第4話 鬼灯 やしろ(前)

5年前の話だ。


目の前で起きた惨劇に、やしろは震えて動けなかった。


「逃げて!やしろ!逃げなさい!」


両足に歯や爪を突き立てられて、ブチブチと肉を裂かれながら母親が叫ぶ。


父親は大柄なその身体全体で、押し寄せる死体達を壁に押し付けながら抵抗している。


ゆらり、と祖父が立ち上がった。

髪ごと頭皮を剥がされて苦しむ連れ添った妻と、その側で泣きじゃくる孫のために。

腕の肉を深く抉られていたが、必死に祖父はやしろの前に立って、包丁を振り回しながら死体たちを懸命に転がすが、数の多さにぜいぜいと息を切らす。


いよいよ駄目か、となった時。動き出したのは両足を千切られて、膝から下が無い母親と、頭皮を剥がされて脳が半ば露出してしまっている祖母だ。


祖母はふらふらになりながら、地獄と化した庫裏の玄関から外を目指して、やしろの腕を引く。

母親はそんな二人に掴みかかろうとする死体の脚を掴んで、文字通り足止めをしていた。


そして遂に、やしろは祖母に地獄から突き飛ばされた。

小さな少女は受け身が取れなくて砂利に尻もちをつく。

痛い、と思ったが、それよりも家族だ。


ばっと顔を上げて、やしろは呆然とする。

 

「やしろちゃん、大好きだよ」


頭皮が剥がされた祖母が優しく笑い、そして戸を閉めた。


直後、庫裏からは耳を塞ぎたくなるような絶叫が響き、やしろは逃げ出した。

まだ小学1年生の彼女に、出来ることは何もなかった。



境内を飛び出して、少ない段差を転がり落ちて、暗い道を何度も転びながら、その度に立ち上がって走り出す。


助けて、助けて。


何度も擦った膝や両手からは血が滲み出ていて、ヒリヒリする。

それでもやしろは止まるわけにはいかない。


早く大人を呼んで、皆を助けてって言わなきゃ。


パパを助けて、ママを助けて。

おじいちゃんとおばあちゃんを助けて。


ぜぇ、はぁ、と息を切らせていたやしろは、何かに足を取られてまた転んだ。

走りすぎて脇腹が痛い。

転びすぎて身体中が痛い。

息が上手く吸えなくて涙が出てくる。


それでも、また立ち上がろうとして。


足が、何かにガッチリと絡まってしまっているのに気付く。

伸びた雑草でも張り付いてしまったのかと振り向いて、それが小指と薬指の欠けた人の手である事に気付いた。


足袋越しに、ひやりとした冷たさを感じる。


ずるり、とやしろの足首を掴んだまま、胸から下がぐちゃぐちゃになっている死体が這ってきた。

自分の物とは思えぬ悲鳴を上げて、必死にそれから逃げようと暴れるが無駄だった。


それより、先の悲鳴のせいであちこちから呻き声や、腐ったものを踏むような音が聴こえてくる。


暗い暗い闇の中。


いよいよやしろはボロボロと泣き出してしまった。


足首を掴んでくる死体は絶対に彼女を逃がしてはくれない。

運良く振り払えても、囲まれている。


やしろに生者を喰らう死体などというものはわからない。

ただ、自分達を怖い目に合わせて傷つけてくる悪い人たちが沢山現れた、という認識だ。


だから今からやしろは食べられて死ぬんだ、とは思わなかった。

今から凄く痛い事をされる。

痛い事をされて、家族のように捕まってしまうのだ。


「うわ…うわあぁぁん…!やだよぉ…!!怖いよぉ、やめてよ…!!」


何も悪いことしてないのに。

どうしてこんな目に。


「あ、ああ…」


逃げたい。

逃げられない。


ズルズル、と。

裂けた腹から溢れたはらわたを引き摺りながら。

足の向きがあり得ない方に捻りながら。

肩から先を無くしながら。


そんな姿の大人達が。

優しいクラスメイトの女の子が。

いじわるばかりしてきて、ちょっと苦手な同級生の男の子が。

やしろを夕飯にしようと現れた。


「千花ちゃん…久生屋くん…やだ、来ないで……怖いよぅ…!意地悪しないで…たすけて…たすけて…」


足にしがみついていた死体が、がばっと口を開けた。


噛まれる!

ぎゅっ、とやしろは固く目を瞑った。


しかし、その瞬間は訪れず。


やしろの足首に齧りつこうとした死体の頭が誰かに蹴っ飛ばされて、大きく仰け反っていた。

勢いでやしろを掴んで離さなかった手も外れる。


え、と涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、そこには近所に住むお兄ちゃんが立っていた。

中学校に通うお兄ちゃん。

よほど急いで来たのか、ぜーぜー、と息を乱しながらそこにいる。


「おにいちゃん…?」


「立て!!」


ぽかんとするやしろに、【お兄ちゃん】は、流れる汗を拭いもせずに座り込んだままの少女の手を引っ張り走り出す。


ろくな街灯もない道をただ走る。

背後からは食事を逃してしまった死体達の恨みがましい呻きが響いていた。

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