17話目

 焚き火の音だけが、パチパチと小さく響く。ソーシは目の前の男の反応を待っていたが、返ってくるのはただ、火加減を見つめる静かな横顔だけだった。自分の熱意が空回りしていることを、否応なく感じさせられた。


 すると、不意に、相手のほうから声が投げかけられた。

「……それで、その培養肉って、どんな味がするんですか?」


 助け舟のようなその言葉に、ソーシは一瞬、息を飲んだ。

(来た……)


 味と食感。それこそが、自分たちが最も苦労している部分であり、まさにトンポウに助言を仰ぎたいと願っていた核心だった。


 だが、相手からその話題を振られたというのに、ソーシの口は思うように動かなかった。


 ここで具体的に成形の失敗や食味の課題を打ち明けたとして、もし相手がトンポウ本人だった場合、「レベルが低い」と思われて興味を失われてしまうのではないか——そんな不安が頭をもたげる。


 頭の中で言葉を選びすぎて、何も出てこなくなる。

「そうですねえ……」


 ソーシは、焚き火の炎を見つめたまま、ひと呼吸おいて、苦し紛れに口を開いた。

「……肉の……味が、いたします……」


 それが、どれほど中身のない返答であるかを、自分でも痛いほど理解していた。そして、恥ずかしさのようなものが、じわりと喉の奥に湧いてきた。


 相手は少しだけ目を細め、焚き火の炎を見ながら、柔らかく笑った。


「なるほど。肉、ですか。」


 それは否定でも肯定でもない、ただの相槌だった。優しさすら感じられるその声に、ソーシはかえって気まずさを覚え、何も言い返せなかった。


 ——やっぱり、自分一人ではまだ踏み込めない。


 心の中で、カイの存在がふと浮かんだ。


 自分の代わりに、核心をぶつけに行ってくれる、あのまっすぐな顔が。


 そして、焚き火の煙がゆるやかに夜空へと昇っていった。


「あ、バイオウが焼けましたよ。どうです? 一緒に食べてみますか?」

 穏やかな声が、火のはぜる音の向こうから聞こえてきた。


「えっ……よろしいのですか?」


 これを食べ終わると相手は移動してしまう可能性がある。ソーシは核心に近づこうとする。

「……そういえば、まだお名前を伺っておりませんでしたな」

「……ああ、そうでしたね。マルイマルクと言います。マルクと呼んでください。あなたは?」


「ソ、ソーシと申します……ええ、名乗るほどの者ではありませんが……」

 ソーシの肩から、ふっと力が抜ける。


 ——違った。


 少しの落胆と、ほっとした気持ちが入り混じる。世の中に世界各地を旅している人間なんて山ほどいる。この広い世界で、そんな偶然があるはずがない。


「しかし……マルク殿の食への情熱には、ただただ感服いたします。王宮料理人という安定した立場を離れ、ご自身の探究へと進まれた。そのような選択は、誰しもできるものでは……」


「ええ、そうでしょう…!  まだ見ぬ新しい食の世界を切り拓くことに自分の情熱を注ぐ——これほど心躍ることはないですよ」


 ソーシは、やや呆れたように目を細め、かすかに苦笑した。カイとはまた別の種類のポジティブさ。ソーシは、この手の人間がどうにも苦手だった。

「……なんだか、羨ましくなりますな」


「羨ましい? あなたも同じじゃないんですか? 培養肉っていう、新しい世界を切り拓いている」


「新しい世界、情熱ですか……」


 ソーシは焚き火の炎を見つめながら、ぼんやりとつぶやいた。

「私は、実のところ、そうした熱意を持ってこの道に進んだわけではないのです。カイという者に……半ば強引に巻き込まれて、技術的な助言をしているに過ぎませんでして……。新世界を切り拓くなどという、立派な情熱を持っているかと問われれば……いささか、心もとない」


 そう言いながら、自分の言葉に違和感を覚えた。自分に情熱がないのなら、なぜこんなことをしている? なぜ、研究に没頭し、微生物を探し、こんな森の奥まで足を運んでいる?


 焚き火の向こうで、マルクが静かに聞いている。

「私はかつて、カイのように思っていました。自分が、世界変容を止めて、世界を救える、と」


「…カイと初めて会ったのはこの前のバンパクでした。カイが、バンパクで……その、ミスト・ドラゴンの培養肉について語っていたのです。

 私は、それを聞いたとき……少々、複雑な心持ちになりまして」


 言い淀みながらも、自然と拳に力がこもる。

「これは、もしかすると——世界を変えうるアイデアなのではないか、と。

 ……でも、それ以上に……カイに、かつての自分を重ねてしまったのです」


 焚き火の向こうで、マルクが静かに耳を傾けていた。

「私も、かつては思っていたのです。自分が、“世界変容”を止めるのに力を尽くせると、まさに情熱を持っていました……」


 ソーシは一度、息を吐いた。そして続ける。

「毒の風シンドロームを知っていますか?」


 マルクは首を傾げた。

「名前は聞いたことがあります」


「レギュ地方において、世界変容が進行したことで発生したと言われている病です。レギュ地方の大地そのものが、腐敗した大地に変容し、毒性のある気体を発生させるようになりました。毒性の気体が風に運ばれて周囲に拡散して…」


「…周囲に住む人々の身体を蝕むのです。…皮膚が、徐々に腐食し、やがて機能を失う——」


 かつて、ソーシはその地に立っていた。腐敗した土地。毒の風に晒された人々の肌は、黒く変色し、裂け、痛みに顔を歪めながらも、耐えるしかなかった。助ける手立てはなく、目の前で苦しむ人々をただ見ているしかなかった。


「私は…支援ボランティアの一員として、その土地を訪れました。しかしながら…何も、できなかったのです。被害が広がっていくのを、ただ…黙って見ているしかなかった」


 あの時の無力感——それは今でも消えていない。

「だから、私は科学を学びました。再生医療への道に進んだのです。腐食した皮膚を再生する技術には一定の希望が見えてきています」


 けれど——。


「結局、私は、何も役に立たなかった…」


 そこには何も根付かず、何も生まれない。


「被害を少なくするためには世界変容をとめる必要がある。そのためには、もっと根本的な解決が必要なのだと、思います。そして……培養肉は、その足がかりになるかもしれない。そう思う気持ちはあります。でも……」


 ソーシは口をつぐんだ。焚き火のパチパチと爆ぜる音だけが響く。


「それでも、まだ半信半疑なのです」


 今の自分の動機は……世界を救いたいというような高邁な理想から始めたことでは、ない。


「結局のところ、私がこの研究に関わっている理由など……拭いきれぬ後悔と、取り返しのつかない無力感ゆえにすぎません。

 それは、情熱などという……まばゆい言葉とは、ほど遠い。もっと、こう……何もしなかった過去の自分を、どうにかしたいというだけのこと」


 それは、うしろめたく、ひどく個人的な感情でしかなかった。


 マルクはしばらく何も言わなかった。炎が揺れ、肉がじゅうっと音を立てる。


 そして、不意に笑った。

「それでいいじゃないですか」


 ソーシは驚いたように目を上げる。


「それが、あなたの情熱ですよ」


 ——情熱?


 そんなもの、持っているつもりはなかった。だが、マルクの言葉が、何か小さな棘のように心に刺さる。


 知らず知らずのうちに、自分は培養肉の研究にのめり込んでいた。無自覚のうちに、ミスト・ドラゴンの培養液の改良に執着していた。


 ——それは本当に「情熱」ではないのか?


「……そう、なのかもしれませぬな…」


 ソーシはぽつりと呟くように言った。


 バイオウをいつの間にか食べ終わっていた。

 マルクが立ち上がり、片付けの準備を始める。


「さて、そろそろ片付けて出発しようかな」


 ソーシも立ち上がり、頭を軽く下げた。

「……その、ええと……長々と、つまらぬ話ばかりしてしまい、失礼を」


「いやいや、私もたくさん喋りましたから。楽しかったですよ」


 マルクは気さくに笑った。


 ソーシは一拍置いてから、ふと思い出したように口を開いた。


「……そうだ。ひとつ、もしお心当たりがあればと思いまして……」


「ん?」


「実は今、我々は、培養肉の成形に関して難題を抱えておりまして……。

 それで、“トンポウ”という料理人を探しているのです。

 あなたのように、世界を巡り、食材を追い求めておられる方でして……。

 ご職業柄、もしかすると、どこかでお名前を耳にされたことがあるのでは、と……」


「トンポウ……?」


 マルクは少し考え込んだように言った。

「…あー、メディアに記事を書いたりしている……」


「そうです! まさにその方です。

 培養したミスト・ドラゴンの細胞の塊を“肉料理”として成形し直す試みに取り組んでおりまして……。

 しかしながら、その、食感や味わいの再現が、どうにも難しく……。

 もしトンポウ氏のような方にご助言を頂ければ、飛躍的な改善が望めるのではと考えております」


「なるほど…トンポウね」


 マルクは焚き火の残り火をじっと見つめたまま、

 やがて、静かに——それでもどこか愉快そうに——口元を緩めた。

「……な、何か……ご存じなのですか?」


 マルクは少し笑いながら言った。

「知ってるというか……トンポウは私です」


「……え……?」


「マルイマルクは本名で、トンポウはペンネームなんですよ。

 ほら、トンポウは顔出ししてないでしょ? だから、普段、人と直接会うときはわざわざペンネームのほうを名乗ったりしないんです」


 そう言って、マルクはバックパックの中から数枚の紙束を取り出す。

 それは、トンポウ名義で連載中の『肉肉世界探訪』の原稿だった。


「……こ、これは……まさか……あなたが……本当に……!」


 ソーシは言葉を失った。

 こんな偶然が、この現実にあるものなのか?

 だが、目の前の証拠がすべてを物語っていた。


「マルク殿……では、ひとつ、確認を……。

 その、ミスト・ドラゴンの肉を用いた伝統料理、“ボルミド”という料理をご存じでしょうか……?」


「ボルミド……ああ、スマル民の伝統料理ですね。食べたことありますよ」


 その答えに、ソーシの瞳がぱっと輝いた。


「やはり……! それならば、その、かねてより噂に聞いておりまして……。

“一度食した味は、生涯忘れぬ”と……それは、本当なのでしょうか?」


「ええ、もちろんです。

 ボルミドは、ミスト・ドラゴンの肉の独特な香りを活かした料理ですね。

 口元に近づけた瞬間、あの香りがふっと鼻腔をくすぐり、極めて簡素な味付けが、かえって肉本来の旨味を引き立てて……」


 ——いける。

 ソーシはその瞬間、確信した。


 そして、勢いに背中を押されるように、口が動いた。

「マルク殿……いえ、トンポウ殿! 

 我々の研究に……どうか、お力添え願えませんか?」


 少し間を置いてから、マルクは焚き火を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。


「ええ、もちろん。

 あなたがその情熱を注ぐ“肉”——私も料理人として、興味を惹かれました」


 そして、口元に愉快そうな笑みを浮かべて言った。


「一緒に、究極のお肉を作りましょう」

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