第40話 過去からの刺客
美濃を平定した信長は、新たな居城となった岐阜城で、祝宴を開いていた。広間には、織田家の家臣たちが集い、稲葉山城を無血で陥落させた信長の才覚を称えていた。広間に満ちる伽羅の匂いは、美濃の山奥から運ばれてきたものだろうか。その甘く、どこか退廃的な香りは、家臣たちの安堵と喜びを映し出していた。琵琶や箏の雅な音が響き渡り、舞を舞う女性たちの絹の衣擦れが、華やかな雰囲気を醸し出す。酒が注がれ、盃に映る蝋燭の揺らぎが、家臣たちの顔に淡い光を落とす。誰もが、血を流すことなく美濃を手にできたことに、安堵の息を漏らしていた。
だが、信長は、ただ静かに、酒杯を手にしていた。彼の表情に、一切の感情はなかった。
(この安堵は、一瞬の幻影に過ぎぬ……)
信長は、そう心の中で呟いていた。彼は、天下統一の道が、孤独で険しい修羅の道であることを、誰よりも知っていた。その道には、過去の怨念や、古き「誉れ」に縛られた亡霊が、いつまでも立ちはだかるのだ。
祝宴の最中、一人の武士が、信長に近づいてきた。彼の顔には、かつて斎藤家と争った戦で受けたのであろう、深い刀傷が刻まれており、その瞳は、信長への憎悪を宿していた。
「信長……! 道三様を討った義龍、そしてその義龍を滅ぼした貴様……! 貴様のような卑怯な手で、天下が取れるものか!」
武士は、そう叫ぶと、刀を抜き放ち、信長へと斬りかかった。彼の刀からは、乾いた土と、錆びついた鉄の匂いが漂ってくる。それは、斎藤道三に忠義を尽くし、信長との戦で命を落とした家臣たちの、血の匂いだろうか。武士の心臓が、まるで怒涛のように激しく脈打つ。
(なぜだ…! 道三様を討った義龍も許せぬ! だが、その義龍を討った信長もまた、道三様の遺志を継ぐ者ではない! この恨み、晴らさずには…!)
信長は、その一撃を、静かに、しかし確固たる意志を宿して、かわした。信長の刀は、武士の喉を、一突きにする。
武士の体から、力が抜けていく。彼は、信長を見つめ、静かに、しかし確固たる意志を宿して呟いた。
「信長……いつか、お前も、過去の怨念に……」
武士は、そう呟くと、信長の足元に倒れた。彼の瞳は、信長への呪詛を宿したまま、虚空を見つめていた。
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武士の最期は、祝宴の空気を一変させた。楽器の音は止まり、舞を舞っていた女性たちは、悲鳴を上げ、広間を逃げ惑う。酒と料理が飛び散り、華やかだった広間は、一瞬にして、血と死の匂いに満ちた修羅の巷と化した。飛び散った酒が、武士の血と混じり合い、畳の上に不気味な模様を描く。
家臣たちは、恐怖に顔を歪ませ、信長の冷徹な「理」に、ただ従うことしかできなかった。血に濡れた畳が、祝宴の残り香と、死の匂いを吸い込んでいく。
「犬千代、藤吉郎、兵たちを整えよ」
信長の声が、静かに、しかし確固たる意志を宿して、広間に響き渡る。
犬千代は、信長の言葉に、無言で頷いた。彼の心臓は、トク、トク、と、不吉な音を立てる。だが、その音は、信長が目指す「天下布武」という、冷徹な「理」への共感と、彼にしか見出せない「未来」への期待が、彼自身の内部で葛藤している証拠だった。彼は、信長の「理」を理解し、その実現に命を賭ける、信長という絶対的な存在の「犬」であることに、誇りを感じていた。
藤吉郎もまた、信長の言葉に、心の奥底で震えていた。信長の非情な裁きを目の当たりにし、次は自分が裁かれるかもしれないという恐怖と、それでも「若殿の理」が正しいと証明したいという、成り上がり者としての自負が、彼の心臓を激しく揺さぶっていた。彼は、信長という、巨大な理想を前に、自分の野心と不安がせめぎ合っているのを感じていた。
信長は、静かに、しかし確固たる意志を宿して、呟いた。
「天下布武……この理想を成すには、過去の遺物、古き伝統、そして、形だけの忠義など、全てを切り捨てねばならぬ。それが、この国の、新たな夜明けを創るための、必然なのだ」
信長の言葉は、まるで氷のように冷たかった。彼は、武士が重んじる「誉れ」や「忠義」が、天下統一の邪魔になることを知っていた。
祝宴の残り香が、広間の隅々にまで漂い、血に濡れた畳は、信長軍が歩む、孤独な修羅の道を象徴しているようだった。
その頃、城下の民衆は、遠くから聞こえる城の喧騒と、突然の悲鳴に、恐怖と不安を抱いていた。
「な、なんだ? 城から悲鳴が聞こえたぞ」
「いくら無血で城を落としたからといって、所詮は信長様も武士。血を流すことには変わりないのかね…」
彼らは、信長が、血を流すことなく美濃を平定したことに、かすかな希望を抱いていた。だが、城から聞こえる悲鳴は、彼らの心に不吉な影を落とし、信長の「天下布武」という理想が、自分たちの生活に、どのような影響を及ぼすのか、その期待と恐怖が入り混じっていた。
夜空には、凍えるような月が一つ。信長は、一人、天守に残り、夜空に浮かぶ月を見つめていた。夜風が、信長の冷たい横顔を撫でる。彼は、人なのか、鬼なのか、それとも、ただただ、新しい世界を創造する「理」の化身なのか。誰も、その答えを知らなかった。
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