第28話 世間の残響
だが、その華やかな喧騒の裏側で、一つの大きな喪失感が、静かに、しかし、確実に社会を覆っていた。
「
あれだけ世界を熱狂させた彼の沈黙は、今や、人々の心の中で、変質していた。
『#吟遊詩人を
「偲ぶ」――その言葉は、彼がもう二度と、帰ってこないのではないかという、世間の
東京、丸の内。
昼休みのオフィス街で、一人のOLが、スマートフォンの画面を見つめながら、深いため息をついた。彼女は、ここ数ヶ月、仕事のプレッシャーから、心身のバランスを崩しかけていた。
彼女は、足早に、路地裏にある、小さな喫茶店へと入っていく。
店の名前は、「木の琴」。
店内には、装飾らしい装飾は何もない。ただ、何人もの客が、皆、思い思いの席で、静かに、目を閉じているだけだ。そして、店のスピーカーからは、一つの歌声だけが、繰り返し、繰り返し、流れていた。
吟遊詩人の、海賊版の歌声。
バードカフェ。
それは、彼の歌声に救われた人々が、都会の喧騒の中で、束の間の安らぎを得るためだけに集う、秘密の
OLは、コーヒーを一口飲むと、その歌声に、ゆっくりと、耳を傾けた。心が、洗われていく。
大阪、とあるマンションの一室。
中学二年生の息子が、自室に引きこもってから、三ヶ月が過ぎていた。
母親は、どうすればいいのか分からず、ただ、途方に暮れていた。息子の部屋のドアは、まるで、世界を拒絶する、巨大な壁のように、彼女の前に、そびえ立っている。
その日、彼女は、ネットの海を漂う中で、偶然、一つの歌声に出会った。
吟遊詩人。
彼女は、その歌声を、リビングのスピーカーで、ただ、静かに、流し始めた。
息子に、聴かせるためではない。疲れ果てた、自分自身の心を、慰めるためだった。
だが、その歌声は、壁を越えた。
息子の部屋のドアが、そっと、数センチだけ、開いたのだ。
そして、その隙間から、久しぶりに聞く、息子の、か細い声が、聞こえてきた。
「……その歌、なに?」
母親の目から、涙が、溢れた。
それは、吟遊詩人の歌が起こした、もう一つの、小さな奇跡だった。
彼は、病気の子供に父親が語り聞かせる、現代のおとぎ話になっていた。
病院のベッドで、患者が、回復を祈って、密かに聴く
その伝説の、始まりの場所にいた男、
娘の
彼は、書斎で、自分のブログに届いた、一通の、憎悪に満ちたメールを、静かに削除した。
『お前のせいだ。お前さえ、しゃしゃり出てこなければ、彼は、今も、歌ってくれていたはずだ!』
そんなメッセージが、今も、日に数件は届く。
だが、彼は、その痛みに、ぐっと耐えた。そして、別のメールを開く。それは、南米の、小さな村の母親からだった。
『私の息子は、ずっと、心を閉ざしていました。でも、あなたのブログで知った、吟遊詩人さんの歌を聴かせてから、少しずつ、笑うようになったのです。ありがとう』
大森は、そのメールを、丁寧に、翻訳し、自分のブログで紹介した。
これが、今の、彼の戦いだった。吟遊詩人さんの物語を、誠実に、守り抜くこと。彼の善意を、世界に、伝え続けること。
だが、その状況に、異を唱える者たちがいた。
『ギルド "吟遊詩人の
彼の、最初の、そして、最も熱心な信奉者たちだった。
その日、彼らのコミュニティの掲示板は、荒れていた。
『いつまで「偲ぶ会」なんて、やってるんだ!』
一人のメンバーの、そんな書き込みが、議論の火種だった。
『彼は、死んだわけじゃない! 俺たちは、彼を、過去の伝説にしてしまって、いいのか!?』
『そうだ! 偲ぶんじゃない。俺たちは、彼に、帰ってきてほしいんだ!』
『彼が、また、歌いたいと思えるような、温かい場所を、今度は、俺たちが、作る番じゃないのか?』
その、一人の叫びが、コミュニティの空気を、完全に変えた。
彼らは、その日のうちに、世界規模の、署名活動サイトを立ち上げた。
そのタイトルは、『もう一度、あの歌声を。
『彼は、我々の心に、光を灯してくれた。今度は、我々が、彼の帰る場所を、照らす番だ』
その頃、岡山のタワーマンションで。
秀一は、
「世間の熱狂も、ようやく、落ち着いてきたようです。あなたの、過去の楽曲への関心は、今も、根強いようですが」
その報告書には、もちろん、「#吟遊詩ものを偲ぶ会」という、彼らが最も望む、過去形への風化を示すデータしか、記載されていなかった。
秀一は、自分が、世界から、完全に忘れ去られようとしているのだと、信じこまされていた。
だが、水面下で、ファンたちの純粋な願いは、静かに、しかし、着実に、世界中の人々の共感を呼び始めていた。
署名の数は、日に日に、加速度的に、増えていく。
その活動が、やて、
世界はまだ、吟遊詩人を、忘れてはいなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます