9話目

 かつては谷間に広がっていたミディアリアムは、谷の中央部を流れるセントラルリバーと共に、地殻変動と豪雨の猛威に飲み込まれ、水底へと沈んだのだった。現在のミディアリアムは、地上エリアと、水中エリアとに区画されていた。水中エリアは、水底に形成された空気の膜の中にある地区である。水中エリアへとたどり着くためには、地上エリアと水中エリアとを繋ぐ”地下回廊”を通る必要がある。


 ソーシは、国家経済省を辞めて、カイとともに、水中都市ミディアリアムを目指して、地下回廊に来ていた。そこはただの移動のための通路に過ぎないが、様々な目的を持つ人々が行き交う。地下回廊は、小さな街のような様相を呈するターミナル駅であり、ボランティア、建設業の人間、物流の人間がひっきりなしに訪れ、都市再建を目指す熱気が漂っている。ソーシは足を止めて見渡した。


「……これが今のミディアリアムなのだな…。皆、まだ立ち上がり続けている。羨ましいほど、まっすぐですな」


 洩らした独白はかすれていた。カイが言った。

「ああ、そうだな。人々の熱気を感じる。…ソーシは大洪水前のミディアリアムで研究をしていたんだったな。どんな研究をしていたんだ?」


 ソーシは一拍おいて、壁沿いの掲示板へ視線を流した。そこには〈ミディアリアムの建設員や追加ボランティアの募集〉の張り紙。紙片を指先でなぞり、ようやく口を開く。


「ええ…レギュ地方のウチニキール民の間で流行した“毒風”シンドロームという症状がありましてな。世界変容によりレギュ地方の大地が腐敗したのが原因とされている。腐敗した大地から排出された有害物質が風に運ばれ、皮膚が腐食し、内臓を痛めた患者が相次いだ……。私は、失われた身体を取り戻すための再生医療を志したのです。…自家細胞で筋組織や皮膚を再構築する方法を模索しておりました」


 カイは真剣な眼差しで頷いた。

「意義のある研究をしていたんだな。ソーシはそのレギュ地方出身なのか?」


「いえ、私の出身はダイエンでして」


「そうなのか。それなら、なぜレギュ地方の人間のための研究をしていたんだ。何かしら関係があったのか?」


 ソーシは少しだけ笑った。自嘲でもあり、諦めでもなく、遠い過去を見据えるような表情だった。

「そう、ですなあ…。私にはレギュ地方との接点はありませんでしたが、“関係がない”などということはないのですよ、カイ殿。私はダイエン生まれのデカール民であり、この国の主要民族のひとり。世界の形を決めるのは、いつだって我々のような多数派の人間の選択なのです。ただ、その結果起きる”世界変容”は我々に降りかかるとは限らない。その歪みは辺境の人々に皺寄せとなって現れる…。これを無縁とするのは、現実が見えていない愚かしさに通じますな。少なくとも、昔の私は、そう考えていたのだ…」


 カイは眉を寄せ、しばし黙ったのちに小さくうなずいた。

「……そういう考え方も、あるんだな」


 やがてカイとソーシは”地下回廊”を抜け、微かな光が差し込む出口へとたどり着いた。その瞬間、二人の目の前には異様にして荘厳な光景が広がった。水中エリアは広大な室内空間となっており、その外側を濁った水が覆っている。まるで巨大な水の宮殿の中に迷い込んだかのようだった。頭上を見上げると、淡い褐色の天井を通してセントラルリバーから流れ込んできた水中生物たちが神秘的に揺らめく影を落としている。


「まるで夢の世界のようだな……」


 カイが呟くとソーシも頷きながら小さな笑みを浮かべた。静寂の中、二人の前に広がるミディアリアムの水中エリアは、古の面影と新しい命の息吹が入り交じり、不思議な世界観を醸し出している。まるで水族館のように静かだが、確かに人々に息づく都市の一部であるのだと感じさせた。


 水中エリアの中は場所により高低差があり、特に最も低いエリアはエアーバブルテクノロジーによって空気の膜が形成される前に完全に浸水してしまったため、現在でも復興が続いていた。一方で、他のエリアは比較的被害が少ない。共同ラボのある「ラボパーク」は高台にあり、被害は比較的少なかったようである。


 ラボパークは、ラボやオフィスが集積する研究開発用の施設である。ラボパークの入り口には事務局があり、そこで受付が行われていた。


「お名前とご要件を伺えますか?」


 事務局員にそう尋ねられ、カイとソーシは並んで名乗った。


「私がカイ。こっちがソーシ。以前にも連絡したんだが、ラボを利用できるかどうか相談したくて来たんだ」


「ラボ利用の相談ですか? えーと、共同ラボの…?」


「ああ」


「分かりました。少々お待ちを…。ビンゲンさん、カイという方が共同ラボの件で…」


 受付係がビンゲンという人物に連絡をすると、しばらくして事務局の奥から別の事務局員が姿を見せた。


「お待たせしました。ビンゲンです。ああ、カイさん、共同ラボの件ですね。分野はバイオでしたか?」


「そうだ」


「分かりました。通信連絡でもお伝えしましたが、…バイオ分野の施設は…直接の浸水は免れたのですが、いろいろ影響があって、部分的に修理か、あるいは設備の入れ替えが必要でして、今は使えない状態なんです。うちに所属していた研究グループの予算で新規導入した設備が多いのですが、その研究グループはもう解散して他に移ってしまっていて、設備が放置されているんですよね。ですので、一度状態を見てもらうのが良いかと…」


 ソーシは落胆した表情でカイを見ながら言った。

「ふむ…使えない状態の場合、やはり研究予算を引っ張ってこれないとどうにもならないようですな」


 そんなソーシを尻目にカイは質問を投げかける。

「もし私たちが修理できれば設備を使っても良いか?」


「もちろん。修理できるようでしたらそれは構いませんよ。我々としてもそれで困ることはないですから」


「分かった。それから…共同ラボ含め、研究オフィスの賃料はかからないという話だったな」


「はい、我たちの基本精神は学術振興ですから。施設の維持管理などの間接経費はラボパークの運営費で負担いたします」


「それはありがたい」


「それと学術振興に関してですが、共同ラボをご利用いただく皆さんには、学術振興の一環として、知識の共有化に協力していただいております」


「知識の共有?」


「ええ、研究内容や成果の公表、論文、講義開設、データ登録など、いずれかの形で構いません」


「…研究成果を、公開する? そんなことをすれば、他人に利用されてしまうんじゃないか?」


ビンゲンは怪訝そうに首を傾げたが、ソーシが慌てて間に割って入った。

「カイ殿、それは……まあ、私の理解では、アカデミアではごく普通のことではないかと……公表してその成果を利用し合うことこそを学術振興になるのですぞ」


「それは分かっているんだが…」


「アカデミアでは互いに情報共有をし合うことでフリーライダーは排除されるもの。情報公開の文化は我々にも利があるかと…」


「研究領域でやっていた時はそれでよかったんだが、懸念しているのは、これからは私たちの研究はいずれビジネスに繋がるものだということだ。ビジネスにおいて、知識は価値を生み出す源泉。知識を誰でも知ってる状態にしてしまっては価値がなくなる。私は、将来的には、特許を取って、研究から製品開発まで一貫して自前の資源を活用することで競争優位を維持することを考えている。だから、研究成果は独占状態にしておくべきなんだ」


 ソーシは肩をすくめ、やや言いづらそうに口を開く。

「確かに、全てをそのまま公開してしまえば危険です。しかしながら、全てを囲い込んでしまうのが…常に得策とは限らぬのでは……。カンパニーは特許を“戦略的”に使うもの。つまり、核心部分――製品化に直結する技術は特許で守り、周辺の知識や検証結果は公開する。そうすれば学術都市の規則に従いながら、競争の優位性も確保できます」


 カイは無言でソーシを見つめた。胸の奥に渦巻く疑念と、理屈としての正しさがせめぎ合う。

 やがて深く息を吐き、低く答えた。

「……分かった。全部を囲い込むのは得策じゃない、か。守るべきものを特許で固めれば、公開も利用できる。具体的な整理に関してはまた相談させてくれ」


 ソーシは安堵の表情を見せ、小さく頷いた。

「ええ。それが現実的な折り合いでしょう」


 カイはビンゲンへ向き直り、短く告げる。

「……条件は理解した。一度、設備の状態を確認させてほしい」

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