第27話 妹と彼女

 午前十時、デパートのガラス扉が静かに開く。



 入口脇の小さな立て札にはVIPとして、俺の周りに女性の壁ができて守られていた。


 床の片側に薄い帯が敷かれている。人波は自然と割れ、視線はぶつからない。



「こっち。文具、今なら加工カウンター空いてる」



 綾乃が迷いなく歩いていく。


 眼鏡の奥の目は楽しそうなので、今日出かけることが嬉しいんだろう。



 エレベーターでは、スタッフの女性が気配だけで一段下がり、ボタン操作を代わってくれる。ありがたい。それでも、歩幅は綾乃に合わせる。



「贈り物は軽くて、毎日使えて、場所を取らない。重ねて増やせるやつが最適解」

「具体的には?」

「細い木軸のペンと、薄い真鍮のペンケース。名入れは控えめに内側」



 文具フロアの匂いは、紙と革の淡い混ざり。綾乃が差し出したのは、白樺のような明るい木目のシャープペン。手に取ると、驚くほど軽い。



「紅葉さん、大学生だから、ペンなら使えるでしょ?」

「ああ、喜んでくれると思うよ」



 綾乃なりに紅葉のことを考えてくれるプレゼントだ。



「彼女のためだよ」



 店員の女性が穏やかに会釈し、名入れの確認に入る。


 表には何も刻まない。内ポケットに小さく〈M.〉の一文字だけ。ケースは薄い真鍮で、留め具が静かに吸い付く磁力式。触れるとひんやりして、すぐ体温に馴染む。



「包みは白。リボンは茜。これは兄の色」



 会計を済ませると、係の人が「低照度レーンでのご移動がおすすめです」と耳打ちしてくれた。



 気を遣わせてしまう。でも、その配慮に救われている自分がいる。



 屋上庭園のカフェは、風が柔らかい。



 待ち合わせの時間より三分前、紅葉はすでに席にいた。薄墨色のワンピースに細いベルト。姿勢が整っている人は、椅子に座っても空気が乱れない。



「お待たせしました」

「いいえ。お二人が並んで来られるのが見えました。歩幅が合っていて、素敵です」



 綾乃が包みを差し出す。紅葉は両手で受け取り、ほどかずに一度だけ頬に当てる。癖なのだろう、香りではなく、温度で確かめるように。



「開けても?」

「もちろん」



 薄紙が静かに鳴る。木軸が光を受けて、細い影を落とした。



「……軽くて使いやすい。好きです」



 紅葉はページの余白にさらりと一本、線を引く。その一本がきれいすぎて、綾乃の眼鏡がわずかにきらめいた。



「名入れは、内側に小さく。見えないところにあるのが、気に入っていただけたら」

「見えないところの配慮は、長く効きます。ありがとう、綾乃さん」

「いくつか、確認していいですか?」



 綾乃がメモを表に置く。箇条書きが三つだけ。


 一、甘味の傾向

 二、香りの強さの許容量

 三、金属アレルギーの有無



「甘いものは少量、香りは弱いほうが助かります。金属は問題ありません」



 綾乃が頷き、チェックを入れる。その所作が妙に職人めいていて可笑しいが、笑いにはしない。今日は、軽くでいい。



「それから、もしよければ……日曜の午前、家でお茶に誘いたいんだ」

「いいですか?」

「ああ、また来てくれるか?」

「もちろん」



 綾乃が話題を提供して自然に会話が弾んでいく。


 紅葉との会話が転がる感覚が心地いい。



「このペン、最初の一本に何を書こうかしら?」



 紅葉が手帳を開いたまま、目を上げる。風に前髪が少し揺れた。



「三人で飲むお茶の予定を。日曜、十時。場所はうち」

「では——」



 紅葉は月の余白に、細い文字で記した。《日/十時/お茶》。その下に小さく《綾乃:甘味小》。綾乃の喉が、ちいさく鳴る。



「共有します。兄の予定も、私が拾います」

「助かるわ」



 早速、意気投合した綾乃と紅葉は楽しそうだ。


 俺は少し緊張していたのか、二人の会話に安心してしまう。



「それと、もうひとつだけ」

「ん?」

「あなたが他の誰かを助けに行くとき、私も同じ方向を向きます。止めるためではなく、帰ってくる場所を広くしておくために。協力は惜しみません」



 胸の奥で、軽い音がした。大げさに返すのは簡単だが、今日はやめる。



「ありがとう」



 それだけ言うと、紅葉は微笑み、綾乃に向き直って頭を下げた。



「日曜、よろしくお願いします。たぶん、緊張するので」

「大丈夫。私もいます!」



 会計を済ませ、店を出る。屋上の光はやわらかく、足元の影は薄い。


 エレベーターまでの短い距離を、三人でゆっくり歩く。


 誰の歩幅も、もう合わせ直す必要がなかった。



 別れ際、綾乃が小声で囁く。



「紅葉お姉さん、兄をよろしくお願いします」

「よかった」



 紅葉は笑う、綺麗だった。


 そして、綾乃とも仲良くしてくれて、ほんの指先だけで会釈を足した。その仕草が、思っていた以上に胸に残る。



 茜色の小さなリボンが、風に揺れた。日曜の十時に丸をつけた頁が、内ポケットのなかで、そっと熱を持っている気がした。

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