第14話 三顧の礼 1  第一の来訪 ~器の度量を試す~



うららかな春の日差しが、芽吹き始めたばかりの若葉を黄金色に照らし、隆中の臥龍岡は生命の喜びに満ちていた。


小鳥のさえずりが空に響き、風は土の匂いを運んでくる。


だが、その長閑な風景の中心に佇む一軒の草廬、その主の心だけは、冬の氷に閉ざされたままであった。


諸葛亮(孔明)は、森の奥深く、劉備一行が登ってくる坂道を見下ろせる木陰に、息を殺して潜んでいた。


その姿は、獲物を待つ鷹のように静かで、一切の感情を殺ぎ落としている。彼の隣では、弟の均が落ち着かない様子で兄の横顔を見上げていた。




「兄上、本当によいのですか…私が、お留守だとお伝えして…」



「均よ。いかに優れた種であろうと、ただ土に蒔かれただけでは大樹とはならぬ。厳しい風雪に耐えてこそ、その根は強く張り、天を目指す幹となるのだ。…私自らが、彼らにとっての最初の『風雪』となろう。 この試練に耐え、なお芽吹くほどの覚悟があるか…この眼で、見極めてくれる」






やがて、坂の向こうから三人の人影が現れた。


先頭を歩むのは、大きな耳と長い腕を持つ、柔和な風貌の男。

劉備玄徳。

彼の歩みは、土地の者に敬意を払うように、一歩一歩が静かで思慮深い。


その左右を固める巨漢たちは、対照的だった。




一人は、見事な美髯を蓄え、鳳凰のような眼を持つ威風堂々たる男、関羽。その佇まいは、動かざる山のごとき風格を放つ。


もう一人は、豹のような鋭い眼光をぎらつかせ、全身から荒ぶる闘気を発する猛将、張飛。彼の歩みは、大地を支配するかのように力強い。




三つの異なる力が、一つの意志となって、この静寂の草廬へと近づいてくる。


孔明の指示通り、均が戸口で応対した。




「申し訳ございません。兄は今朝早くから友人と出かけており、いつ戻るか、私にも分かりませぬ」




その言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、張飛の堪忍袋が弾け飛んだ。




「なんだと、小僧! 俺の兄者が、わざわざこんな田舎の山奥まで足を運んでやったというのに、留守だと!? ふざけるのも大概にしろ! 所詮は口先だけの若造か! 兄者、こんな奴に構うことはありません! 帰りましょう!」




虎の咆哮のような怒声が、穏やかな春の空気を引き裂いた。


小鳥たちは一斉に飛び立ち、森がざわめく。




関羽は、その猛々しい義弟を片手で制しながらも、その眉間には深い皺が刻まれていた。

彼の誇り高い心もまた、「礼を尽くして来た我らを、約束もなしに袖にするとは、何たる無礼」という不満で満ちているのは明らかだった。

その閉ざされた口は、雄弁な怒り以上に、重い失望を物語っていた。




だが、劉備は違った。


彼は、二人の義弟の苛立ちと失望を、まるで春の陽光が雪を溶かすように、穏やかな微笑で受け止めた。

そして、まだ幼い均に向かって、深く、深く、その長身を折り曲げて頭を下げたのだ。




「いや、違うのだ、御弟君。我らの方が、何の知らせもなしに突然押しかけてしまった。非礼は我らにある。どうか、お気になさらないでほしい」




その声には、作られた謙虚さなど微塵もなかった。

ただ、相手への純粋な敬意と、自らの行いを省みる、深い自省の念が満ちていた。




「お兄上がお戻りになりましたら、劉備が心からの敬意を以てご挨拶に伺ったと、そうお伝えくだされ。…我らは、必ず、また参ろう」




そう言うと、劉備は名残惜しそうに一度だけ草廬を振り返り、二人の義弟を促して、静かに坂道を下っていった。




木陰でその一部始終を凝視していた孔明は、ゆっくりと息を吐いた。

彼の冷徹な分析の眼が、三人の本質を捉えていた。




張飛は「猛」。感情のままに動く、抑えがたい力。

関羽は「義」。誇りと忠義の塊。だが、その誇りが時に眼を曇らせる。




そして、劉備は「仁」。

その二つの強すぎる力を、怒りも失望も、全てを飲み込み、包み込む、底なしの器。




(第一の試験、合格だ)




孔明は心の中で呟いた。


英雄を気取るだけの者ならば、この屈辱に顔を歪め、二度とこの地を踏むことはないだろう。


だが、劉備は違う。

彼の仁徳は、見せかけの看板などではない。

(だが…)

孔明の眼は、早くも次を見据えていた。




(度量があるだけでは、この乱世の荒波は越えられぬ。その優しさの奥に、いかなる困難にも屈せぬ鋼の覚悟がなければ、私の計は、友の涙は、ただの重荷となるだけだ)




次の試験は、この春の陽光のような、生易しいものではなくなるだろう。


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