7話目

 国家食衛局の会合を終えた数日後、カイは再び首都ダイエンの国家経済省を訪れていた。ソーシから「緊急で話がある」とだけ告げられたためだった。カイは省庁の広いロビーに一人立っていた。

 やがて、ソーシが姿を現した。その顔を見た瞬間、胸の奥がざわついた。無表情を貼りつけた仮面のような顔――その仮面が、今日は外れていた。

「……申し訳ない」

 押し出されるような低い声だった。

「内定が……取り消されました」

 その言葉は、どこか遠くの音のように、カイの耳に届いた。あの日の安堵の気持ちが、砂の城のように崩れ落ちていく。

 だが、カイは驚くほど静かだった。

「理由は……?」

 カイの声は震えていなかったが、絞り出すようだった。


 ソーシは、唇を噛み、言い淀んだ。

「私にも…詳しいことは分かっていません。貴族議員の一人が、“重大な違反”があったとして、承認を取り消しました。…私は、何度も確認に行きましたが、門前払いで……やっと面会できたと思ったら、具体的な内容は結局教えられないと言われ…」

 少し間を置いて、ソーシがさらに口を開いた。

「……これは根拠のある話では全くないのですが…ただ、議員の秘書から内々に聞いた話では…その議員はエルハント・カンパニーのダンバー氏と古くからの関係だそうで…。昨日にも面会があったとか。エルハント・カンパニーは今の食肉産業の……最大手ですし、会合でのこともありますから、その…」


 ダンバー。その名を聞いた瞬間、カイの胸の底に封じ込めていた感情が、ゆっくりと呼び起こされた。怒り。悔しさ。疑念。だがそれらは、激しい感情として吹き上がることはなかった。冷たく、深く、沈殿していく。そうだ。あの人ならやるだろう。それができる人間なのだ。

 自分の“計画”の障壁になることは分かっていた。ただ、ひとつ深く息を吸う。

「……そうか」

 ひとことだけ返して、目を閉じる。

「仕方ない。——別の方法を考えよう」

 そう呟いたカイの声は、怒気に満ちていたわけではない。ただ、何かを深く、強く、握り直すような、静かな力を孕んでいた。


 だから言っただろう。ダンバーに喧嘩を売ったせいだ……これが現実というものだ——そんな言葉がソーシの頭をよぎった。これまでならそう言っていただろう。だが、その言葉は喉の奥で凍りついた。ソーシの胸の奥に、黒く濁った感情がせり上がっていた。


――なぜだ。


 不採択になったのはカイだ。それなの、胸の内側で抑えきれない重苦しさが広がっていく。

 他人の挫折に自分を重ね、皮膚の下に潜り込んでいた自分の無力感が、カイの言葉に触れて内側から裂くように滲み出ていた。

 そのことに気づいた瞬間、ソーシは息を詰まらせ、声を失った。


「これまでありがとう。礼を言う」

カイはソーシにそう告げるとその場を立ち去った。うまく言葉が出てこないまま、ソーシはカイを見つめていた。


 ーーー

 

 そして、採択結果の公布日が来た。宣言されていたとおり、公式文書には「不採択」の文字が淡々と記されていた。長い審査をくぐり抜け、内定通知まで辿りついた末の、この結果だった。

 カイの胸には、重く冷たい塊のようなものが残った。だが、沈みきることはなかった。諦めの悪い自分の性分が、またゆっくりと顔を出してきていた。

 もともと、この貴族財団の助成金が唯一の頼みの綱だった。それを失った今、研究開発の資金の目処は何も立っていない。——ならば、他の方法を探すしかない。立ち止まる理由も、立ち止まれる余裕もなかった。


 その日からカイは、再び資金調達の可能性を探るため、図書館に通い始めた。カイにとって図書館はアイデアの宝庫であった。棚には、政府系助成金の実務書、公的制度の解説書、さらには民間ファンドの研究、寄付文化に関する社会学的論考まで、分野をまたいだ資料が無数に並んでいる。


 カイは閲覧室の長机に何冊もの書籍や雑誌を積み上げ、一つひとつページを繰りながら、資金調達の糸口を探っていた。例えば、慈善事業の資金調達には、個人や財団などの法人からの寄付や、慈善事業を行うカンパニーのスポンサーなどが挙げられていた。


 研究への適用可能性はあるか。資料の中に埋もれるようにして、カイは黙々と読み、考え、手帳にメモを取り続けた。図書館の空調音と、ページをめくる紙の音だけが、時間の経過を告げていた。


 カイが手元の資料を読み終わり、積み上げた資料の山に視線を移しかけたとき、すぐ近くで誰かの声が小さく割れた。

 「……ここ、私が使っていた席でして……」

 その言い方は、遠慮がちで丁寧なものだった。

 続く声は強かった。

 「は? 空いてたから座っただけだが」

 カイはちらりと横を見る。二つ隣の席で、小柄な人物が立ち尽くしていた。細縁の眼鏡に、淡いグレーのシャツ。その相手は、恰幅のいい若い人物で、いかにも不機嫌そうな顔をして、椅子にどっかりと腰を下ろしていた。

 「……資料も置いていましたし……」

 「知るかよ。そんなの、椅子をとられたくなきゃ張り紙でもしておけっての」


 周囲の閲覧者たちは気づかぬふりをして目を伏せている。館員の姿もない。小柄な人物の声がかき消されそうになっていた。


 少し前、確かにその小柄な人物がその席に座っていたのをカイは見かけていた。資料に目を通し、何度もページを行き来しながらメモを取っていたのを、カイの視界の隅はしっかり捉えていたのだ。机の上には今も読みかけの資料が開かれたままだ。

 だが、相手はそれを無視して声を荒げ、椅子から腰を浮かせてきた。あきらかに喧嘩腰だ。


 カイは立ち上がって言った。

「その人がその席を使っていたのは確かだ。私も見ていた。資料も置いてあるし、席が空いていたというのは無理があるんじゃないか?」

 静かに、だがはっきりと声を出す。声が落ちた瞬間、空気が張り詰める。


 若い男は外野からの声に一瞬驚き何か言い返しかけたが、周囲の視線に気づいたのか、舌打ちして椅子を引いた。

「……ちっ、めんどくせえな」

 そう吐き捨て、男はその場を離れていった。


 小柄な人物は、しばらく口を閉ざしたまま立ち尽くしていたが、やがて静かに頭を下げた。

「……助かりました。ありがとうございます」


 カイは軽く会釈を返した。

「いえ、おかしいのはあっちの人だと思っただけで」

 そう言ってカイは席に座り直そうとしたが、相手の机の上にある雑誌に記載されていた文字にふと目が引き寄せられた。


「寄付の未来を切り拓く──先進事例に見る実践と成果」


 思わずカイの手が伸びる。

 それは、『ノンプロ』という、主に貴族などの慈善事業に関するトピックを扱う月刊誌で、その号には、慈善事業団体の先進的な資金調達に関する特集として、各団体のインタビュー記事が載っていた。この国の貴族にとって慈善事業を行うことはステータスのひとつである。このような雑誌に載ることは名誉にもなりうる。

 カイが雑誌の目次に目を通していると、相手が声をかけてきた。

「…内容に興味があるんですか?」


 顔を上げたカイは、少し戸惑ったように雑誌を閉じる。

「え?」


 相手は眼鏡を押し上げながら、慎重にカイを見つめていた。柔らかな口調の裏に、相手の言葉の真意を測ろうとする気配が漂っている。

「慈善事業とか寄付とか。そういう関係の仕事をされてるんですか?」


「いや、自分は慈善事業団体じゃなくてカンパニーを設立したんだが、資金調達がうまくいってなくて、それで何かヒントがないかなと他業種のことも調べてたんだ」


 カイは雑誌を軽く振って見せ、少し息をつくように言った。

「カイだ。あなたは?」


「私はワシノと言います。なるほど、カンパニーですか…」

 ワシノはにこやかに名乗り、胸ポケットから名刺を差し出した。

「ジカーノっていう環境保護関連の慈善事業団体に所属しています。環境保護の仕組み作りに向けた調査や政策提言、ワークショップなどの教育・啓発をやっています。知人が今回の特集記事でインタビューを受けてて、それで記事を読んでたんです」


 カイは名刺を受け取りながら問い返した。

「知人…。その知人というのは、どのトピックの人か教えてもらえるか?」


「ええ、ハイゲラって人です」

ワシノの声に、わずかな敬意が混じる。

「この人は慈善事業団体所属じゃなくて、貴族議会の議員なんですけど。結構前に学術都市ミディアリアムが“世界変容“のせいで水沈してしまったでしょ? ハイゲラさんは、あの都市の復興に関わった中心人物なんですよ。復興のための資金集めとか支援制度の話が特集されてて…」

ワシノは記事のページをめくり、指先で印刷された名前を示した。

「今では“世界変容“のせいで人が住めなくなった地域も多くて、そうなると多くの場合、貴族の方はその土地を捨てるか一緒に没落しちゃうかのどちらかなんですが、その中でハイゲラさんは自治体の復興を整備したりしているんです」


カイは素直に感嘆の声をもらした。

「立派な人なんだな」


「ええ、そう思います」

ワシノはうなずき、ふと視線を戻した。

「ちなみに、あなたはどんなカンパニーをやってるんですか?」


カイは少し考えてから、まっすぐに答える。

「動物から採った細胞を培養して食肉として販売する事業をやろうと思っている」


 カイは簡単に事情を説明し、培養肉の技術や資金調達が難しい事情等を語った。

ワシノは真剣に耳を傾け、時折うなずきながら、細部を理解しようとする。

「なるほど。動物の細胞を動物から取り出して生体外で人工的に増やす。その方法なら動物を殺さずに食肉を供給できるようになるってことなんですね」

ワシノは腕を組み、少し間を置いてから問いかけた。

「…一つ気になるんですが、これはビーガンの人でも食べられるんでしょうか? 技術的な説明を聞いた印象では、動物を殺さないとはいえ、細胞は動物由来というふうに理解したのですが」


カイは視線を落とし、慎重に言葉を選んだ。

「そのとおりだ。厳密な定義に従うビーガンなら、“動物由来”という時点で受け入れられないはず。でも、動物を殺さないことに重きを置く人たちなら、倫理的に許容してくれる可能性はある」


ワシノは小さくうなずいた。

「なるほど…。それなら、“肉を減らしたいけどゼロにはできない人たち”――フレキシタリアンや環境志向の層に届く可能性が高いということですね」

ワシノは納得と同時に思案の表情を浮かべる。

「環境保護の観点でも可能性がありそうというのは興味深いです。何か私にもできることがあれば、協力させてください」


カイは少し目を細め、真剣な態度を返した。

「ああ、ありがとう。何かあればお願いするよ」


「それから、資金調達ですが…」

ワシノは前のめりになり、さらに話を続けた。

「地方都市の施策などは確認しましたか? 大きな予算はないですが、ジカーノも地方都市と組んで環境プロジェクトをやった実績はありますし、そのときは、寄附と行政の予算でやることができました。都市ごとに活動場所の提供や地域連携を積極的にやってたりもしますよ」


「地方都市の施策・・・なるほど、確かにちゃんと調べてみたことはなかったな」

カイは少し驚いたように言葉を返し、心の中で新たな道筋を思い描いていた。

「ありがとう。調べてみるよ」


 ーーー


 ワシノと別れたあと、カイはミディアリアムについて調べた。

 ミディアリアムは、学術都市として国際的にも有名で、様々な分野で活躍するラボがあった。ただ、数年前に“世界変容“の影響で大洪水に襲われ、都市の一部が水中に沈んでしまった。地方貴族のひとりであるハイゲラ議員が私費を投じたり、寄付金などを集めて、都市復興に尽力した。そして、ミディアリアムは、エアーバブルテクノロジーという、特殊な気体を注入することで水中に空気の膜を形成する技術を応用して、水中に都市を覆う巨大な空気の膜を設置することに成功した。現在は水中都市として都市機能を復活させて現在進行系で復興中ということであった。

 ミディアリアムについて一通り調べたカイは先ほどまでの絶望が少しだけ薄れ、再び身体に希望が満ちていくのを感じた。

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