第一章:虚構の民主主義
鷲尾慎二の惨殺事件は、夜明けと同時に「国家的スキャンダル」として炎上を始めた。
ニュース番組のキャスターは、硬い表情で血文字の写真を指し示す。
「現場に残された言葉は――“僭王を恐れよ”。
視聴者の皆さんも耳慣れない言葉かと思いますが、これは古代ギリシャで……」
画面右下にはテロップが出る。
〈僭王(せんおう):王位を僭称した者、非合法に権力を握った支配者〉
キャスターの説明が終わると、コメンテーターが軽薄な笑みを浮かべて言った。
「要は独裁者ってことでしょう? ネットでよくある、強すぎる上司を“僭王”って呼ぶ冗談みたいなものですよ。犯人はただの悪趣味な皮肉屋なんじゃないですか?」
別の評論家が顔をしかめる。
「いや、これは明確な政治批判だと思います。現役の議員を殺して“僭王”と書き残すなんて、明らかに体制そのものを挑発している」
スタジオは無意味な応酬で熱を帯びる。
視聴者はチャンネルを変えながら、ただ“血文字”の映像だけを頭に焼き付けていった。
――――――――――――――――――
SNSの反応はさらに暴力的だった。
「僭王」という単語がTwitterのトレンドを埋め尽くし、数千、数万の呟きが瞬時に拡散する。
〈僭王www 選挙もせずにのさばってる老害政治家どものことだろ〉
〈次は誰がやられるんだ?〉
〈僭王ってバンド名にしたら流行りそう〉
〈僭王=俺のブラック企業の社長。はよ殺してくれ〉
冗談と本気の境界は曖昧になり、血文字の写真を加工したコラージュ画像が雨のようにアップロードされる。
やがて、それらを検閲する余裕をなくしたネット空間は、嘲笑と恐怖と熱狂の坩堝と化していった。
――まるで、見えない演出家に操られているようだ。
神谷怜は、新聞社の喫煙所に腰掛けて、それらを無言で眺めていた。
彼は煙草を吸わないが、ここは誰にも邪魔されずにスマホをいじれる隠れ場所だった。
SNSの画面をスクロールしながら、呟きの洪水に眉をひそめる。
「速すぎる……」
呟きは自然発生ではない。拡散の規模も速度も、不自然だ。
意図的に“炎上”が仕掛けられている。
しかも、それはただの愉快犯ではなく――明確な政治的な匂いを孕んでいた。
怜は記者として、これまでにも「情報操作」や「プロパガンダ」の影を追ってきた。
特にネット上での世論形成は、ここ数年、彼の興味の中心だった。
ただし、その記事の多くはデスクに握り潰されている。
広告主の圧力、政治家の顔色、上層部の忖度。
正しい記事より、売れる記事。
権力を暴くより、権力を守る記事。
――それが今の新聞社だった。
「……笑えないな」
怜はスマホを閉じ、記憶の奥底に沈む過去を思い出していた。
数年前、彼の大学時代の親友が一人、自ら命を絶った。
きっかけは、SNS上での炎上だった。
匿名の攻撃、嘲笑、誹謗中傷。事実と嘘の区別がつかぬまま、親友の名は“社会的に殺された”。
怜は葬儀で、遺影に向かって「すまない」とだけ呟いた。
その時から、情報の暴力とそれを仕組む“何者か”を暴くことが、怜にとって人生そのものになったのだ。
だが、その執念は社内では煙たがられた。
「陰謀論」と揶揄され、調査費は削られ、記事は潰された。
――それでもやめられない。
誰かが真実を記録しなければ、また誰かが“殺される”のだから。
――――――――――――――――――
その夜、怜は帰宅すると、ポストに奇妙な封筒を見つけた。
差出人の記載はない。中には小さなUSBと、手書きの紙片。
〈Ereksion711Δ〉
――エレクシオン。ギリシャ語で「選挙」。
数字と記号はコードのようにも、日付のようにも見えた。
パソコンにUSBを挿すと、暗号化されたファイルがひとつだけ現れる。
パスワードは、紙片の文字。
解凍すると、数百枚の内部資料が流れ出した。
《世論操作請負契約書》
《ボットアカウント生成マニュアル》
《主要政治家監視リスト》
目を通すごとに怜の指先が震えた。
そこには、与党議員数十名の名前が並び、それぞれの「支持率操作」や「ネガティブキャンペーン」にかかる費用が詳細に記録されていた。
つまりこれは、組織的な世論操作の生々しい証拠だった。
――だが、なぜ自分に?
考えるより早く、窓の外で気配がした。
カーテン越しに街灯の影が差し込み、一瞬だけ、王冠を載せた黒いシルエットが映る。
怜は凍りついた。
……誰かが、こちらを見ている。
直後、スマートフォンが震えた。非通知のSMS。
〈民主主義は仮面にすぎない。
仮面を剥ぎ取れば、人は僭王を求める。
君は、どちらの側に立つ?〉
文末には、王冠の絵文字に似た小さな記号。
怜の心臓は荒く鼓動を打っていた。
恐怖と同時に――燃え上がる渇望。
これは罠かもしれない。だが、それでも……。
「俺は……もう後戻りできない」
呟きは、薄暗い部屋に吸い込まれていった。
彼はすでに、不可視の“舞台”に足を踏み入れていた。
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