20. 獣害の悪兆3
果たして酒場の衆目を集めたのは、褪せた金髪を編み込みまとめた大柄な男だった。あちこちが裂けて、その内から隆々とした筋肉の覘く袖なしのシャツに、腕や手には布が巻かれている、いかにも場末の拳闘士然とした男だ。三人の荷運びたちが口々に小さく呻き、クラムの肩をゆすったので、ほとんど眠っていたクラムもまた、振り返ってその男を寝惚けたまなこで見やった。……見覚えはある、あるのだが、さて名前はなんといったか……。
「いやあ会いたかったぜ! なんせ闘士になりゃ早々にてめえとやれると思ったら、まさか猟兵になって逃げだしちまうとは思わなかったからよ!!」
大仰に身振り手ぶりをしながら、客を押しのけ、机や椅子を蹴飛ばし、雷のような声で男は近づいて来る。……そう、こいつは確か……そう! バラドフだ! 最後にこの面々で飲んだ時に絡んできた旅装の男で、今はサービクの賭け試合の闘士であるはずの! 求める記憶を引きずり出せた脳裏の快哉はたちまちにしぼみ、クラムはげんなりと口を歪めた。
「……なんであいつ、あんな盛り上がってんだ……? 俺ら会うの二回目だよな……?」
「さあ、よっぽどの額賭けたんじゃねえか」
「あいつの試合さぁ、相手を『壊す』んだよ。それがいいって連中も確かにいるけど、俺は嫌だね。甚振ってよ、胸が悪ぃ」
「がんばれよ~」
そう口々に言いながら。そそくさと己を見捨てて離れていく荷運び男たちを、クラムは眠たげな視線だけで見送り、とうとう眼前まで来たバラドフの顔を見上げた。バラドフは口端をあげて、さも見下げ果てた視線で壁際へ寄る三人を見やり、嗤っている。
「まったく、ここは客も腰抜け揃いで敵わねえよ。折角盛り上げてやってるってのに、キャアキャア喚くお上品な嬢ちゃん揃いときた」
「なあ、いくら負けたんだよ。もう払ってやるから……」
「そういうこっちゃねえんだよ」
眠たげに財布を取り出そうとするクラムの肩を強く押し。顔を顰めたクラムに、口こそ嗤っているが剣呑な眼差しのまま。バラドフはいかにも柄悪く肩を落とし、ふてぶてしく顔を寄せた。
「俺が気に喰わねえのはな、俺の眼が『勝てる』と見た奴が、ろくでなしのサマ野郎だったってことだ。そんなのは俺の眼への侮辱だ」
低い声がより低くなり、より凄味を増しながら——男の青く燃える瞳が、真っ直ぐにクラムの銀眼を睨めつけた。
「てめえの本気を見なきゃ気が済まねえ」
——ああ、そういう手合いか!
クラムは得心がいくと同時、面倒さのあまり舌を巻いた。つまるところ、この男は『戦士』という人種なのだろう。生業として戦うのではない、戦うために戦いを生業としている。何よりも戦いや強さを重んじる精神性を培って、それを絶対に曲げない。
恐らくもなく、それが原因でこんな場末に流れ着いただろうに、それでもそれだけは絶対に捨てようとしない。誇り高いと言えば聞こえの良すぎる、ただの押付けがましいの頑固者なのだが……クラムの眠い頭に、奇妙な感動とおかしさが沸き上がってしまった。
ああこいつ、俺をそんなに、そこまで見込んでくれてたのか。
いつものクラムならば。そんな青い感慨はさて置いて、なあなあに取りなし、媚び諂い、俺なんかと喧嘩なんてつまんねえよと躱していただろう。そうであれば、戦士崩れのバラドフは今度こそクラムを心底に軽蔑し、それから二度と絡みなどしなかったかもしれない。
だがクラムは、笑った。そして片手を力を抜いて振り、バラドフに『下がれよ』と手振りする。一瞬怪訝な顔をしたバラドフは、クラムの瞳を見るや、すぐさまに獰猛な笑みを浮かべて歩を下げた。そして邪魔な机や椅子を、乗ったままの瓶や皿にも構わず、端へと蹴りやっていく。
「おい壊すなよ、迷惑だろ」
「構いやしねえ。どうせ元から壊れかけだろうが」
「そー……れはそうだけどもよ」
軽口をたたき合いながら、互いに場を整えていく二人を見ながら、酒場の客たちは既に無責任な盛り上がりを見せ始めている。だが思わぬ見世物に騒いでいるのは、最近増えた新参の客たちばかりで、常連たちはむしろ混乱と困惑の眼でクラムを眺めている。どうした、らしくなさすぎる、あいつ酔い過ぎてんじゃないのか……?、そんな囁きがちらほらと、クラムの耳にも届いていた。
判断力が落ちているのは、まあそうだろう。疲れも酔いも廻っている。クラム自身、実のところそう自覚している。けれども今、身体は指先までぽっぽと温かいのに、不振を感じる発作の兆候は全くない。過去どんな試合であれ、こんな清々しい心身で立てたことは一度もない。ついでに言えば——バラドフは確かに強いだろう。だがどうにも、負ける気もそんなにしないのだ。
——ああ、今日は、勝っちまうか!
やがて天井から埃が落ちるほど騒がしい酒場の中、即席の、ステージともいえぬ狭い円陣に二人は相対した。改めて見合ってみれば、バラドフの身の丈は相当に大きい。武骨な四肢も相応に長く、軽く跳ぶだけでも、簡単に酒場の梁に手が届いてしまうだろう。しげしげと見上げるクラムに向かい、バラドフは不敵に言い放った。
「ハンデだ、チビ。まず一発撃ってみろよ」
「……おうおう、じゃ貰えるもんは貰っとこうか」
全く、認めているのか嘗め腐っているのか! クラムもまた鼻で笑い、拳を構えた。こんな相手には挨拶代わりに、顎を狙っておくに限る。クラムは機嫌よく、腰を入れて肘を引き、曲げた膝を瞬時に伸ばす! 隆々と太い首に据えられたバラドフの顎に向かって勢いよく拳を繰り出し——
手ごたえがない。
拳がどこまでもめり込んでいく、いやめり込み過ぎている。躱されているのか? いや、バラドフの足は不動で、体幹も首も動いていない。あれ、じゃあ、こいつ顎の骨どうなって——
すべては一瞬のことで。
クラムは拳を止められなかった。
クラムがバラドフの脳を揺らすつもりで打った、顎を撃つ拳はバラドフの下顎を砕き折り、顎関節を、頬の筋肉を捩じり切り——バラドフの下顎の半分を、壁へと吹き飛ばしていた。
「……——ッッッッあ゛あ゛、あ゛ッ!!!? あがッああががッああがががァァアアッッッッ!!!!」
戦慄きが、激痛に。激痛が絶叫へと変じる。
勢いよく噴き出す血をまき散らし、床にのたうち回るバラドフを、誰もが信じられない心地で眺めていた。遮るもののない咽喉から長い舌がびしゃびしゃと、まるで別の生き物のように床を跳ね、現実感のない悍ましさを際立たせている。
バラドフの苦悶ばかりが響く静寂の中、誰よりも早く正気に戻ったのは、老いた酒場の主人だった。老人とは思えぬ俊敏さでカウンターから飛び出し、暴れるバラドフの頭を押さえると、短く何事かを呟く。鋭く息を吸ったバラドフの四肢が弛緩し——溢れ出るばかりだった血が止まる。
「……ヨルズ(大地の力)だ」、誰かがぽつりと呟いた。人に誰しも備わっている、内なる治癒と眠りの力を動かし、血を止め、バラドフが苦痛を感じぬよう半ば強制的に意識を落とさせた。万人にできる術ではない。何故にそのような一角の使い手が、こんなところで酒場の主人に収まっているのか……それは今重要ではない。
夢の内にも苦しさがあるのだろう。吹き出し続ける脂汗で髪の張りついたバラドフの額を撫で、皺に埋もれた目を顰めながら顔を上げた老人は——気づかわしげに口を開いた。
「クラム」
水を打った静寂の中、その言葉は酒場に響き——全員の眼差しが、そちらを向き。
クラムは————後ずさり、逃げ出した。
心臓が痛い。寒い。漠々と体の内を跳ね上がって、狂いかけた血が全身を駆けている。怖い。熱い。どこをどう走ったか覚えのないまま、階段を駆け上がり、部屋の戸を開ければ、窓の閉じた暗闇の中に異形の人影が、ディアンが立ち尽くしている。怖い。駆け続けた犬そのものの息をしながら、クラムは自分でも気づかぬうちに、シャツの首元を毟るように寛げた。苦しい。そしてディアンの頭を掴み、露わな己の肩口へと押し付ける。縋るように頭を抱きしめ、押付け続けるうちに——やがて、待ちわびた痛みが訪れる。震えが止まり、冷えていくのに暖かで、穏やかで、血が、息が整っていく——
——ちがう。
これは、善くない。
何かが、決定的に、狂わされている。
波が引くように落ち着く……落ち着かされている心身を自覚し。背筋を言い知れぬ怖気に凍らせながらも——甘く心地よい気絶が訪れるまで、クラムはディアンの頭を手放すことが出来なかった。
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