない人が、いるんです。もう終わった恋なのに、その幸せだった記憶が、棘のように僕を縛り付けている。前に進みたいのに、進めないんです」
私は息を呑んだ。彼の寂しそうな瞳の理由は、それだったのか。幸せな記憶が、猛毒になる――マスターの言葉がよみがえる。
マスターは静かに頷き、ただ一言問いかけた。
「その記憶を大切に持ち続けることで、あなたは何から自分を守っているのですか?」
「え……?」
「例えば、『彼女を忘れられない限り、新しい恋で傷つくことはない』とかね」
悠斗さんは虚を突かれたように目を見開き、やがて力なく首を振った。
「…いえ、もう終わりたいんです。この気持ちに、終止符を。マスター…ここの本は、人の記憶を預かってくれるんですよね? お願いします。僕のこの辛い恋の記憶を、ここの本に預かっていただけませんか」
記憶を、預ける。その言葉に、私の心臓が凍り付く。そんなこと、しなくたっていい。忘れなくたって、乗り越えられる。私が話を聞くから…!
喉まで出かかった言葉を、必死に飲み込む。指先が震え、カウンターをぎゅっと握りしめた。違う、葉山美咲。それはあなたの課題じゃない。悠斗さんの課題だ。
頭では分かっている。でも、心は彼の優しい笑顔が消えるかもしれない恐怖に、ギュッと縮こまった。
マスターは何も言わず、おもむろに立ち上がった。彼の目が一瞬、遠くの記憶を追うように揺れた。まるで、かつて手放した誰かの笑顔を思い出すように。彼が向かったのは、カウンターの奥、特別な一冊が仕舞われている棚。そこから取り出したのは、見覚えのある、緑の表紙のスケッチブックだった。
それは以前、あの女性が残していった、「緑の絵」のスケッチブックだった。
「僕が選ぶのは、いつだってお客様にとって最適な本です」
マスターはそう言うと、悠斗さんの前に、緑の絵が描かれたページを開いて置いた。
「この絵に、そっと触れてみてください」
悠斗さんは戸惑いながらも、その絵の中の、風にそよぐ若葉の一枚に、震える指で触れた。
瞬間、世界が変わった。
カウンターのコーヒー豆が、潮風のような塩気のある香りを放ち始めた。
悠斗さんの瞳が、過去を映し出す。緑の美しい、海辺の町。隣で笑う、絵を描くのが好きだった彼女。あの日、彼女が「あなたの優しいところが好き」と言ってくれたことも、「でも、私には夢があるから」と雨の中で告げられた言葉も、鮮明によみがえる。
私は、カウンターの隅で固く目を閉じた。これ以上見てはいけない。これは、彼の聖域だ。
すると、ふわりと、温かい光が私の瞼を透かした。
目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
悠斗さんが触れたスケッチブックの「緑の絵」が、淡い光を放っているのだ。その光は、まるで陽だまりのように優しく、悠斗さんの記憶が映し出す冷たい雨の情景を、ゆっくりと溶かしていく。
光に包まれながら、悠斗さんの強張っていた表情が、少しずつ和らいでいく。彼は、憑き物が落ちたように深く息を吐くと、涙を一筋、静かにこぼした。それは、絶望の涙ではなかった。
やがて、光が収まり、店は元の穏やかな黄昏を取り戻す。
悠斗さんは、スケッチブックから指を離し、晴れやかな、それでいて少し寂しげな顔で微笑んだ。
「…記憶は、消えていません。でも、痛みが…不思議と、和らいでいる。それに…」
彼は、緑の絵を愛おしそうに見つめた。
「誰かの勇気が、僕を救ってくれたんですね」
マスターは、静かに頷いた。
「ここは、そういう場所なんですよ」
悠斗さんは立ち上がり、私の方をまっすぐに見た。
「ありがとう。…また、来ます」
その笑顔は、いつもの優しい笑顔だったけれど、もうそこにはあの物憂げな影はなかった。
彼が去った後、私はマスターに尋ねた。
「マスター、悠斗さんの記憶は、どうなったんですか?」
「彼は、記憶を『手放した』のです。消したのではなく、ただ、今の自分を縛り付けていた棘だけを、あの絵の光がそっと抜いてくれた。誰かの勇気の一歩が、彼の勇気の一歩を後押ししたのですよ」
その夜、私は一人、自室のベッドで天井を見つめていた。
悠斗さんの記憶は、消えなかった。彼が私にくれた優しい記憶も、きっとそのまま残っている。それなのに、私の胸はちくりと痛んだ。彼の新しい一歩を喜ぶ気持ちと、もうあの影を追うことができないという寂しさ。この届かない想いを抱えるのは、紛れもなく、私自身の「課題」なのだ。
私の勇気の一歩は、彼の課題に踏み込まないと決めた、あの瞬間にあったのだから。私はただ、明日も心を込めて、彼のために美味しいコーヒーを淹れよう。それだけを、心に誓った。
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