第2話



 天水てんすい砦にいるうちに早急になんとかしなければならない。

 山中を駆けていると、不意に見覚えのある場所に出たと思った。

 

 幸い、あまり徐庶じょしょの頭の中にあった位置関係とはずれは起こっていなかったようだ。


 黄巌こうがんの庵の場所が分かった。

 急いでそこへ走って行く。


 ……人の気配がしない。


 あの時は山間の村の人々の気配が、なんとなくここまで伝わって来ていた。


 庵へ続く小道を見つけた時、雪に足跡が残っていることに気づいた。

 馬の蹄だ。まだ新しい。

 徐庶はハッとすると、斜面に手を付きながら上っていく。


 庵の戸は閉まっていたが蹄の足跡を追って行くと、裏手の木の側に馬超ばちょうの馬がいた。


 徐庶が近づいて行くと、一ついななく。

 するとそこにあった雨戸が、僅かに開かれた。


「馬超殿!」


 様子を見るつもりだった馬超は、徐庶の姿を見つけると雨戸をすぐ開いてくれた。


「徐庶殿か。よく来てくれた。

 貴方に連絡を取りたかったが、どうすべきか考えていたのだ。

 【翡翠ひすい】だけで天水砦に行かせようかと……」


 翡翠がやって来る。

 身体に少し積もっていた雪を、わざわざ徐庶の側でブルルと言いながら飛ばして落とした。


「こいつを見れば、貴方は何かを察してここに来てくれるかと思ってな。

 だがこいつだけ捕まって貴方にその情報が行かないと、俺が成都せいとに帰れなくなって困る」


 翡翠が馬超ばちょうの肩口を鼻で突いた。そんなことにはならないと抗議するような仕草である。


黄巌こうがん……馬岱ばたい殿のことですね」


 徐庶が言うと馬超が頷く。


「涼州騎馬隊は無事に定軍山ていぐんざんを迂回して突破した。

 趙雲ちょううんがあとは成都に連れて行ってくれるというので、俺は一度戻って来た。

 ……やはり馬岱と一度話しておきたい。

 あいつが臨羌りんきょうで幸せに家族と暮らしているのなら俺は何も言わん。

 関わろうとは思わない。

 だけどあいつはこの辺りに残っていた。

 しかも名を変えて……、

 俺は、あいつの本当の気持ちを、まだ聞いていない気がするのだ。

 だから……」


 徐庶は頷き、庵の中に入った。


「馬超殿。彼は今、天水砦にいます。

 虜囚ではなく腹部に重傷を負って、手当を受けている状態です」


「なに」


 馬超は驚いたようだ。


「この傷は、涼州にやって来た【烏桓六道うがんりくどう】から受けたものです。

 黄巌こうがんは、やはり潁川えいせんに来ていました。

【烏桓六道】の生き残りの兄妹と偶然出会い、貴方と別れた後、行動を共にしていたようです。

 彼らは復讐から離れ人並みの人生を暮らすことを望んでいたので、同じようにそれを望んでいた風雅ふうがと共に仕事を。

 ただ郭奉孝かくほうこうの居場所が明らかになったので、【烏桓六道】の里を焼いた相手として、全員に復讐の命令が下され……六道りくどうの兄妹は風雅ふうがに言わず、潁川えいせんで暗殺未遂を起こした。

 風雅はそこが誰の屋敷かも知らなかったと言っていました。

 しかし後にもう一度戻り、郭奉孝が療養している屋敷だと理解し……今回涼州で彼らと再会した」


「その妹が、馬岱ばたいと情を交わしていたのか?」


「共に行動していたようですが、彼の話を聞くと三年ほど前のその潁川での諍い以来、彼女とも連絡を取らない状況になっていたので、風雅ふうがこだわっていた『このあたりにいる大切な人』とは彼女は違うようです」


「そうか……」


「彼女は馬岱と戦って……」


 馬超は息を飲み、押し黙った。


 自分と離れた後、馬岱は幸せに暮らしていると思い込んでいた。

 今頃、馬岱が好むような明るい笑顔の娘を娶り、すでに父と母になってきっと子供も生まれ、家族仲良く暮らしているのだろうと。


 一人で彷徨い、

 一人で戦って血に塗れている。



(これでは同じだ)



 自分と、同じだ。


 馬超ばちょうは、馬岱が自分と違う生き方をしたいと望めばそれを許した。

 縛るつもりはなかった。

 しかし馬岱が自分と同じ戦いの道を選ぶなら、共に生きろと叱りつける。

 

 側で戦うなら守ってやれる。力になってやれる。

 だが他のどこかで戦うくらいなら、隣で共に戦ってほしいのだ。


 馬超のその言葉を聞くと、徐庶は頷いた。


「多分風雅ふうがは、貴方のその気持ちを知らない。

 彼は自分は……貴方と違うと思っている。

 貴方の力になれない人間だと自分を見誤っているんです。

 共に生きたくなかったわけではないと思う。

 貴方にも、黄風雅こうふうがという名を教えていなかったのが気に掛かる」


「徐庶殿。それも含め、馬岱ばたい自身から話を聞きたいのだ。

 もし本当に馬岱が俺と共に、今後も戦っていくのが嫌だというのならば、俺は無理に涼州騎馬隊にあいつを引き込もうとは思わん。

 涼州を離れたくないなら成都せいとに来る必要だってないのだ。

 あいつには自由に、自分の生き方を決めてほしい。

 だが、あいつは俺の弟だ。俺に嘘をついてほしくない」


 従弟いとこだが、馬超はそう言った。


「従弟だが、俺は馬岱のことは実の弟だと思っている。

 二人の弟は殺された。

 だからあいつだけは守ってやりたい」


「馬超殿」


「馬岱の正体は魏軍に知れているのか」


「理由は分かりませんが知られています。

 郭奉孝かくほうこうが彼を【馬岱】だと断定していた。

 かといって彼が馬岱殿を、貴方に関わる者として利用するかは分かりません。

 そうと決まったわけではなく【烏桓六道うがんりくどう】と関わっていないのなら問題にせず、傷が癒えたら自由にする可能性も十分あります。ただ、どうなるかは現時点で分かりません」


 徐庶じょしょは手を握りしめた。


「馬超殿、風雅ふうがの……馬岱殿のことを俺に預けていただけますか。

 どうなるかは分かりませんが、彼が魏軍の虜囚などにならないよう、涼州の人々の許に戻れるようにします。

 具体的にどうなるかとは、今は彼の傷のこともあり約束出来ませんが……でも、必ず。

 俺は……」


 一度俯いてから、顔を上げた。


「今回こうして魏軍の軍師として涼州にやって来て、つくづく自分の歩いている道が嫌になりました。

 元々は母を一人に出来ないと思って魏にはやって来ましたが、もはや俺の問題は母のことではないのです。

 自分の道を歩いていない。

 歩いている道に誰かが現れると、俺は必ずその人間に道を譲って来た。

 そうするうちに必ず本来望んでいた道から逸れて行く。

 それは俺自身の弱さが原因で、他の誰のせいでもない。


 俺はもし許されるのなら、涼州遠征後職を辞して魏を去ろうと思っています。

 再び流れて落ち着く先を決め、門を閉じて学問に専念したい」


「徐庶殿。ならば蜀に来て下されば。

 成都せいとでも学ぶ事は出来る。劉備りゅうび殿や諸葛亮しょかつりょう殿も、貴方が争いを望まないなら無理に軍師にはしないはずだ。ただ、友のように側にいてくれれば……」


 馬超は言った。


 自分も馬岱が戦うのは嫌だと言ったら、無理に戦場には連れて行かない。

 ただ家族として、家で帰りを待ってくれるだけで十分だ。

 そこにいてくれるだけでも、自分にとっては馬岱は意味がある。


 徐庶は小さく頷いた。


「そうだと思います。

 しかし俺は国のために生きれない人間なのです。馬超殿。

 国に関わらず、人とも広く交わらず、学問を志す人間たちと、ささやかに関わって過ごすのが望みです。

 人を守ることは尊いですが……俺は、自分が見知った顔の人達ほどを、彼らが苦しんだ時に助けたり守ったり出来ればそれでいいのです。

 高い志を持った貴方には理解しがたい生き方かもしれませんが、どうかお許しを。

 しかし馬岱ばたい殿だけは、魏の争いに関わらないよう必ず守り、私が貴方の許に返します」


 少しの間、沈黙が流れた。

 馬超が徐庶の肩に手を置いた。


「……いや。

 俺にもちゃんと理解出来る。

 馬岱ばたいが何故貴方に親しみを覚えたのか、今ならよく分かる。

 貴方の望む生き方は、多分馬岱の望む生き方に似ているんだ。


 ……俺は今しばらくは涼州にいるつもりだ。

 しかし見通しは立たない。いつまでもいるわけにはいかないし……。


 何か余程のことがあれば、この庵に書き残してくれ。

 例の薬を隠していた場所を貴方は知っているな。

 あそこに残してくれればいい。


 馬岱のことは貴方に託す。どうかよろしく頼む。

 馬岱が成都に無事に来られたら、俺は貴方に深く感謝する。徐庶殿。

 話を聞いて馬岱が自由を望むなら、戦わせたりせず必ずそうさせる。

 その時は、きっと貴方を馬岱は訪ねて行くだろう」


 徐庶は目を伏せた。



【いつか天下が太平になったら】



 陸伯言りくはくげんが口にしていた、その言葉を思い出した。


 誰の目をはばかることなく、遠い地に住まう友人を訪ねて行ける。

 


 ――そんな日が、いつか来たら。



 二人は頷き合うと、強く握手を交わした。





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