第15話 風雲急を告げる

清洲城の門が重々しい音を立てて開く。その門番の手が緊張で震え、鍵を一度落とす。乾いた音が周囲の空気を一瞬張り詰めさせた。信長の軍は、静かに、しかし確固たる意志を宿した目で、今川領へと向かっていく。槍の穂先が朝日にきらめき、足音が石畳を震わせ、城門の蝶番が軋む。馬のいななきが遠くから聞こえてくる。


(ああ、これが、若殿が作り上げた軍か…)


勝家は、その軍の先頭に立ち、馬上で静かに目を閉じた。耳に届くのは、足軽たちの泥濘を歩く音と、鎧の金具が擦れる音だけ。私語はない。互いを信じ、互いを頼り、ただ黙々と前へ進む。それは、勝家がこれまで見たことがない、異様な統率力だった。


勝家の脳裏には、亡き父の言葉が蘇る。


『勝家、武士とは、正面から敵に立ち向かうものだ。決して、卑怯な手を使ってはならぬ』


だが、信長は違う。彼は、流言と裏切りを使い、敵を内側から腐らせる。それは、武士の誉れを重んじる勝家にとって、到底受け入れがたいものだった。しかし、この軍の規律と統率力は、信長の非情なやり方によって、作り上げられた。


(若殿の道は、俺の道とは違う。だが、この道が、この尾張を救う道だというのか…)


勝家の心臓は、重い鉄塊のように胸の奥で沈んでいた。手にはじっとりと汗が滲み、刀の柄を握る指先が滑る。唇は乾き、無意識に舌で湿らせた。武士の誉れと、信長の理想。その二つの道が、彼の心の中で激しく衝突していた。


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その日の午後、信長は清洲城の天守から、自らが創り上げた軍を眺めていた。城下には、槍の素振りに励む兵たちの姿。遠くからは馬の嘶きが聞こえてくる。賑わう町並み、広がる田畑。そして、その一角では、汗を流しながら米俵を運ぶ農夫の姿が見えた。彼らが背負うのは、武士の誉れではなく、日々の暮らしの重みだ。それらすべてを、この手で支配しているという感覚が、信長の心を満たしていく。


(この軍は、俺が作った。腹を満たし、魂を磨き、そして、規律という名の鎖で繋がれた、俺だけの軍だ)


信長の脳裏に、壬生での日々が蘇る。近藤さんを陥れたのは、正面からの戦いではなかった。噂と流言、そして内部からの裏切りだった。あの時、俺は、何もできなかった。ただ、近藤さんを失い、悲しみと、そして、無力感に打ちのめされた。焚き火の燃える音だけが響く、冷たい夜だった。あの、胸の奥を抉られるような無力感を、信長は二度と味わいたくなかった。


(だが、この時代では、違う。俺は、もう二度と、大切なものを失いはしない)


信長の瞳は、氷のように冷たかった。彼は、この軍を、己の理想の元に、作り変えようとしている。それは、この国を、そして、この時代を、己の理想の元に、作り変えるための、第一歩だった。


「犬千代、藤吉郎、兵たちを整えろ」


信長が静かに命じると、犬千代は冷徹な眼差しで、兵たちに細かく指示を飛ばし始めた。その一方で、藤吉郎は興奮した面持ちで頷きながら、心の中で固く拳を握りしめた。


(今度こそ、若殿に認められる功を立ててみせる!)


「今川領へ、出陣する」


その言葉に、二人の顔に緊張が走った。それは、信長からの、絶対的な命令だった。


---


清洲城の門が、重々しい音を立てて開く。信長の軍は、静かに、しかし確固たる意志を宿した目で、今川領へと向かっていく。槍の穂先が夕陽に赤く染まり、足音が石畳を震わせ、城門の蝶番が軋む。行軍する兵士の中で、ある兵士が懐から家族の手紙を取り出し、そっと胸に仕舞い込む。遠くで犬が一声、吠えた後、遠くの村から太鼓の音が鳴り響き、戦の始まりを告げる。


(今川義元、奴は、俺を愚弄し、我らの結束を乱そうとしている。だが、その愚かさが、奴の命取りとなろう)


信長の脳裏に、今川義元の顔が浮かんだ。彼は、信長の「うつけ」という噂を信じ、油断している。その油断こそが、信長が欲した、勝利への道筋だった。


「勝家殿、貴殿には、軍の指揮を執ってもらいたい」


信長の声が、勝家の耳に届く。勝家は、信長の顔を見つめる。そこに、信長が何を考えているのか、読み取ることはできなかった。


「若殿、あのような策は、武士の誉れに反しまする。正面から戦い、勝利を収めるのが、武士の道では…」


勝家の言葉に、信長は静かに笑った。


「勝家殿、誉れで腹は膨れぬ。裁きだけが魂を縛るのだ」


信長の言葉は、まるで氷のように冷たかった。


夕暮れの空が、黒漆の鞘に、鈍色の光を映していた。風が、砂利をさらい、まるで戦場を先に掃除しているかのようだった。


すべては、ここから始まるのだ。

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