第35話 支配……そして奇跡へ
二日ぶりに再会したアルスは、まるで別の生き物のように見えた。
あんなにも無邪気で透き通っていた瞳は濁り、巨体は鎖に縛られたまま、力なく伏している。
(アルス……どうして……? こんな姿になるまで……!)
胸の奥が軋む。
この二日で、どんな仕打ちを受けてきたのか――想像するだけで喉が締め付けられた。
壇上に立つヴァイゼンが、満足げに口角を上げる。
「皆様、風の噂でご存知の方もおられるでしょう! 各地である少女と共に人々を楽しませていた未知の魔物――シャチ! その個体が、この黒牙商会にもついに入荷いたしました!」
場内に歓声が沸き起こる。
仮面越しの目が、一斉にアルスを舐め回すように見つめた。
(やめて……そんな目でアルスを見ないで……!)
唇を噛みしめ、拳を握る。
だが怒りを押し殺すしかなかった。
今はまだ、時ではない。
「さあ、入札開始とまいりましょう!」
「金貨八十枚!」
「百枚!」
「百二十!」
怒涛のように飛び交う数字の嵐。
ルーナの耳には、もはやそれが人間の声には聞こえなかった。
まるで地獄の亡者たちの叫びのように――。
(こんなもの……取引じゃない。命の踏みつけよ……!)
そのときだった。
伏せていたアルスが、わずかに顔を上げた。
『ルーナ……?』
小さな、震える声。
その一言で、ルーナの世界が一瞬で色を変えた。
「アルス!? あなたなの!?」
雑踏をかき分け、壇上へと駆け寄るルーナ。
アルスがこちらに向かって、必死に尾びれを動かそうとした。
『ルーナ……助けてよ……ぼく……もう、こわ――うああああああっ!!』
叫びと同時に、尾びれの黒い枷が赤く光った。
雷鳴のような電撃音。アルスの巨体が痙攣し、鎖が鳴り響く。
「アルスっ!」
ルーナの悲鳴が、オークションホールの喧噪を裂いた。
しかしヴァイゼンは、わずかに肩をすくめて冷笑した。
「失礼しました。少々しつけをさせていただきましたので」
「……躾、ですって?」
その一言で、ルーナの心の糸が――ぷつりと切れた。
「――ふざけないで!!」
怒号とともに壇上へ駆け上がる。
仮面が宙を舞い、ポニーテールに結んだ銀の髪が月光のように広がった。
観衆がどよめく中、ルーナはアルスの鎖へと走る。
「アルス! わたしよ、ルーナよ! 今すぐ助けるわ!!」
『ルーナ……!』
その名を呼ばれた瞬間、アルスの目に光が戻った。
「ちょっと、お嬢さん――」
「黙りなさい! あなたたちが生きた命を弄んで、罪を犯してることくらい分かってるわ!!」
会場の空気が凍り付く。
ヴァイゼンはわずかに顔を歪め、低く命じた。
「――小娘を捕らえろ」
「はっ!」
闇商会の男たちが魔法陣を展開し、黒い霧のようなコウモリの群れが現れる。
『ルーナ、逃げて!』
「逃げない! あなたを置いてなんて行けるものですか!」
襲いかかるイーヴィルバット。
その瞬間、鋭い閃光が群れを貫いた。
「ナミ!」
壇上の天井から軽やかに飛び降りた影――銀の暗器を構えたナミが、静かに言い放つ。
「まったく……このような想定外は、作戦には含まれておりませんでしたよ」
その言葉とともに、ナミの双眸が獲物を見据えた。
「ごめんなさい、ナミ……でも、もう我慢の限界なの」
「それでこそ、心優しきルーナお嬢様です」
ルーナの謝罪に、ナミはむしろ誇らしげに微笑んだ。
「このコウモリたちは、わたくしが引き受けます。その間に――アルス様を!」
「分かったわ!」
ナミが暗器を構え、イーヴィルバットの群れを迎え撃つ。
その背中を一瞥して、ルーナは再び壇上のアルスへと駆けた。
『ルーナ……ごめん……ぼくのせいで……!』
「違うわ、アルスは何も悪くない! 謝るのはわたしの方よ……。闇市場の調査ばかりに気を取られて、あなたを独りにしてしまった!」
紫の瞳から涙がこぼれ落ちる。
アルスの瞳がその光を映した瞬間、微かに震えた。
『ルーナ……うあああああ!!』
「アルス!?」
「――誰かと思えば、このシャチを連れていた小娘か。ならば……《ビースト・ドミネーション》」
ヴァイゼンの冷たい声が響くと同時に、アルスの全身に赤黒い光が走った。
次の瞬間、彼は苦悶の叫びを上げる。
『うあああああ!! 頭が……! いやだ、ぼくはルーナを傷つけたくなんか――うああああああ!!』
「アルス! ヴァイゼン、あなた、何をしたの!?」
怒りに燃えるルーナに、ヴァイゼンは歪んだ笑みを浮かべる。
「自らの手で主人を屠る――そのように魔法で調整したのさ」
「外道……!」
「私を罵る余裕が、君にあると思うかね?」
ヴァイゼンの指が鳴る。
次の瞬間、赤い瞳を輝かせたアルスが突進をしてきた。
「きゃ――っ!!」
「お嬢様ぁ!!」
四トンの巨体が壁を揺らす。
衝撃と共に、ルーナの華奢な身体が宙を舞い、壁に叩きつけられた。
「かはっ……!」
血を吐き、倒れ込む。折れた肋が悲鳴を上げた。
だがその目はまだ、アルスを見つめている。
「ヴァイゼン、ルーナお嬢様をよくも……! ――くっ!」
ナミが駆け出そうとするも、無数のイーヴィルバットが行く手を阻む。
怒りに歯を食いしばり、ナミの双眸が閃いた。
一方その頃、ヴァイゼンの声が冷たく響く。
「ははは! これは痛快だ! 己の主を殺すなど、滅多に見られん見世物だ!」
「やれ、やっちまえ!」
「あの小娘を潰せ!」
観客たちの狂気の声。
その中で、アルスはなおも必死に抗っていた。
『いやだ、ぼくは……ルーナを……傷つけたくない……!』
「何をしている、殺せ!」
『いやだあああああああああ!!』
血の涙が頬を伝う。
それでも、彼の尾びれは震えながらもルーナを狙えずにいた。
その姿を見て、ルーナは立ち上がる。
脇腹を押さえ、よろめきながらも、まっすぐにアルスへ歩み寄った。
「アルス……辛かったね。でも、もう大丈夫。わたしがいるから」
『ルーナ……だめ、離れて……!』
「大丈夫。あなたは、わたしを傷つけたりなんかしない。だって、あなたは――アルスだから」
微笑むルーナの胸元が、淡い光を帯びた。
懐にしまっていたシャチのガラス細工が、ふわりと宙に浮かび上がる。
「これは……!?」
その瞬間、光が弾け、アルスの鎖と黒い枷が粉々に砕け散った。
「ば、馬鹿な……! 私の支配魔法が、破られただと!?」
驚愕に頭を抱えるヴァイゼンをよそに、ルーナはアルスの顔を両手で包み込む。
「もう大丈夫……ね?」
『ルーナぁ……うわあああん!!』
支配から解き放たれたアルスは、ルーナの胸に顔を埋めて泣いた。
ルーナはその頭を優しく撫で、囁く。
「言ったでしょう? わたしが、必ず助けるって」
そして――
涙の混じる微笑みのまま、ルーナはアルスの額にそっと口づけた。
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