2話 勘違い剣姫の来襲

「――この場であなたに決闘を申し込む!」


 静かな図書館に響き渡る、場違いなほど凛とした挑戦状。

 ああ、クソ、頭が痛い。こちらの面倒くさがりな態度が、最悪の形で裏目に出た。


「……あのな」


 オレはこめかみを押さえながら、目の前のギラギラした少女――シュシュアとやらを睨めつけた。

 こいつの碧い目はもう本気だ。対話の選択肢は消えたらしい。


「ここで暴れるのはやめてくれ。そこの本棚が倒れたらどうする。貴重な文献が傷ついたらどうするんだ。始末書だの弁償だの、面倒事の極みだぞ」


「……ふん。今さら書物を言い訳にするの? 自分の怠惰を守るために?」


 少女の言葉は、氷のように冷たい。


「いいでしょう。叡智の詰まった書物を傷つけるのは本意ではないわ。あなたがそこまで言うなら、場所は移してあげる」


 挑発するように、彼女は顎をしゃくって扉を示した。


「さあ、行きましょう。それとも、ここから一歩も動けないのかしら?」


「……ああ、行けばいいんだろ、行けば」


 これ以上何を言っても無駄だろう。図書館の中で暴れられて本がダメになるよりは百倍マシか。

 オレは重い腰を上げ、盛大なため息とともに入り口の扉へと向かう。


 一歩踏み出すごとに、理想の怠惰ライフが削れていく音がする。

 その後ろを、シュシュアは「ふん、すぐにそのメッキを剥がしてやるわ」などと呟きながら、意気揚々とついてきた。頼むから黙ってくれ。



 図書館の前は、噴水なんかもある、ちょっとした広場になっている。

 王都の離れた辺境にあるせいか、人の姿はまったく見当たらない。決闘(という名の迷惑行為)にはちょうどいいのかもしれない。ちっとも嬉しくないが。


「さて、これで文句はないでしょう。さあ、その怠惰な態度ごと……」


「いや、だから戦う気はないって」


 今にも細身の剣を抜きそうなシュシュアの言葉を、オレは冷たく遮る。

 いい加減、この面倒な状況を終わらせなければ。理想の怠惰ライフがどんどん遠のいていく。


「よく聞いてくれ、シュシュアさん。あんたは何か、とんでもない勘違いをしている。オレは賢者でもなんでもない。ただ平穏に、静かに暮らしたいだけのしがない図書館司書のジルだ」


 これは本心からの説得だ。ここで引き下がってくれれば、すぐにでもあの極上の椅子に戻って昼寝の続きができる。


「それこそ、スライム一匹だって倒したことがない。そんなオレとあんたが戦ったところで、一方的にオレがやられるだけ。あんたにとっても時間の無駄だろう?」


「嘘をつかないで!」


 シュシュアの澄んだ声が、怒りに震えて広場に響いた。

 ダメだこりゃ。話が通じるタイプの脳みそしてない。


「その怠惰な態度が気に食わない! いい、私は、血反吐を吐くような訓練を毎日続けてきた! 死線を何度も越えて、この強さを手に入れた! それなのに……一日中、安全な場所で本を読んでるだけのアンタが、あの『ギルドマスター』より強いですって? ふざけないで!」


 いや、お前の努力とか知らんがな。

 なんで、司書ってだけでこんな言いがかりつけられないといけないの……。


「だから、そのくだらない噂、私が打ち消してあげる! アンタがただの口だけ男だってこと、白日の下に晒してやるわ!」


 オレが頭を抱えていると、シュシュアはついにその優美な細身の剣を鞘から引き抜いた。


「――さぁ、勝負よ!」


 ああ、もう完全に問答無用らしい。女は、まるで子供をあやすかのように、わざとらしく口の端を吊り上げてみせた。


「……ふん。決闘といっても安心なさい。あなたのような間抜けな人間を殺す趣味はないわ。まあ、打ち所が悪ければ、大怪我はするかもしれないけれど」


 その言葉と表情には、絶対的な強者の余裕が滲んでいた。

 どうやら、戦いはもう避けられそうになかった。面倒の極みだが、やるしかないらしい。


◇◆◇


 私の名前はシュシュア。

『雷電の剣姫』の二つ名は、血の滲むような努力の末に勝ち取った、私の誇りだ。


 目の前の男、ジルとやらを睨みつける。

 気の抜けた顔。やる気の欠片も見せない態度。一日中椅子を温めているだけだという、その怠惰を体現したような佇まい。

 その全てが、私の神経を逆撫でする。


 ――この男が、あの『ギルドマスター』を小指一本で退けた?


 馬鹿げている。

 ありえない。

 あの方がそのことをポロリと口にしたとき、わたしはどうしても信じることができなかった。


『ギルドマスター』、ギガオン。

 かつて『剛毅不屈』とも言われた彼は、この国の冒険者たちの誰もが尊敬する、生ける伝説。王都最強どころか、大陸最強と謳われる英雄だ。

 確かにギルドマスターに就任して以降、彼のことを「高齢で全盛期はとっくに過ぎた」と囁く者もいた。けれど、彼の強さの本質は、そんな次元にはない。


 なのに、倒した相手が図書館の司書?

 冗談も休み休み言え、と誰もが笑い飛ばすはずだった。

 だが、ギガオンさんのあの表情はとても嘘をついているとは思えなかった。


 その噂を思い出すたびに、私の胸には、あの日の光景が鮮明に蘇るのだ。



 あれは、私がまだ七つだった頃。

 故郷の村が、オークの大群に襲われた。

 父が、母が、私の目の前で血に染まっていく。悲鳴を上げる暇もなかった。

 オークの濁った目が、逃げ遅れて足に怪我を負った私を捉える。太い腕が振り上げられ、汚れた棍棒が死の影を落とす。


 ――ああ、ここで死ぬんだ。


 絶望が、幼い心を塗りつぶした、その瞬間。

 閃光が走った。

 オークの巨体が、悲鳴もなく崩れ落ちる。


 私の前に、太陽を背にして立つ、巨大な背中があった。

 全身を鋼の鎧で覆い、傷だらけの大剣を握りしめた騎士。

 彼こそが、若き日のギガオンさんだった。


「――もう大丈夫だ、嬢ちゃん」


 振り向いた彼の顔には無数の傷があり、鎧の隙間からは血が滲んでいた。

 村を襲ったオークの群れは、途方もない数だった。彼はたった一人で、その軍勢と戦い続けていたのだ。傷つき、疲弊し、それでも決して膝をつかない。

 だから『剛毅不屈』。

 彼は、絶望の中に差し込んだ、たった一筋の希望の光だった。


 彼は私のような子供を守るために、己の身を盾にした。

 彼の背中を見ながら、私は固く誓ったのだ。

 私も、あんな風に強くなりたい。弱き者を守れる、誇り高き人間になりたい、と。


 ギガオンさんの信条――「強き者は、皆のために戦え」。

 それは、この国の戦士たちの誰もが胸に刻む、絶対のモットーだ。

 強き者がその力を誇示し、怠惰に過ごすなど、あってはならない。力には責任が伴う。私たちは、その誇りを胸に、日々鍛錬し、命を懸けて魔物と戦っているのだ。


 私も、疑いもしなかった。

 それが、唯一の正義だと信じて生きてきた。


 なのに。

 なのに、なぜ。

 一日中、安全な図書館で本を読んでいるだけの男が、あのギガオンさんより強いというのか。


 もし、そのことが本当なら。

 私たちの信じてきた正義は、根底から崩れ去ってしまう。

 血反吐を吐くような訓練も。

 何度も死線を乗り越えてきた覚悟も。

 弱き者を守るという、その誇りさえも。

 この怠惰な男の前では、全てが否定されてしまうというならば。


 そんなこと、絶対に認めてはならない。



 だから、私が証明する。

 この男が、ただの口先だけの、運が良かっただけの凡人だと。

 そして、あのくだらない噂が、完全な間違いだったと。


 私は、抜いた剣を握りしめ、切っ先を目の前の男――ジルに真っ直ぐに向ける。

 私の覚悟も、葛藤も、この男には欠片も届いていないのだろう。

 相変わらず、面倒くさそうな顔で、小さくため息までついている。


 その態度が、私の決意をさらに固くさせた。


「ふざけないで……!」


 怒りが、声になって漏れた。


「私たちの覚悟を、私たちの正義を、あなたのような男に否定されてたまるものですか!」


 私は剣を構え直す。

 風が吹き、銀色の髪が舞い上がった。

 足元の石畳が、私の魔力に呼応して、パチパチと微かな放電を始める。


「さあ、お喋りは終わりよ! そのふざけた噂、私が嘘っぱちだって証明してあげる!」


 ジルはまだ、武器すら構えていない。

 油断? 侮り? どちらでもいい。

 この一撃で、全てを終わらせる。


「その怠惰な心ごと、私の雷で断ち切ってあげるわ! 『雷電の剣姫』シュシュアの名において――」


 私は地を蹴った。

 常人には目で追うことすら不可能な速度。

 剣の切っ先に、青白い雷光が集束していく。


「――あなたの化けの皮を、剥いでみせる!」


 必殺の突きが、無防備なジルの胸元へと、一直線に突き進む。

 勝利を、そして私たちの正義の証明を、確信しながら。


 ――その、瞬間だった。

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