第3話 おいしい
雨粒が徐々に大きくなる。
迷うより先に、汐見さんの腕をとって住宅街へと歩き出した。
幸いにも、僕の家はこの交差点からさほど遠くない。
ふらふらのクラスメイト女子を引っ張り、自宅へ連れ込む高校生男子——字面だけ見れば不健全にもほどがある。
だけど、あの足取りを見たあとで放っておく選択肢は選べなかった。
「あとで安心詐欺みたいになっても困るから、先に伝えておくね。僕、一人暮らしなんだ」
一世帯が住むには広くないけど狭くもない、築浅の二階建て一軒家。
玄関を開けながら告げると、彼女の瞳が一瞬だけ動いた。
「ご両親、亡くなったの?」
その発想が最初に浮かぶのか。
不謹慎、という言葉が喉元まで来て、ぐっと飲み込む。
「あ、違う違う。父親が海洋研究者で海外赴任中。で、母親はべったりついていった。恥ずかしいくらい仲睦まじいよ」
「そうなんだ」
「遠慮せず上がって。タオル使いなよ。スリッパはそこ」
「ありがとう。でも通り雨みたいだから、止んだらすぐに出るね」
濡れた前髪を拭いながら、汐見さんは小さく頭を下げた。
「でもさっき、帰る家はないって」
「大丈夫。野宿でもなんでも、方法はいくらでもあるから」
「野宿が第一候補に出てくる時点で不安しかないんだけど」
このまま帰すのはしこりが残る。かといって、強引に部屋に上がれと言うわけにも。
そのとき、きゅるる、と小さな音が鳴った。
「……お腹、空いてる?」
「空いてない」
「僕はもうぺこぺこだから夕飯つくるよ。手間は変わらないし、ついでに食べてったら?」
キッチンに立つ。手順は体に染みついている。
鍋でお湯を沸かし、パスタを放り込む。
フライパンにオリーブオイル、にんにくを泳がせ、ベーコンとしめじを炒める。ジュッと小気味いい音。醤油をまわすと、食欲をそそる匂いがふわっと満ちた。
茹で上がったパスタを混ぜながら、思案する。
交差点での様子は、普通じゃなかった。
噂しか知らない。何が真実で何が雑音かもわからない。けど、彼女が追い込まれているのは見ればわかる。
クラスで浮いていた。陰口とか、不祥事とか、家庭のごたごたとか。
事情を聞くのは勇気がいるし、聞いたところで何ができるのかも、自信がない。
正直、まだ関わるのが怖いと思う自分もいる。
でも、見てみぬふりができるほど僕は大人じゃない。
それに……早まられても困る。
言葉にはしないけど。最悪の想像は頭の中だけに留めて、火を消した。
刻み海苔をかけて、最後に黒胡椒をひと振り。
作り慣れた和風パスタの完成。簡単だけど失敗しないやつ。
お皿を二つ、ダイニングテーブルに。
一つを大人しく座る彼女の前に置くと、香りが届いたのか、汐見さんはさっとお腹を押さえた。
「せっかくだし、冷める前に食べてよ」
汐見さんは躊躇しながら、ゆっくりとフォークを手にとる。
遠慮がちに少量を口に運び、噛んで飲み込んで、もう一口。二口目からは早かった。
忘れていた食欲を思い出したように、もぐもぐと口を動かす。
「……おいしい」
「お、そっか。よかった」
その言葉を聞けてホッとする。
笑みを返した次の瞬間、彼女の頬に雫が伝った。
「おばあちゃんの料理を思い出す」
「……そうなんだ」
「おばあちゃんの、肉じゃが……」
「いや、普通はパスタで思い出さないでしょ」
「おばあちゃん、私の好きな糸こんにゃく、いっぱい入れてくれて……っ」
目のふちにじわっと涙があふれる。それでもパスタだけはしっかり口に運んでいた。
「言われてみれば、たしかに……つるんとした食感とか、近いものがあるかもね」
軽口でごまかさないと、油断すると僕までもらい泣きしそうだ。
そういえば、学校を休んでいた理由。「今回は忌引き」と担任が言っていた。
おそらく、祖母を亡くしている。
噂では彼女の両親はすでに……。帰る家がない、に繋がる理由はここにあるのだろう。
遺産とか相続とか、大人の事情があるのかもしれない。
高校生が背負うには、少し重すぎる。
フォークを動かす音が絶え間なく続く。
見た目に反してよく食べる。多めに茹でておいて正解だった。
誰かにご飯をつくるの、いつ以来だっけ。
テーブルの向こう側に人がいるだけで、照明が普段よりあたたかく見える。
いつの間にか雨は上がり、窓の外では濡れたブロック塀が街灯をぼんやり映して、しっとりと光っていた。
空になった皿を見て、汐見さんは小さく息を吐いた。泣き止んだ目は、まだ赤い。
さて、と。ここから先をどう言おう。
野宿を第一候補にする子を玄関まで送り返すのは、僕にはできない。
ただ、引き止める言い訳は思いついた。
「……おかわり、あるけど」
「食べる」
食い気味で即答。思わず吹き出しそうになる。
「じゃ、よそってくる。そのお皿貸して」
「うん」
キッチンに向かいながら、旅立った親友に文句を言っておく。
この事態をちゃんと想定した上で、時間旅行に出発しろよ。
そもそもタイムリープってなんだ。普通に使うなそんな危ないもん。
てか、おまえはどこだよ。行方不明の届け出とか、僕がしたほうがいいのか?
戻ってこないとか、やめてくれよな。
どうにもならないことを考えても仕方がない。
目の前の問題だけで、手いっぱいだ。
本当に過去を変えに行ったのなら、せめて別の時間軸にいる汐見澪のことは、蒼一がしっかりと助けてやってくれ。
「……お風呂、湯船でも張るかぁ」
僕も、それなりのことはやってみるから。
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