第3話 邂逅と、悔悟

 眠気を誘う4時限目の授業がようやく終わり、俺はいつも通り昼飯を買おうと立ち上がった。


 その時。


「ウラァっ! ソーイチてめえっ!!」


怒鳴り声と同時にチョークスリーパーを仕掛けられた。相手はアホの飯田いいだか。


 俺は奴の腕と首の間に手の平を差し込み、首が極まることを辛うじて防いだ。


――なんのつもりだ飯田!?


「こっちのセリフだアホンダラ! テメーあんな美人なに振ってんだバカかテメー!」


 海夕みゆのことか? 


 だが言い訳する間すら与えず、容赦なく首を締め上げてくる飯田。これは仕方ない。


俺は首の間に挟んでいた右手を引っこ抜き、素早く真後ろへ肘打ひじうちを食らわしてやった。


「おぅふォッ!?」


 みぞおち付近にクリーンヒットしたようだ。ホールドを解き床でもんどり打つ飯田。俺はお礼を込めて熱烈なストンピングをくれてやった。


「ぼ、暴力はいけない! 復讐は更なる憎しみを呼び込むだけっ!!」


 ――うるせえ最初に暴力振るったのテメーだオラっ!! つーか別れたとか誰から聞いた!?


「あーごめん、わたしが言ったのが原因かも……ホントに別れてたんだ……」

 

 振り返ると、かたわらに見知らぬ女子生徒が立っていた。誰だ……?


「ああ、わたし三組の学級委員なんだけどさ。今週からずっと学校休んでるのよ、海夕」


 ――海夕が……?


「うん、だから課題のプリントとか溜まってて。だからあの子の彼氏のキミに渡して欲しかったんだけど。で、もしかして欠席してる理由って別れたからかな? だったら渡してもらうの気まずいかなってそっちの人に訊いたら、なんか一人でブチギレちゃって……」


 床でぐったりしてる飯田を指さしながら学級委員の女子はそう説明した。なるほどな。


「えっと、あの子に渡してもらうことってできる? 住所とか知らないなら教えるけど」


 ――ああ、別に大丈夫だけど。

 

 俺は委員の子が持っていた、クリアファイルに入った複数のプリントを受け取り、それから住所も携帯にメモった。


「ホントに大丈夫? 別れてるならわたしが行ってもいいけど?」


 ――いやいいよ。俺も気になるからさ。


 あの影のような妙な女に遭遇してからずっと休んでるってことだよな。もしかして、アレが何か関係しているのか?


 というかアレは……人間だったのか? いや、暗かったし何かと見間違えただけだろう。いきなり暗くなって自分でも無自覚のままパニクってたからあんなものが見えただけかもしれない。


 まあともかく、一度あいつの様子を見てみないと。別れたといっても心配は心配だ。


「よかった! じゃあお願いね。ほとんど関わったことのないわたしが行っても嬉しくないだろうし」


 そう言い笑みを浮かべる委員の子に、俺はふと尋ねた。


 ――そういえば、同じクラスの友達とかに渡せばよかったのに、なんで俺に?


 委員の子はすこし気まずそうにしつつ、答えた。


「……だってあの子友達いないもの……中学同じだった子にも聞いたけど、ずっと一人だったって聞いたけど……」



◆◆◆



 学校を出て、俺は携帯を片手に、夕暮れに染まる街並みをひたすら歩いた。


 ネットの地図サービスを頼りに、海夕の住む家を探している。あいつはバスで登校してるとか言ってたっけ。けっこう歩かされた。


路線とかきちんと調べてバスで来るべきだったかな。順路やらバスの番号やら調べるのメンドくさがって歩きを選んだ、身から出たサビ。まあ悔やんでも仕方ない。


 ……そろそろ近いな。携帯から視線を上げると、似たような見た目の家がずらりと並ぶ一角に辿たどり付いた。


 分譲ぶんじょう住宅ってやつか? こういう所に住む人ってのは確か別の地域から引っ越してきた家庭が多いんだよな。


 なら海夕も元々この地域出身ではないのかもしれない。中学卒業と同時に越して来たんだろうか? 少なくとも俺の中学にあの子はいなかった。


  ……まいったな。スマホの地図を拡大してもどの家なのかわからん。つかもしかして住所みんな同じだったりするのか? 一軒一軒の表札ひょうさつ確認していくしかないか……


 俺は不審者丸出しで家々の表札を見て回る。流石に学生服着てれば通報はされないはずだ。


 しばらくウロウロとしていると――見つけた。


ドアホンの上に『式見しきみ』と書かれた小さい表札。きっとここがあの子の家だ。


 恐る恐るドアホンを押してみる。


 しばらく待ったが……反応がない。


 留守か? 何度も押すのは失礼だろうか。


 もう一度押して反応がなければ出直そう。そう決めてドアホンを押そうとした、瞬間。


 ガチャリ。玄関のドアが開く。


 海夕か? 一瞬期待した俺の前に現れたのは……背の低いしわくちゃのお婆さんだった。


 ――あ、あの……俺……

 

 名乗る前に、ギョロリとした婆ちゃんの目が俺をすくめ、シワだらけの口を開く。


「ああ。お前か。海夕から聞いとる。入れ」


 それだけ言って婆ちゃんはそっけ無くさっさと家の中に引っ込んでしまった。


 ……えーと、ドア開けて入っちゃっていいのか? でも確かに海夕って言ったし、あの子の祖母なのか。あの子はあんななのにバーチャンはあれか。全然タイプ違うな。


 やや気圧されつつ、俺は家の敷地に入り玄関のドアを開けた。


 室内は暗い。必要最小限の明かりしか点けない主義なのか。靴を脱ぎ暗い廊下を進んで行くと、突き当たりにあのバーチャンが立っていた。


 首で右をしゃくり、無言でスタスタ右の部屋へと向かっていく。なんか苦手だなあのバーチャン。


「おう、海夕。お前に客じゃ」


 扉の前にある複数のヒモを解きながら、バーチャンは中に居る海夕に話しかけた。


 ……なんだこれ? なんのためにこんなヒモを扉の前に? それにドアの両端にも何かの植物を植えた花瓶が置かれている。


 なんとなく、神社とかにあるしめ縄やら神棚かみだなの近くにある植物の飾りやらを思い起こさせた。何かの儀式……か?


「え~? お客さん? だれ~?」


 のんびりした声と共に海夕が扉を開け――俺と目が合うや石のように固まった。


「そ、そ……」


 ――よ、よう。元気そうだな?


「そそそソウくんなんでーっ!?」


 ――いや、プリントとか届けに。


「廊下で話してないでさっさと入れ。鬱陶うっとうしい」


 バン! と思い切りバーチャンに背中を叩かれ、気まずそうにする海夕に導かれるまま部屋に入った。やっぱこのバーチャン嫌いかも。


「茶はいるか?」


 バーチャンに威圧的に尋ねられ、首を振ると「フン!」と不機嫌そうに鼻を鳴らして出て行ってしまった。俺あのバーチャンになんかしたか?


「ごめんよソウくん。ウチのばーちゃん、誰にでも分けへだてなくヒドイ人だから」


 ――ものには限度があると思うけどな。それよりここ、お前の部屋?


「うん、一応ね……散らかってる?」


 というより、物が少ない。見える家具といえば、机と本棚、ゴミ箱程度のものだ。


 ――いや、サッパリした部屋だなと。


「悪かったのう、余計なものを買ってやる経済的な余裕がなくてよう」


 突然背後から掛けられた声にぎくりとした。振り返ると、さっきのバーチャンが座布団と折りたたみの小さいちゃぶ台を抱えて立っていた。


 ――あ、いや――


 バーチャンは無言で座布団を俺と海夕に投げつけ、ちゃぶ台をセットするとさっさときびすを返して去って行った。


「わたしはもう慣れてるけど、やっぱキツイよねーばーちゃん」


 そうだな、と応えるとまたあのバーチャンに嫌味言われそうだったので、俺は引きつった愛想笑いだけを返しておいた。


 ――それで、なんで学校休んでたんだ? 風邪、ってわけでもなさそうだけど?


 海夕に尋ねると、彼女はすぐには答えず、何か言いずらそうに口ごもる。


  ――言いたくないなら別に……


「あっ違うの! ただそのー、アッチ系の話になっちゃうからさ」


 オバケ系か。


「えっと……ソウくんも見たあの影の女、覚えてるでしょ? どうもわたし、あいつに目をつけられてるっぽいからさ。だから向こうが諦めるまでここに結界張って閉じこもってただけなんだ」


 結界張ってただけとか。休んでた理由聞いてそんなん言われてもなあ。


 ――暗かったしなんかの見間違いだと思うけどよ。そんなヤバイ奴だったのか? あいつは?


 首の後ろを掻きながら適当に尋ねると、海夕は恐ろしく真剣な顔で答えた。


「ホントにマジでヤバかったよー。ばーちゃんが言うには一種の呪いなんだって。どっかの誰かが自分の手に負えない呪いをわたしになすりつけようとしてる、とか聞いた」


 ――手に負えない呪いってなんだよ?


「ええっと、よく言う誰か嫌いな人をやっつけるための呪いじゃなくてね。守り神とか、守護霊とかそういうのが“因果”に落ちたモノ、っていうか。ほら前話したでしょ?  “地分ちぶん空分くうぶん”ってやつ」


 ああ、あのカルト宗教テーマパークで話してたような。


「因果に落ちた神霊はそれを崇める人に富を与えるけど、同時に代償も求める。でも願いは叶えてくれるから崇める人は“ホントに居る神様”だって盲信もうしんしだすんだよね。こういう状態をばーちゃんは“呪い”だって言ってるの」


 代償もきっちり食らってるのにその神様に依存して抜け出せないってことか? セルフで食らってる呪いって認識なんだろうか。


「それでね……長い間ずっとそうやって崇められてると、どんどん“因果いんが”も積もっていくんだ。最終的にどうなるかわかる? ……因果応報いんがおうほう。これまでその神様から富を得ていた人は一気に応報を食らう。財産がなくなるだけじゃなく、その人の命や家族・親類に至るまで一気に滅んじゃったりするんだって」


 ――いままであがめてた神様に逆に呪われるってのか? よくわかんねえな。


「神様に呪われるっていうか……ちょっと例えが悪いかもだけど、座敷わらしとか、テレビでたまに紹介されたりするじゃん? 家に住み着くとその家に富をもたらしてくれるんだけど、その座敷わらしが去ると一気にその家は没落ぼつらくするらしいの。こういう系の話けっこう色々あるらしいんだけど、その神様自体が何かするわけじゃなくて、まりに溜まった因果が噴きだした結果なんだよね。結局は」


 因果。そうなるのも因果ってことか?


 よくできた話だとは思うが、非科学的だよなあ。


 ――それで? なんでお前はその……呪い? ってやつに狙われてんだよ?


「生贄として極上だからよ。この子はな」


 海夕の代わりに、唐突に例のバーチャンが背後から答えた。心臓に悪いからマジでやめてほしい。


「ワシら一族の血を引いているこの子もまた、生まれながらに並外れた力を持っている。だからこそ因果に落ちた邪鬼魍魎じゃきもうりょうに狙われやすい。此度こたびの呪いもどこぞの外道が願いの代償としてこの子を見いだし仕向けたものであろうよ」


 なんだかずっとオカルトの話ばかりでだんだん鬱陶しくなってきたな。

 

 俺はため息を吐きつつ、一応訊いてみた。そんなに強い力があるならおはらい? すりゃいいんじゃないか、と。


「うーん、それができればいいんだけど……」


 そう言って肩を落とす海夕に、バーチャンはピシャリと言い放つ。


「ならん。祓いやら除霊やらは神仏しんぶつの力を借りるもの。即ち“願い”だ。お前は特に神に願いをしてはならん。力を持つものが願えば代償も相応に大きくなる。お前の場合特に危険だ。そこらの浮遊霊を除霊するのに腕の1、2本要求されてはかなわん」


「……はい」


 意気消沈する海夕に対し、バーチャンはなお追撃をする。


「まったくお前は自覚というものが足らん。7年前に呼び出したあの狐狗狸こくりもな。ワシが居らなんだら魂ごと連れ去られておったぞ」


「い……今はわたしの大事な親友だから……」


「まだアレと遊んどるのか!? 眷属けんぞく化させたからといってあまり使うな! 神霊への依存はいずれ因果を生むと言ったろうが!」


「すんません……」


「そもそもだ。お前が“ヨモツ行”をさっさと済ませておれば、あのような呪いに怯えることもなかったろうに」


「だ、だからそれは高校卒業してからって言ったじゃん! やったら学校辞めることになるし、そしたらあたし中卒だよ!?」


「それがどうした? 仕事ならワシがいくらでも寄越してやる」


「そういうことじゃなくって~! 二度と訪れない青春とか学校生活とか~!」


 ――え? 学校辞めるのか?


 流石に聞き捨てられず、二人の言い合いを遮るように尋ねた。


「辞めないよ! でも“ヨモツ行”に入ると一年以上洞窟の中で過ごす事になるから、学校辞めることになっちゃう……だからそれは卒業してからって言ってるの」


 ――さっきからなんだよ、その“ヨモツ行”って?


 海夕の代わりにバーチャンが口を開いた。


「ワシらが管轄する洞窟の中に籠もる修行のようなものよ。水・食料を一切口にせず490日を過ごす」


 ――いやいや、それ死んじまうだろ普通に。


「当然だ。この子には一度死んでもらう。その後現世と冥府めいふさかいへといたり、魂の半分を神域しんいきへくぐらせる。ワシら一族の生業なりわい幽世かくりよの橋渡しのようなものだからな。あちらへ行って帰ってこられぬようでは話にならぬ」


 やべえ。


 ヤバすぎるだろこのバーサン。完全に頭イッてやがる……


 俺が露骨にドン引きしているのを見て、バーサンは怪訝な表情を浮かべた。


「なんじゃ? ワシの言うことが信じられんか?」


 ――いやそもそもの話、俺はオバケとか信じないんで。さっきの呪い? とかってのも正直全く信じてないんで。


「……ほーう」


 するとバーサンはくるりと背を向け、両手を握り、壁に向かって手の甲どうしを2、3回叩いてみせた。


「ば、ばーちゃん何やってんの!?」


 なぜかそんな様子に慌てる海夕。なんなんだ、一体?


「おい、坊主。ワシの後ろにおるモノが見えるか?」


 バーサンがこちらへ振り返り、己の背後をあごでしゃくる。


 俺が視線を動かすと……バーサンの背後の壁に、何かがあった。


 ジワジワと広がる赤いシミのようなもの。


 それはやがて形をつくる。二つの赤い手形。その中央で大きく広がる赤いシミから、黒いものがゆっくりと出てくる……髪の毛。人の頭部。壁から血塗ちまみれの何者かが部屋へと入り込もうとしている……?


 ――ありえねえ。


 俺は反射的につぶやき、掛けていた眼鏡を外して目をこすった。なんかの見間違いに決まってる。


 眼鏡を掛け直すと――壁から出てこようとしていたヤツは消えていた。ほらみろ。やっぱりただの気のせいだ。


 俺は何も見えないとバーサンに伝えたが、バーサンは眉根まゆねを寄せたままジッとギョロ目で俺を見つめ続けた。何なんだよマジで。


「……本当に消しよったわ。お前の言う通りただの坊主ではないな、海夕」


「だから言ったじゃん! ソウくんって凄いんだよ!」


 なぜか得意げになる海夕。いやさっきから何の話だ?


 するとバーサンは腕を組みしばらく何かを考えたあと、ぽつりと呟いた。


「……なるほど代償だいしょうにはなる。えんを移せばあるいは……」


 ジロリとバーサンのギョロ目が俺を見据えた。


 ――な、なんだよ?


「坊主。お前、ここで海夕とまぐわれ」


 ――は?


「……海夕を抱け。性行為をしろ、ここでな」


 ――はああ!? な、何いってんだよあんた!!


 唐突な発言に、俺は思わず立ち上がって問いただした。


「何とはなんだ? お前ら恋人同士じゃろ? 何の問題がある?」


 ――あるわ! なんでいきなりそんな……わけわかんねえよ!


「お前の子種を代償とする。海夕と呪いの間に結ばれた“縁”をそちらに移す。さすればこの子は助かる」


 ――だから……わけわかんねえって……!


 俺は海夕の方を見る。彼女は顔を赤らめ、俺と目が合うや即座に目を逸らした。


 ――ほら、嫌がってるだろうが! 自分の孫に何させようとしてんだよ!!


「よいな、海夕?」


 バーサンの言葉に、海夕はハッとして顔を上げる。


「お前、ずっとここに閉じこもったままでいるつもりか? あれはもうお前を見つけている。数日閉じこもった程度で見逃すはずがないと、お前も分かっているだろう?」


「…………」


「強引に祓えばあのドス黒い因果はこの街中を巻き込むぞ。安全にアレを消すには生贄を立てねばならん。分かるな?」


「…………」


 海夕は耳まで顔を赤くし、小刻みに肩を振るわせる……すると。


 ――お、おい!


 次の瞬間、海夕は着ていた水色のジャージを脱ぎ、立ち上がって中のシャツまで脱ぎ出そうとした


 俺はあわてて彼女を制止する。


 ――待てって! あのバーサンの言いなりになるんじゃねえよ! こんなのおかしいだろ絶対に!!


「ああそうか。坊主、お前信じとらんのだったな?」


 バーサンは口の端に嘲笑ちょうしょうを浮かべながらそう言った。


「なら信じんでもいい。頭のおかしいババアが娘を差し出し、娘も進んで抱かれようとしておる。都合が良いではないか? 馬鹿な女をタダで抱ける。認知もしない。こんなにおいしい話はないだろう?」


 そんなバーサンの物言いに、俺は怒りで何かがブチリと弾ける音を聞いた。


 ――バーサンよ。あのな?


「なんじゃ?」


 ――俺を見くびってんじゃねえぞ。抵抗できない状況に追い込まれた女抱いて喜べるほど腐ってねえんだよ!! ふざけんじゃねえ!!


「ソウくん……」


 ――霊だのなんだの関係ねえ! 俺はそんな提案には乗らねえからな!


「そうか……芯は通っとる。気に入ったぞ坊主。この子が入れ込むのもわかる」


 ――ふざけんな! 俺は帰るからな! 邪魔したな!!


「まあ待て。念の為お前にワシの連絡先を渡す。お前も海夕と同じくアレを――」


 ――いるかよクソババア!!


 そう吐き捨てて、俺は海夕の家を後にした。



 ◆◆◆



 日はとっくに沈み、西の空に藤色ふじいろの名残を残すのみ。


 星すらまたたき始めた夕闇ゆうぐれ時。俺はいまだいらだちを抱えたまま帰路きろ辿たどっていた。


 ふざけやがって。代償だあ? まぐわれだあ? 終始しゅうしわけわかんねえことほざきやがって。何であのババアに言われてヤらなきゃなんねえんだよ。動物か俺は? しかも海夕みゆのことまで馬鹿にしやがって……


 すると。


「ねえ、お兄ちゃん」


 遠くで誰かに呼び止められた。なぜだかそれが俺を呼んでいるとわかった。


 「ねえ。ねえ」


 小さい子供の声だ。周囲を見回す。商店の間の細道の奥に大きな団地があり、その手前に小さな公園のようなものがあった。


「こっちだよ。こっち」


 商店の間を通り、夕闇ゆうやみに沈む公園に足を踏み入れる。


 薄ぼんやりとした街灯の下、ペンキの剥げたキリンの滑り台近くの砂場に、一人の男の子がいた。


 こちらに背中を向けたまま、素手で砂場の砂を一心に掘っている。


「お兄ちゃん。お兄ちゃんさ、あの家に行ってたの? オバケの家」


 オバケの家……? 


 すこし考えてピンと来た。もしかして海夕の家か?


「オバケが見えるんだよ? オバケって。怖いね」


 ――いるわけねえだろ、オバケなんてよ。


 俺は右手を腰に当て、うんざりしながらそう答えた。


 なおも男の子は砂を素手で掘る。奇妙な感覚だった。イラついていてさっさと帰ろうという時に、なぜその男の子の声に呼ばれるままに来てしまったのか。


 男の子が着ている服。青地にかすれたゾウの絵が描かれたの服……なにか覚えがある。どこだった? この服を見た覚えが……


「お兄ちゃんは、オバケ、怖くないんだ」


 ――怖くないね。そもそもそんなもん存在しないんだ。たいてい見間違いか勘違いなんだよ。


 男の子はしばらく沈黙。しゃりしゃりと砂を掘る音だけが聞こえる。


「でもそれって、おかしいよね?」


 ――は?


 突然の発言に、俺は思わず声を上げた。


「存在しないのに、どうして怖くないって言うの? 存在しないのに、どうして“そんなのいない”って言うの?」


 ――な、何いってんだ?


「いないのものを“いない”って言うのはおかしいよ。いないなら認識できないもん。本当にいないなら“いない”なんてわざわざ言わないよ」


 ――なにを……


「“いないもの”って言うとね、“いないもの”っていう存在になるんだよ。存在の対義語は無。ゼロ。でもそうやって認識できないモノに呼称をつけると“無”や“ゼロ”っていうう存在ができあがっちゃうんだよ」


 ……俺は、自分が無意識に冷や汗をかいていた事に気が付いた。


 まずい。なにか、なにか、まずい。


 少年が着ている服を思い出した。


 俺が――幼稚園児の頃、気に入ってよく着ていた服――


「だからね。オバケなんていないって言うとね、お兄ちゃん」


 男の子が……ゆっくりとこちらへ……振り返る。


「もう半分認めたことになるんだよ、



 子供の声ではなかった。大人の声――俺の、声――


 そして俺は息を呑んだ。


 振り返った男の子の顔は――無かった。まるでレンズを外した虫眼鏡のようなフォルムで、暗く深い大穴が空いていた。

 

 悲鳴を上げそうになり、口を開けた瞬間――


 ゴボリ!


 待ち構えていたように、何か大きなものが俺の口の中へと入ってきた。


 ――ガハッ! ゴホっゴホっ!!


 吐き戻そうと何度もせき込んだ。だが飛び込んだ何かは体の奥底まで入り込み出てこない。男の子の姿はもうなかった。


 腰をかがめて何度もせき込んでいるうちに――俺はその場に倒れてしまった。


 なんだ……体に、力が入らない……


 同時に猛烈な吐き気に襲われ、俺は砂場に転がったまま嘔吐おうと


 顔を吐瀉物としゃぶつに濡らす。それでも指先一つ動かせず。全身をひどい悪寒が襲った。


 ……なんだこれ。何が起きてるんだ……俺の体になにが……


 何度体を起こそうとしてもぴくりともせず。気づく。体の感覚はとっくに消え失せていることに。


 寒さしか感じない。寒い。寒い。さむい。さむい。さむい。


 …………俺、ここで、死ぬのか……?


 視界がどんどん狭くなっていく。ただの肉の塊として転がる自分の指先を見つめながら、俺は唐突とうとつに訪れた死の恐怖に絶叫した。


 けれど声は出なかった。耳ももはや何も聞こえない。五感で残るのはトンネルの先のように小さくなる視界と寒気のみ。


 ……眠い。眠ったら死ぬ。嫌だ、いやだ、いやだ、いやだ! 


 死にたくない! 死にたくない!!


 視界は完全に閉ざされ。ふ、と五感が全て消失。眠りに落ちる直前のような浮遊感に包まれる。


 眠るしかない。永遠の眠りに落ちるしかない。


 ――死にたくない! だれか――!!


 その時だった。


「――くん――ソウくん――」


 声が聞こえた。


 海夕の、声。


 闇に沈みかけた意識が、彼女の声に向かって一気に浮上していく。


「ソウくん――!」


 もう寒さはない。体が、動く!


 俺は目を開け、倒れていた砂場から体を起こした。


 全身に冷や汗が流れ、未だに心臓が激しく脈打つ。死の恐怖がまだ体に生々しく残っていた。


「ソウくん、大丈夫……?」


 俺は呼吸を整えながら、海夕の方を振り返った。


 薄ぼんやりとした街灯の下、心配げに俺を見下ろす海夕。彼女の顔を見て、俺は涙を流しそうになった。見慣れたはずの彼女が今は、神々しくなによりも温かく感じた。


 ――み、ゆ……


「よかった。もう大丈夫、だ、か、か……」


 ホッとした笑顔を浮かべる彼女の顔が、一変する。


 両目と口を大きく広げ、腰をかがめながら痙攣けいれんするように体が震える。


 ――どう、した? 海夕――?


「か、が、げ、げひゅ、げひゅ、げひゅっ」


 ――海夕っ!!


 彼女が体を震わせるたびに、背中が異様な盛り上がりを見せた。体に入り込んだ何かが出口を求めてい回っているかのごとく。


 体に入り込む……まさか、さっき俺の口に入り込んだヤツと同じ……?


 まさか、この子は、俺の身代わりに……?


「い、い、いや、いやああああっ!!」


 海夕が恐怖に顔を歪ませ絶叫する! このままでは海夕が――!


 俺はとっさに彼女を抱え上げ、走った。彼女の家へ向かってひた走る!


 救急車を呼ぶべきだったのでは? そんな疑問も頭に浮かんだ。でもダメだ。きっとこれは医療でどうにかできるものじゃない。なぜだか直感的にそう感じた。


 未だ苦鳴を漏らす海夕。苦しみに悶え俺の腕をはねけようとする彼女の体を、俺はさらに強い力で抱きしめる。


 海夕。海夕。きっと助かる。あの家に戻ればきっと元に戻る。海夕――!

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