24話 これこそが望んでいた静かな生活
カチ、コチ、と。
壁掛け時計の秒針が刻む音だけが、やけに大きく聞こえる。
夕暮れの陽光が、高い窓から斜めに差し込み、空気中を舞う無数の埃を黄金色に照らし出していた。
オレは受付カウンターの自席――極上の羽毛クッションを設えた特注品――に深く体を沈め、至福の溜息を一つ漏らす。
手の中には、温かいマグカップ。その中身は、先ほど丁寧に淹れたばかりの、極上のドリップコーヒーだ。
棚の奥から取り出したのは、王都から遥か南東の『ルナリア高原』でしか栽培されない希少な珈琲豆。雑味のないクリアな苦みと、後味にふわりと残るチョコレートのような甘い香りが特徴の逸品だ。
魔術式のミルがゴリゴリと心地よい音を立てて豆を挽き、部屋に深く、香ばしい香りが満ちていく。この瞬間のために生きていると言っても過言ではない。
裏の井戸から汲んだ清冽な水を最適な温度に沸かし、円を描くようにゆっくりと、静かに注ぐ。ぷくりと、珈琲の粉が呼吸するように膨らむのは、最高の鮮度の証だ。
琥珀色の液体が、一滴、また一滴とサーバーに落ちていく。
その光景を眺めているだけで、ささくれだった心が穏やかになっていくのを感じる。
一口、コーヒーをすする。
鼻に抜ける芳醇な香りと、舌の上に広がる深いコク、そしてわずかな酸味。
完璧だ。
読みかけだった冒険譚『勇者アレクスの軌跡』を再び手に取る。
美味いコーヒーと、面白い本。そして誰にも邪魔されない、圧倒的な自由時間。ああ、なんて幸せな仕事なんだろうか。
「……ふぅ」
今日は、実に静かで良い一日だった。
ここ最近は、どうにも騒がしかったからな。
腹を空かせた剣姫と元災厄が毎日押しかけてくるわ、親バカになった元S級冒険者が商売の相談に来るわ、果ては国の宰相閣下が暗殺者に襲われて、とんでもない騒動に巻き込まれるわ……。
思い出すだけで疲れる。
それに比べて、今日のこの静寂はどうだ。利用者ゼロ。面倒事ゼロ。これこそが、オレが二度目の人生で手に入れたかった、何物にも代えがたい宝物なのだ。
そろそろ閉館の時間か。このまま静かに一日が――。
カラン。
静寂を破る、無粋なベルの音。
オレはゆっくりと本から顔を上げ、本日唯一の、そしておそらくは最後の面倒ごとを出迎えた。
そこに立っていたのは、黒い装束に身を包んだ、痩身の男だった。
「よう、ゼスト。また来たのか」
『影を断つ者』ゼスト。腕利きの暗殺者だが、今ではすっかり、オレの飯をたかりに来る常連客の一人と化している。
「だが、あいにくだな。昼飯の時間はとっくに過ぎてるぞ。今日のポワレは絶品だったが、もう残ってはいない」
オレがやれやれと肩をすくめて言うと、ゼストはいつもと違い、黙って首を横に振った。
その瞳は、底なしの闇のように昏いが、今日はそこに奇妙な真剣味が宿っている。
「いや、そうではない。今日は……ある文献を調べに来た」
「文献?」
意外な言葉に、オレは眉をひそめた。こいつが本を読みに来るなんて、天変地異の前触れか何かか。
ゼストはオレの返事を待たず、古代文献が並ぶ書架の方へと歩き出す。そして、まるで独り言のように、しかし、オレに聞こえるように、ぽつり、ぽつりと呟き始めた。
「……『
「……」
「伝承は数あれど、どれも結末は同じ。数百年前、西の大国を一夜にして滅ぼした時も、千年前、エルフの森を腐海に変えた時も、始まりは一体の宿主からだったという」
ゼストは、特定の書物を探すでもなく、ただ薄暗い書架の間を彷徨いながら続ける。
「通常の魔物のように、個としての強さを持つのではない。あれは『増殖する死』そのもの。環境災害に近い。一体倒せば、そこから撒き散らされた胞子が十の新たな苗床を生む。そして、その十体が百体を生む……」
そこで、彼の足がぴたりと止まった。
「本来、あれは大陸の最果て、瘴気の満ちる『忘れられた森』の奥深くに封印されていたはず……。それがなぜ、王都の近くに?」
不穏な言葉が、静寂に満ちた書庫に重く響く。
ゼストは近くの書架から、埃をかぶった分厚い革張りの本を一冊抜き取ると、パラパラと数ページめくり、何かを確認するように小さく頷いた。
「……ふむ。やはり、元を断たねば意味がない、か」
本を書架に戻し、くるりとこちらに振り返る。その顔には、既に覚悟を決めた者の静けさがあった。
「邪魔をしたでござる」
「もう行くのか?」
「今日は些か、立て込んでいる。少々、『準備』が必要になったゆえ、これで失礼つかまつる」
『準備』。
その言葉がなにを意味するのかオレにはさっぱり理解できない。
ゼストはそれだけ言うと、音もなく踵を返し、来た時と同じように静かに扉を開けて出て行った。
カラン、とベルの音が遠ざかり、図書館には再び完全な静寂が戻ってくる。
オレは、一人残された書庫の中で、腕を組んだまま首を傾げた。
……なんだ、あいつ?
相変わらず、いちいちしゃべり方がうっとうしい奴だ。
まあ、あいつが何をしようとオレには関係ないか。それより問題なのは、この完璧なコーヒータイムだ。
オレはそう結論づけると、飲みかけのコーヒーがこれ以上風味を損なう前に、さっさと受付カウンターの席へと戻るのだった。
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