第2章 エレベーターの嘘

奥のドアは、開いたのではない。

“薄くなった”。

触れると指が沈む。寒天の膜を押すような抵抗。その向こうに、コンクリートの階段が見えた。

倉科がスマホのライトを点ける。LEDの白は、膜の向こう側では少し黄色く濁る。

「行く?」

「行くしか、ない……ですよね」


二人は靴の踵を確かめ、膜をくぐる。体温が一瞬だけ奪われる。

狭い階段室。壁に手を這わせると、水分を含んだコンクリのざらつき。手のひらに、砂の目が移る。

天井近くに、非常灯。緑の人影のピクトグラムが、左右逆転していた。

踊り場に数字。「B1」。

地下一階。

「さっき、エレベーターで1階に降りたよね」

「うん。でも、ここは…地下?」


踊り場の壁に、細い鉛筆の線で書かれた矢印と、再び数字。

→ 1 → 4 → 9

矢印は下を指している。

「平方数だけ、“通れる”のかも」

倉科が息を整えながら言う。

「この建物の階層、1・4・9・16……該当階が“実体”で、それ以外は複製の薄膜」

「じゃあ、エレベーターの表示が滲んだ9は、実体の“手前”で揺れてた?」

「仮説、ね」


B1で扉を押すと、冷たい空気がぶつかった。

機械室。配電盤が並び、ブレーカーの列が規則正しく並んでいる。古賀と書かれた手帳が開きっぱなしで置かれていた。

ページの端。走り書き。

《音=分。3→消える/9→開く/16→閉じる。出るな。出たら戻れない》

インクがにじんでいる。

その下に、震える文字。

《もし君が見ているなら、時計を見るな。音を――》

ここで途切れている。


…ピー…

金属の箱の奥から響く。配電盤のどれかが、音を吐いているのだろうか。

悠真は、手帳の別ページをめくる。

日付が遡るごとに、文字が整っていく。

三日前のページに、整った文字で、こうある。

《15-07の子へ。お母さんに鍵を返しなさい。玄関の上、箱の中》

指先が強ばる。

「俺の…? なんで古賀さんが」

「知ってる。あなたの部屋のこと」

倉科の声は低く静かだった。

「“ここ”は、建物の外側で起きたことを、別の筋道で繋ぎ直してる。秘密は、隠せない。たぶん」


そのとき、機械室の奥の薄暗がりで、何かが擦れる音。

二人が同時に振り向く。

明滅する非常灯の下、黒いスーツにネクタイの男が立っていた。三十代半ば、やつれた頬。

「ああ、やっと人に会えた」

男の声は乾いているが、どこか安堵を含んでいた。

「三枝です。17階。昨日から降り続けて、ずっと同じ廊下に戻されて…」

「昨日?」

倉科が目を細める。

「今、あなたの“昨日”、何回目?」

三枝は、笑うとも泣くともつかない顔をした。

「三回目だと思ってたけど、四回目かもしれない。音の回数が、途中から数えられなくなる」


彼は配電盤の一つを指差した。

「ここ。9分ごとにスイッチ音がする。あのメール、見ました? 音を数えろってやつ。9で“開く”。16で“閉じる”。だから、“開いてる”間にだけ通れる場所がある。俺はそれに失敗して、戻ってこれなくなったんだ」

「今、どこから来たんです?」

「エレベーター。17から9、9から4、4から1。順番を間違えると、廊下に吸い戻される。…でも、今日は“地下”が開いた。あなたたちが“四角”を押したから」


倉科が手帳を閉じる。

「出口を見つけたい。けれど、古賀さんは“出るな”と言ってる。出たら戻れないとも」

「戻れないのは、ここに“帰る”ことか、元の世界に“帰る”ことか」

悠真の声が、自分のものではないように震えた。

三枝が肩をすくめる。

「どっちも、かもしれない」


…ピー…

機械室の空気がわずかに温む。

非常灯が一瞬だけ明るくなり、壁の影が濃くなる。

倉科が、決めるように言った。

「9で開く。今、五回目。あと四回。9回目が鳴ったとき、“どこか”が開く。そのとき、通る」

「どこを?」

「“平方数の扉”。1、4、9――それから、16。順番は…たぶん“上へ、下へ、上へ”。同じパターンが続くと、巻き戻される」


三人は機械室を出て、階段室に戻った。

壁の矢印は、うっすらと別の線で上書きされている。

→ 1(上へ)→ 4(下へ)→ 9(上へ)

最後に、薄く「16」の影。

指先でなぞると、粉のように線が崩れ、空気に溶けた。


…ピー…

六回目。

三人は息を合わせ、階段を上る。

B1から1へ。

踊り場の扉が、自動ドアのように“薄くなり”、通れた。

1から4へは、エレベーターを使う。

扉の内側で、三人は顔を見合わせる。

「順番を間違えるな」

「間違えたら、また“同じ廊下”に巻き戻される」

三枝が拳を握る。骨ばった指が、白くなる。


数字が、1から4へ。

…ピー…

七回目。

扉が開く。

4階の廊下は、やはり同じ。だが、今度は空気のどこかが“薄い”。壁紙の模様が、近づくと解像度を落として点の集まりに見える。

走る。

階段へ。

4から9へ、上る。

息が焼ける。

…ピー…

八回目。

9階の踊り場の扉が、まだ“固い”。倉科が手を当て、耳を寄せる。

「あと一回」


静寂。心拍。汗が耳の内側を伝う。

…ピー…

九回目の音が鳴った瞬間、扉の素材が変わるのが、触れている手でわかった。

硬さの奥に、柔らかい“移行”。

倉科が押す。

扉は音もなく、開いた。


そこは、見たことのない9階だった。

廊下は同じなのに、窓の外に、灰色ではなく、白い霧が立ちこめている。霧の向こうに、別のマンションのベランダがぼんやりと見える。

「外が…ある?」

三枝の声は、祈りのようだった。

だが、その“外”は、見ている間にゆっくりと、こちらを見返してくる感覚をもたらした。

霧の粒が、合わせ鏡のように自分の輪郭を増殖させる。

一歩踏み出せば、あの白は、こちらの記憶を“変数”として持っていく――直感が、全身の産毛を逆立てた。


「待って」

倉科が、手のひらで制した。

「“出るな。出たら戻れない”。外の像が、私たちを“採寸”してる」

悠真は呼吸を整え、ポケットから、郵便受けの紙を出す。《ゆうまへ おかえり》

紙の端が、うっすらと濡れている。霧の湿りだ。

「おかえり、ってどこに?」


背中の方で、階段室の暗がりがひときわ濃くなった。

誰かが、遅れて上がってくる足音。

階段の角に、古いスリッパの先が見えた。


白髪の、古賀が現れた。

息を切らし、目を細める。

「外に出るな」

その声は震えていたが、意志は硬かった。

「出たら、戻れない。戻るべき場所からも、ここからも。――わたしは、もう二度と“戻れなかった”」


彼の目が、まっすぐに悠真の手の紙を見た。

「それは、君が自分に宛てたものだ。別の“筋道”の君が」

唇がひとりでに乾いていく。

「じゃあ、出口は?」

古賀は、ほんの一瞬だけ笑った。

哀しさを混ぜた、短い笑い。

「出口は、いつだって入口のふりをしている」


…ピー…


九階の窓ガラスが、内側から曇り、白い指で書くように文字が浮いた。

《数えたか?》

《どこへ帰る?》


悠真の胸の奥で、何かが決壊しそうになる。

帰る場所――15階の玄関の上、箱の中の鍵。母の声。

そして、ここで出会った人々。

もし“出る”なら、何を切り離すのか。

もし“戻る”なら、何を引き受けるのか。


霧の向こうで、どこか遠くの世界の朝が、ほんの少しだけ色を帯びた。


――音は、次の9へ向かって進んでいる。

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