第35話  淀みし水のほとり




長江の流れが緩やかになり、前方に江夏の堅牢な城壁と、活気と…そして見えざる緊張が入り混じる港が見えてきた。




劉備の率いる陸路の部隊が、ようやく目的地にたどり着いたのだ。


兵たちの間に安堵の空気が流れる中、孔明は涼やかな瞳で港の一角をじっと見つめていた。




そこには、約束通り、見慣れた旗が掲げられ、水軍の船が整然と停泊している。


船団が接岸しようとすると、桟橋で不動の如く待ち構えていた人影が、一行を認めてゆっくりと歩み寄ってきた。




劉備が馬から降り、その人物の元へ駆け寄ると、威風堂々たる将――関羽が力強く応えた。




「兄上! お待ちしておりました!」




張飛が喜びの声を上げるよりも早い、兄弟の再会であった。




「雲長! よくぞ務めを果たしてくれた!」




「はっ。兄上こそ、道中ご無事で何よりにございます」






関羽は深く一礼し、再会を喜ぶ兄の顔を見上げた。


しかし、その表情は硬く、目には鋭い警戒の色が浮かんでいる。


彼は、劉備の背後にいる孔明にも軽く目礼すると、声を潜めて報告を始めた。




「兄上、孔明殿。仰せの通り、水路を確保し、この船着き場の一角を我らの拠点として押さえております。兵たちを休ませる準備も整いました。…しかし」




関羽は一度言葉を切り、城の方へ鋭い視線を送る。




「城内の空気は、想像以上に淀んでおります。我らが到着して以来、蔡瑁の手の者たちが絶えずこの港を監視しており、探りを入れてきております。そして、劉琦様はやはり重い病に伏せっておられ、事実上、城の奥に幽閉されているとの噂がもっぱらです」




先に潜入し、肌で感じた江夏の危険な実情。


関羽の簡潔にして的確な報告は、隆中雀からの矢文の内容を裏付け、さらに生々しい現実として一行に突きつけられた。




「そうか…やはり一筋縄ではいかぬようだな」




劉備の表情が引き締まる。


その時、港の入り口から一団の役人たちが慌ただしくこちらへ向かってくるのが見えた。 その先頭に立つのは、柔和な笑みを浮かべた老将。




「あれが、蔡瑁の腹心、張允です」




関羽が小さく呟いた。




「劉玄徳様、お待ち申し上げておりました! このような港までお越しいただかずとも、城門にてお迎えいたしましたものを。私は、劉琦様にお仕えしております張允と申します」




張允は、まるで旧知の友を迎えるかのように親しげに語りかける。


だが、その目は関羽が確保した拠点と、精強な水軍の兵士たちを探るように見回していた。




(雲長が先にいなければ、我らはこの者たちの掌の上で、右も左もわからぬまま城に招き入れられていたであろうな…)




劉備は内心で弟の働きに感謝しつつ、仁君の仮面を崩さずに応じた。




「張允殿、出迎え大儀である。なに、弟の雲長が万全の準備で待っていてくれたのでな。まずは、甥である劉琦殿の見舞いをさせていただきたい」




劉備の言葉に含まれた「弟が万全の準備をしていた」という一言に、張允の眉が微かに動くのを、孔明は見逃さなかった。






江夏に着いて三日が過ぎた。




劉備と孔明は宿舎に籠り、表立った動きを一切見せなかった。


まるで嵐の前の静けさのように、ただ時が過ぎるのを待っているかのようであった。




しかし、水面下では、孔明が放った駒たちが静かに、そして活発に動き始めていた。






江夏城内の最も賑やかな酒場は、夜ごと怒声と笑い声で満ちていた。


その中心にいるのは、言うまでもなく張飛であった。




「さあ、飲め! 劉玄徳様のおごりだ! このくらいの酒でへばるような奴は、江夏の兵士とは言えねえなあ!」




銅鑼(どら)のような声で叫び、巨大な杯を呷(あお)る。


彼の周りには、すっかり意気投合した江夏の兵士たちが群がっていた。


最初こそ「劉備様の弟君」と遠巻きに見ていた彼らも、張飛の豪放磊落(ごうほうらいらく)な振る舞いと、湯水のように振る舞われる酒の前に、すっかり警戒心を解いていた。




「へへっ、張飛様は気前がいいや! それに比べて俺たちの上官ときたら…」


「おい、よせ! 聞こえるぞ」


「構うもんか! 蔡瑁様の一族だってだけで威張り散らしやがって。こちとら給金だって遅れてるってのによ!」




酔いに任せた愚痴や不満が、あちこちから漏れ聞こえる。


張飛はそれを聞きながら、顔には「酒好きの暴れん坊」という仮面を貼り付け、心の耳で一つ一つの言葉を拾い集めていた。




兵たちの鬱憤は、蔡瑁一派の縁者で固められた上層部へと向かっている。


それは、火種が燻(くすぶ)っている証拠に他ならなかった。




一方、糜芳は城の商人たちが集う一角にいた。


彼は高価な絹織物を手に、老練な商人と丁々発止のやり取りを繰り広げていた。




「ご主人。この光沢、この手触り、確かに一級品だ。だが、今の江夏でこれを捌(さば)くのは骨が折れるでしょう。何せ、米の値段がこうも上がっては、民は絹より粥(かゆ)を求めますからな」




糜芳の的確な指摘に、商人は渋い顔で頷いた。




「旦那、よくご存知で。まったくですよ。港の穀物倉は、蔡瑁様のご親戚である王(おう)氏が差配しているのですが、近頃、理由をつけては民への放出を渋っている。おかげで物価は上がる一方。我々も商売あがったりですわ」




商人としての経験が、糜芳に自然な会話の糸口を与えていた。


かつては自らの弱みとさえ感じていた「慎重さ」を、今は情報を冷静に見極める「洞察力」として巧みに使いこなしている。




前回の戦で得た自信が、彼を臆病な男から、老獪(ろうかい)な情報収集者に変えつつあった。






夜の闇に紛れ、趙雲は人気のない寺院の裏手で静かに佇んでいた。


やがて、一人の物乞いがふらりと現れ、彼の足元に黙って一枚の瓦を置く。


趙雲は懐から数枚の銅銭を投げ与えると、その瓦を拾い上げた。




物乞いが闇に消えた後、彼は瓦の裏に書かれた、鳥の足跡のような不可解な記号に目を通す。


それは隆中雀だけが解読できる暗号であった。


宿舎に戻った趙雲は、孔明の前に一枚の地図を広げた。




「軍師殿。隆中雀からの知らせです。城内の金の流れ、掴めてきました。商人たちから不当に巻き上げた金は、いくつかの屋敷を経由し、最終的にこの『王氏の屋敷』の地下蔵に集められている模様。そこから、蔡瑁派の将軍たちへ密かに渡っております」




趙雲が指し示した場所は、奇しくも糜芳が商人から聞き出した、穀物倉を差配する王氏の屋敷であった。






同時刻、城の実権を握る蔡瑁と張允は、劉備軍の動向について話し合っていた。




「張飛は毎夜、酒場で泥酔。糜芳とかいう元商人は市場をうろついているだけ。関羽は港で兵の調練に明け暮れ、動く気配なし。そして肝心の劉備と諸葛亮は、宿舎に籠りきり…。奴ら、一体何を考えているのだ?」




張允が苛立たしげに言う。


蔡瑁は杯を弄びながら、冷ややかに笑った。




「案ずるな。所詮は流れ者の集団よ。関羽の兵だけは厄介だが、港に封じ込めておけば問題あるまい。恐らく、劉琦の容態が急変するのを待っているだけだろう。その時が来れば、我らが弔い合戦の主導権を握るまでのこと」




彼らにとって、張飛の愚行も、糜芳の散策も、すべてが劉備軍が烏合の衆である証拠にしか見えなかった。


孔明の張り巡らせた蜘蛛の糸は、彼らの警戒網のすぐ下で、着実にその範囲を広げていることに、まだ誰も気づいてはいなかった。






深夜、孔明の部屋に、全ての情報が集約された。


張飛が持ち帰った兵士たちの生の不満。


糜芳が掴んだ市場経済の歪みとその元凶。


そして、趙雲が隆中雀を使い、金の流れという決定的な証拠を突き止めた。




点と点であった情報が、孔明の頭脳という盤上で、一本の線として繋がっていく。




「民と兵の不満は、物資と金の独占にある。その中心人物は、蔡瑁の縁戚である王氏…」




孔明は地図の上、王氏の屋敷が記された一点を、白魚のような指でとん、と軽く叩いた。


その瞳には、すでに次の一手、いや、盤面を根底から揺るがすための最初の一撃が、はっきりと映っていた。




「まずは、この淀んだ水に、一つ、波紋を広げると致しましょうか」




静かな呟きは、誰に聞かれることもなく、荊州の夜の闇に溶けていった。

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