さらば愛しの因習村
梶ノ葉 カジカ
第〇話 化学準備室
化学準備室は実習棟のほかの教室の多くがそうであるように、放課後のいまとなってはまるで本来人が立ち入る場所ではないかの如く、この世が生まれて以来当然そうであったかの如くに、あまりにも静かな空間だった。
窓が締め切られているのではっきりと可視化はされないが、引き戸を開けた瞬間から埃が宙を舞っているのがにおいでわかる。
そんな埃をまったく意に介さず引き連れて、
「この窓だよね? カーテン……じゃ、ない!」
準備室奥の窓は黒いブラインドで覆われており、僕らが持ち込んだ空気の流れによって、まとった細長いほこりを水中生物の感覚器官のようにたゆたわせている。
「古くなって取り替えられたんじゃないですか? ──ちょ、乗るのはまずいですって」
「だぁって、届かないんだもん」
窓の手前の台の上に四つん這いになり、ブラインドの操作紐に手を伸ばす先輩。
目の前でスカートが揺れて目のやり場に困る。
「鳩の鳴き声、聞こえないね」
「まあ……季節的なこともあるかもですし」
どうせ創作だろうとも思ったが、愉しそうな彼女に水を差す気にもならなかった。
投稿された怪談では、締め切られたカーテンの向こう、すりガラスの越しの窓辺に鳩がたびたび来ていたのだが、いざ掃除のために開けると窓は板張りで潰されていた。鳩なんて来られようはずがないのにあれはなんだったんだ、というものだ。
「おいしょ! ──うえっ」
必要以上に勢いよく跳ね上げられたブラインドは四方八方へ降り積もっていた粉塵を飛ばし、僕らは激しく咳込んだ。
「あーあー、もう。掃除するって話で鍵借りたのに……」
「すごい! ほんとに木の板だよ!」
手で口を押さえながら勇んで窓を開ける先輩。
この場合鼻も塞がないと意味がないと思うが、怪談を前にした彼女はそんなことお構いなしだった。
見れば板は想像される年季よりも新しく見え、多少すすけてはいるが全体的には白い木目を保っている。
鳩の目撃談がこの窓であったにしても、小羽根やフンが落ちている様子はもちろんない。
「……これ以上調べようもないですね。掃除して帰りますか」
元は背の高い棚が置かれていたとか、単になにかの理由で窓が潰されていた。
語られるような怪現象は確認されず。
身近にある怪談などこんなものだろう。しかし僕はこの怪談が気に入っていた。
短くまとまっており不思議な感覚を残して終わる良作だ。
残念ながら投稿者名が入力フォームの不具合か文字化けしてしまっており投稿者へのインタビューはできないのだが、これは〈怪談マップ〉に配置する小粒な一編として申し分ないだろう。
「これさあ」
先輩は窓枠に手を這わせ、四方に隙間がないことを確認し、軽くノックしている。
「ああ、体重かけちゃだめですよ、危ないから」
「ほんとに外からの音だったのかなあ」
そう言い始めた時点で、もう付き合いがそこそこ長い彼女が言いたいことに、僕は瞬時に思い当たる。
「……」
「これ結構分厚い板みたいだし、しっかり塞がれてるなら、小さい鳴き声なんて外から聞こえないんじゃない?」
外からの音が聞こえない。
つまり外側からしていると思っていた音が、実はそうではなかった。
怪談のオチとしては、そうであったほうがひねりが利いていていいのだろう。
僕がこの怪談の作者だったとしたら、その一文を加えるかもしれない。
しかしそれは我々の悪癖だとも反射的に思う。
「音は内側からしてたんじゃないか……って言うんでしょ?」
振り返る彼女の瞳は、爛爛と輝いていた。
〈発作〉の症状だ。
その引き込まれるような黒々とした輝きに一瞬見とれてしまう間に、メキメキと硬いなにかが裂ける音が響く。
「あっぶ──」
その内側と外側で同時に鳴った音を聞くが早いか、僕は先輩のふくらはぎを掴んで力いっぱい引っ張っていた。
硬いものと柔らかいものが雪崩のように僕の上に落ちてきて、一拍遅れて遠くでは乾いた高い衝撃音が響く。
「あはは……ごめんね。やっちゃった」
僕の頬に膝がしらを突き立てたまま、先輩は笑った。
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