アザを呑み込み、そして呑み込まれて。
アザを自分という存在の一部として認識できるようになったのはいつからだろう。アザに思考を蝕まれていた幼少期から青年期初期。アザを対象化できるようになった青年期中頃から終盤。そして、アザを自分の存在として吞み込んでいった大人になった僕。そこに至るまで、本当に色々なことがあった。
前回のエピソードでアザに思考を蝕まれていた頃の話をした。このエピソードでは少し時系列が飛んでしまうけど、アザを自分の存在として吞み込んでいった大人になった僕のことを書き綴ろうと思う。
アザときちんと向き合い、「これが自分なんだ!」と確信をもって言えるようになったのは、4年制の大学から通信制の大学へ編入した頃だったように思う。一番の要因は僕の研究関心だった、外見に疾患や外傷のある人たちの研究が、精神障害のある人たちへと研究関心がシフトしていったことに起因している。
それは自分の生きづらさがアザに依るものより、精神障害に依るものが大きくなったことと連動している。そして、自分のアザの体験や他者の外見上の疾患・外傷について対象化して研究することに疲れ果ててしまったことにも関連している。
このエピソードでは研究関心がシフトしたその後、を描き出したい。
このエピソードを読んで下さっている皆様へ。
試しに、birthmarkやfacialdifferenceで検索をかけてみて欲しい。写真などを見れば明らかだけど、僕よりもアザが大きい人、腫瘍がデカい人、火傷の跡が酷い人、なんて世界中を見渡せばゴロゴロいる。それに比べてたかが口元の小さなアザくらいで何を言ってるんだ。そう思う人もいるかもしれない。
でも少しだけ言わせて欲しい。アザの大きさとアザ持ち当人の生きづらさは比例するものじゃない。アザがあったって何食わぬ顔で生活を送っている人たちを僕は知っている。恋愛して結婚だってする。僕みたいに拗らせている人ばかりじゃない。
話を戻そう。アザを対象化すること、つまりそうした人々の研究をやめて研究関心がシフトしたことで、僕はほとんど自由に生きられるようになった(この記事では研究の内実は省くこととする)。「ほとんど」と表現したのには理由がある。それは習慣になってしまっている回避行動だ。
小さな子にジロジロ見られるのが嫌で、顔のアザの向きを小さな子に見せないように振舞ってしまう。時々泣かれてしまうこともあるけど、多くの子は凝視してくる。刻みついた恐怖は簡単に拭い去れるものではなかった。つい反射的にアザの向きを意識してしまう。
喫煙所でタバコを吸っているときもそうだ。タバコをくわえながら指でアザを覆うかのように隠してしまう。人が密集するところだから尚更だ。
飲食店などで座席に座るときもそうだ。右側のアザが見えないよう座席は決まって右側を選んでしまう。脊髄反射のように無意識にそうしてしまう。
はじめにアザを自分の存在として吞み込んでいったと表現したけど、吞み込んでいった故に身体から滲み出てくる、そういった解釈がより適切だ。身体の一部だからこそ、振る舞いにも如実に反映されてくる。
それでも、学校のような場を通信制ということで離れたせいもあってか、幾分か、いや多分に生きやすくはなった。必然的に一人きりの時間も増えた。それもあってか、アザのある自分という存在を客観視し、達観し、受け入れる受け皿が醸成される余地があったのだと思う。
周囲に敵なんていない。在るのは周囲を敵視する己ではないのか。そう自分に問いかけ、自問自答した。答えは未だ出ていない。時折見え隠れするアザからの、アザへの恐怖と共に歩んでいく。その決心だけはついた。
先ほど研究関心がシフトしてアザに依る生きづらさよりも、精神障害に依る生きづらさのほうが大きくなってしまったと書いた。この記事では精神障害について多くは書かないが、一つだけ補足として記しておく。それは外見に著しい疾患や外傷をもった人々は、何らかの精神疾患を抱えている場合が多いという事実だ。
ただ、この事実に科学的根拠はまだないかもしれない。でも当事者の間ではよく話されていることだ。これは広く知られてよい。またこのような研究がなされていくことが切に望まれる。近い将来、僕がやっているかもしれないが。。
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