はじめての愛国者
羽野京栄
第一章
第1話 命と死の狭間で
生きるか死ぬか。
大伴部博麻(おおともべのはかま)は命の瀬戸際にいる。
ここは船上だ。そして、戦場だ。
「俺は、死んでしまうのか」
絶望の一言を漏らした若者が乗る日本軍船は、赤地に「唐」の文字が大書された軍旗を翻した敵船に完全に包囲されている。明光鎧(めいこうよろい)と呼ばれる重々しく堅固な甲冑に身を包んだ男たちが、追い詰めた獲物たちを一匹残らず殲滅せんとばかりに凶猛な形相を、こちらに向けている。
「恐ろしい……」
弱々しい言葉が、思わず口からついて出る。天智天皇二年(六六三)旧暦八月二十八日、朝鮮半島中西部の白村江(はくすきのえ)という、異国の海辺で人生の最期を迎えねばならないのか。絶体絶命の孤舟に打ちつける波は恐ろしく高く感じ、死と隣り合わせのこの肉体のみならず、わずか十七歳の無垢な心をも激しく揺さぶる。
「どうして、こんなことに」
やるせない無情の念を、博麻はその短い言葉に凝縮した。
全く望まぬ徴兵に応じざるを得ず、十分な訓練も受けぬまま戦地に駆り出され、そして今死の淵に立たされている。この世はなんと不条理か。
そうこうしているうちに、唐国軍船の包囲網はさらに狭まり、そのうちの一隻が限りなく接近してくるではないか。もはや日本軍の敗色は濃厚だ。博麻の体を戦慄のどす黒い閃光が貫き、奥二重の瞳を全開させ、薄い唇はびくびくと振動する。身にまとっている体格に合わぬ小さめの甲冑が、狂おしいくらいに重たい。
紛れもなく、命の終わりがすぐそこまで迫っている。
「敵が乗り込んでくるぞ!矢を放て!」
上官の震えた怒鳴り声が聞こえた。次の瞬間、敵船が体当たりしてきたために、博麻たちを乗せた船体が鈍い音を立てて激しく揺れる。断末魔の怯えが甲板から足の裏に伝わる。博麻は自らの背に担ぐ矢筒から一本の矢を取り出す。戦場において上官指令は絶対だ。だが博麻は実戦で矢を放ったことなどなく、つかの間だった訓練の場でも弓術のてほどきを一度だけ受けたのみだ。矢筒を背負うのはただの兵士の体裁にすぎなかったのだが、まさかこの究極の修羅場で使用することになろうとは。
(殺したくなんか、ない)
命令に抗うような、心の叫びに襲われる。いざ他人を殺めねばならぬ場面に出くわし、他人の人生を絶つことの悲しさに苛まれ、恐怖感は最高潮に達した。でも自分から先に射かけなければ、自分が斬られてしまう。究極の葛藤の中で、二の腕をぶるぶると震わせたまま、矢を弓弦に引っ掛ける。そのとき、船体にどすんという衝動が走る。敵兵たちが肩をいからせてと乗り込み始めたのだ。
もはや一刻の猶予もない。
「撃て!撃て!」
敵兵の侵入を許し明らかに理性を喪失した上官の裏返った嬌声が響く。博麻の目の前に、刀剣を右手に握りしめたひとりの中肉中背の唐軍兵士が現れた。年のころは自らと同じくらいか。兜の緒をきっちり締めた面長の顔にはくっきり鼻筋が通っていて、紛れもない美少年である。くっきりとした二重の大きな目を鋭く光らせ、金狼のような獰猛な眼差しとなって、間違いなく自らの命に狙いを定めている。
ああ、殺られる――
二丈(約六メートル)ほど先まで迫り来て、恐怖の極限に達した博麻は慌てて弦を引くと、両目をぎゅっと閉ざした。
「ひいいっ……」
怯えきった右手指から離れた矢は、一直線にその美少年に向かっていった。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます