4・見知らぬ「男」と出会う朝(1)
「この辺にもクマが出るかも知れない」
「クマ?」
茉莉花は首を傾げ、焼いた目玉焼きを彼の皿の上にある千切りキャベツを敷いたトーストの上に乗せる。
今日は黒い襟が付いたベージュの膝下丈のワンピースを着て、白と黒のストライプのエプロンを付けている。
長い髪は黒のシュシュで緩く纏めていた。
「昨日も行ってみたらクマだった。あの辺はウチの周りと似たような山が近い住宅地だからな」
「ニュースで言ってたクマに遭遇した獣撃隊って兄さんたちだったんだ。ウケる」
「ウケるって……クマ相手だと俺たちは反撃出来ない。下手したら死ぬ」
昨日の晩は険悪だった茉莉花と真斗だが、一夜明けたらお互い何事もなかったかのようにいつも通りに接している。
二人とも翌日に怒りを持ち越さないタイプだ。
寝て起きたら大抵のことは自分の中でリセットされる。
そう言う血筋なのか
真斗は六枚切りのトーストに乗せた目玉焼きに中濃ソースをかけ二つに折った。
朝食はこんな感じで雑なホットサンドのようにして食べている。
目玉焼きの時もあれば玉子焼きの時もある。夕飯で余ったポテトサラダを挟むこともある。
茉莉花は真斗の向かいに座る彗斗の千切りキャベツと昨日の余った南蛮漬けが二切れ乗った皿にも目玉焼きを乗せる。
彼女はトーストに苺のジャムを塗って食べる。おかずは別だ。
「
彗斗はそう言いながら目玉焼きに塩胡椒を振りかける。
並べてある三つの皿に残りの目玉焼きをそれぞれ乗せ、茉莉花はまた首を傾げながら言う。
「出るかなぁ。野良猫や踏んだら消せそうなザコのヨモツも出るけど。あとたまにタヌキ」
「そー言えば最近見ないな、野良とタヌキ」
「それってもしかして、すでにクマの行動圏内ってこと?」
茉莉花は「ヤバいな」と顔を顰めた。
「いいか、万が一クマを見たら警察に通報しろ」
真斗は茉莉花にそう念を押すとトーストを頬張り、それをコーヒーで流し込む。
「わかってるって。兄さんとこには無駄手間取らせません」
「絶対に刺激するな。通報は屋内に退避して身の安全を確保してからだ」
「はいはい。ヨモツと同じね」
フライパンをコンロの上に置き、茉莉花は洗面所に向かった。
洗濯機から洗い上がった洗濯物を取り出し、二人が朝食をとっている間に外に干す。
今日も日差しが強いので昼過ぎには乾くだろう。
歯磨きと身支度を終えた真斗と彗斗に作った弁当を手渡し、玄関から送り出した後に台所へ戻る。
流し台でフライパンを洗っていると、背後にある廊下と繋がっているドアが開く音がした。
振り向くと
寝巻きにしている黒いTシャツにグレーのスウェットを着ている。
今さっき起床したようで、朝食をとりに二階から降りてきた。
九郎は寝起きが良い。
毎朝、無表情だが心なしかスッキリした面持ちでダイニングにやってくる。
ところが今朝は様子が違った。
伏し目がちで何処か湿っぽい表情。
しょぼくれた犬のように見える。オオカミのくせに。
「……昨日はごめん」
九郎は視線を落としたまま、小さな声でそう言った。
「は?」
突然謝られ茉莉花はポカンとした顔で彼を見る。
「……別に怒ってたわけじゃない。嫌な思いさせて悪かった」
視線を少し上げ九郎は続けてそう言うと、頭を下げる代わりにまた軽く目を伏せる。
「静か」と言うようも「頼りなさげ」な声と表情。
彼は一体何を謝っているのか。
茉莉花は視線を泳がせながら昨晩のことを思い起こす。
心当たりがある光景――居間から黙って出て行った九郎の背中がぼんやりと脳裏に浮かんだ。
――兄さんとやり合ってて、そんなことすっかり忘れてたわ。
茉莉花は昨日の晩、九郎が彼女を無視して居間から出ていったことを忘れていた。
その発端となった彼の髪をいじっていた事すら忘れていた。
気持ちの切り替えが早い茉莉花や他のきょうだいたちとは違い、九郎は何かと引きずるタイプだ。
特に「相手に対して悪いことをしてしまった」と感じたことに対して。
相手が自分の言動を気にして傷付いているのではと、自分の方が気にして落ち込む。
彼の優しさがそうさせているのだが、寝て起きたら感情がリセットされる茉莉花には正直それが面倒臭いなと感じる。
「気にしてないし……元はと言えば悪いのは私だし」
忘れていた自分の方が悪いような気がして、茉莉花はバツが悪そうに目の前に立つ九郎から視線を逸らす。
「髪いじられたの、怒ってはないけど嫌だったわけでしょ?」
「……ああ」
「昨日一応謝ったし、もうこのことはおしまい。もう髪触ったりしないから。結びたくなったら一人でやって」
「……わかった」
九郎は頷いたが、まだ気落ちしている様子で軽く目を伏せている。
言い方が少し冷たかったか。
面倒くさいなと思いつつも、このまま放っておくのも心苦しい。
茉莉花は少し眉を下げて息を吐き、顔を上げた。
「上手く出来ない時は言ってよ。結び方のコツ、教えてあげる」
快活な口調で九郎にそう言うと、彼女は琥珀色の目を閃かせて微笑んだ。
もう昨日のことなんだから。気にしてもしょうがない。
私は全然気にしてないから、あんたも早く
そう言って引き寄せるような彼女の笑顔を見て、九郎はようやく顔を上げる。
差し伸べられた手を取るように、彼も少しはにかむように笑った。
よしよしと頷きながら茉莉花はふと思った。
――悪いけど確かに「犬」だよな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます