第三話 さつまいもの天ぷらと片羽の鴉
その夜は、雨がしとしとと降っていた。ひとつひとつの雫が店の屋根を打っては静かに弾ける。まるで誰かが、ひっそりと涙をこぼしているような音だった。
「…やってるかい?」
か細く、掠れた声。ツムギは包丁を置き、カウンター越しに微笑んだ。
「ええ、もちろん。いらっしゃいませ」
戸口にいたのは一羽の鴉。黒い羽を纏い、人の姿をしたあやかし。片方の羽だけを背中に残し、もう片方は根元から断たれていた。雨で濡れた髪が頬に張り付き、その目には深い疲れを湛えている。
「冷えますね。よろしければ、温まるものをお作りしますよ」
雨に身体を震わせながらカウンターに腰かけたその鴉に、ツムギは温かいおしぼりと湯呑を差し出す。
「…そうだな、揚げた芋が食べたい。さつまいもを皮ごと揚げたやつ」
「天ぷらですね。少しお待ちくださいませ」
カウンターの奥で、ツムギはさつまいもを細切りにしていく。一枚の輪切りにするより、細切りをかき揚のようにするのが良いだろう。それは、ツムギが垣間『視た』光景だった。
さつまいもの衣を纏わせ、熱した油の中へと落としていく。油の中で弾けるさつまいもの香り。揚げた天ぷらからぱりっと油の音がするたび、鴉は少しずつ顔をほころばせていった。
やがて出された天ぷらは、飴色に染まった衣の中に、ほくほくのさつまいもが湯気を立てていた。
「どうぞ」
鴉は黙って箸を取り、一口目を口に運ぶ。そして、細く息をついた。
「…懐かしい味だ…」
「お姉さんの味ですか?」
「そうだ。私は山で生まれた鴉でね。群れに馴染めず、一羽で
まだ子供だった鴉を、弟のように育ててくれた。言葉も教えてくれて、人の世界のことも教えてくれて。鴉が初めて人のごはんを食べたのも、彼女の手料理だった。
決して豊かな生活ではなかった。それでも庭先に植えていたさつまいもを揚げて出してくれた。熱い熱いと言いながら、鴉は口いっぱいに頬張った。甘くて、香ばしくて、世界で一番おいしい姉さんの手料理。
「けれど…そんな暮らしが長く続くわけがなかった」
村の人たちは鴉を化け物と呼んだ。獣が人の姿を真似ていると気味悪がった。姉さんは必死に庇ってくれたが、鴉を守るために斬られてしまった。
「…何もできなかった。私はただ、姉さんを背に乗せて空へ逃げた。高く高く、誰も追ってこない場所へ」
背中に残った片羽が寂しげに震える。
「そのとき、私のもう一つの羽は焼け落ちた。…何が起きたか分からない。ただ、強烈な熱さが私の羽を焼き尽くし、もう空も飛べない身体になってしまった…」
なんとか今日まで生き延びたものの、もう姉さんの名も思い出せない。それでもただ一つだけ。姉さんの最期の言葉を思い出した。
――どこかで、おなかいっぱい食べて、生きてくれたらそれでいい。
さつまいもの天ぷらをまた一口、噛みしめるように食べる。
「ありがとう、店主。私はカン。鳴き声から取ったただの音だけど、姉さんがつけてくれたこの名は、私にとって命と同じだった」
「カンさん。よくここまで、来てくれましたね」
ツムギの声は、雨音に溶けるようにやさしい。
最後の一切れを食べ終えたとき、カンの背中からふわりと羽が舞い上がった。片羽だったその背中にもう一方、白い羽が淡く仄かに浮かび上がっていく。
黒と白の羽が一対になった瞬間、彼の姿はまるで霧のようにゆっくりと夜に溶けていった。天ぷらを揚げたあとのさつまいもの甘い香りだけが、やさしく店内を包んでいた。
ツムギは空になった器を片付けながら、静かに呟く。
「いってらっしゃい、カンさん」
雨はまだ、静かに降り続いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます