干すまでが洗濯

Algo Lighter アルゴライター

序章

「おかえり。おつかれ」

「ただいま。…疲れたね」


玄関のドアが閉まる音は、一日の終わりと、第二ラウンドの始まりを告げるゴングだ。保育園の帰り道でぐずり倒した娘のいとを抱きかかえ、紗季(さき)はリビングの電気をつける。陽太(ようた)はスーパーの袋をどさりとキッチンカウンターに置いた。


そこまでは、いい。問題は、いつもこの次の一言だった。


「紗季、おつかれ。何か手伝うよ。何すればいい?」


陽太の声は、優しさでできている。悪意なんて一ミリもない。百パーセントの善意と、ほんの少しの疲労で構成されている。


だからこそ、紗季の心に小さな棘が刺さるのだ。


(手伝う…か)


この家は、私たちの家だ。家事も育児も、二人で運営するプロジェクトのはず。そこに「手伝う」という言葉が入り込む余地は、本来、ない。


(何すればいい?…か)


その質問が、一番しんどい。

紗季の頭の中には、今この瞬間、やるべきタスクがガントチャートのように展開されている。夕食の下ごしらえと調理。いとの手洗いとうがい。保育園バッグから洗濯物を出す作業。昨日取り込んだままの洗濯物の山。お風呂の準備。その合間に、床に散らばったおもちゃを拾い、郵便物を確認し、明日の天気予報をチェックする。


この複雑に絡み合った工程の中から、今の陽太にアサイン可能なタスクを切り出し、手順を説明し、必要な道具の場所を教え、完了の定義を伝える。そのコミュニケーションコストを考えるだけで、めまいがした。


結局、紗季はいつも一番簡単な答えを選んでしまう。


「ありがとう。じゃあ、いとと遊んでてくれる? 私、ごはん作っちゃうから」


「了解! いと、おいで!」


陽太はぱっと顔を輝かせ、いとを高い高いする。きゃっきゃと響く明るい声を聞きながら、紗季は一人、戦場と化したキッチンに向かう。


優しさだけでは、チームになれない。

愛情がないわけじゃない。むしろ、ある。それなのに、なぜ私たちは同じ空間で、違う景色を見ているんだろう。シンクに置かれたままの朝のマグカップも、ソファに丸まっている靴下も、陽太の景色には映っていないかのようだった。


この見えない壁を、どうすれば壊せるんだろう。


そんなことを考えていた、ある日の夜。

低い唸りを止めて、洗濯機が自信満々のメロディを響かせた。


『ピロロン』


それが、私たちの静かな革命の始まりを告げる合図だったとは、まだ誰も知らなかった。

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