第25話 彼女の悩み

《side 蓮見恭弥》


 

「……理性、臨界突破しました」


 司の冷静な実況の直後だった。


「翠ちゃん?」


 澄んだソプラノ。


 白衣の袖がのぞく。



 姫宮沙耶が、プリント束とタブレットを胸に抱えて立っていた。


 ポニーテール、薄いグロス、そして理数棟名物のパスケース。


 目が合った瞬間、彼女の瞳がわずかに見開かれる。



「……実在、確認。低域F0……想定通り。翠、吸って四つ、吐いて六つ」



 いきなりロボットのようなカタコトで話し出した。



「む、無理ぃぃぃぃ……男が……っ」

「一緒に。せーの。すー……(四)、はー……(六)」



 姫宮のリードに合わせ、朝比奈がゆっくりと呼吸を刻む。



 姫宮はタブレットでメトロノームを起動して、テンポを72に設定。律儀に「ピッ、ピッ」と小さく鳴る。



「……すー……はー……」



 十拍ほどで、朝比奈の肩がストンと落ちた。


 王子様の顔に、うっすら理性が再起動の青ランプ。



「沙耶……ありがとう。僕は平気。もう平気だから」



 いや、鼻にティッシュ刺さってるぞ王子様。ダメージログが生々しい。


 姫宮は司に小さく会釈した。



「拘束、外していただけますか。もう大丈夫です。暴れません」



 司が無音で手をほどく。朝比奈は解放されるや否や、俺の前に一歩出て、胸に手を当ててきっぱりと宣言した。



「先ほどは失礼。取り乱しは記憶から消去してほしい」

「消去は無理だ。強烈だからな」

「なぜだ……!」



 姫宮がこほん、と小さく咳払いして場を整える。



「ここだと音が響きます。研究棟の予備実験室が空いています。代表者経由で来訪申請は出しました。『男性来校プロトコル:簡易隔離B』発動済み」



 ドアの外で、スタッフの女性が親指を立てた。連携が早い。さすが理数棟。



 予備実験室は、窓から柔らかい光。机の上のビーカーは空、代わりに紙コップとティーバッグが並んでいた。



 いつの間に用意されたのか、白茶が控えめに湯気を立てている。


 姫宮が最初に頭を下げる。



「この間は、ありがとうございました。階段で……助けていただいて」

「いや、当然のことをしただけだ。それで、安否を確認したくて来たんだけど、危ない落ち方だったから」



 朝比奈が横でぴくっと反応し、でも王子様の顔は崩壊しないで、ぐっと飲み込むんでいた。


 さっきのパニックが嘘みたいな姿勢だけは凛とした。鼻ティッシュは取ろうな。



 ちょっと面白くなってきた。



「最近は研究で徹夜が続いていて、低血糖と寝不足の併発でした。研究の締切と、学会要旨の修正が重なりまして、本当に助かりました」


 

 姫宮は一瞬、目を伏せた。そこに「もう一つ、言いにくいこと」が混じっているのを、俺は見逃さない。



「僕から言うべきだ。沙耶は……混乱している。男の人に初めて会って、助けられて、嬉しかった。怖かった。僕は恋人として、沙耶の揺れを責めない。だから、あなたが何をしに来たのかを、ちゃんと聞きたい」



 さっきまで俺を見て「婚姻届」とか叫んでたのに、急に真面目な言葉を吐くのやめてくれ。笑いそうになる。



「俺は、自分と関わった女の子が不幸になることが嫌なんだ」



 本当は自分のバッドエンドを迎えたくないだけど、そんなことを言ってもわからないだろうと思っていれば、いつものキザセリフが発動する。


 二人の視線がこちらに集中する。言い切る。



「姫宮さんを助けたことが序章であり、姫宮さんが僕と関わることで不幸になるんじゃないかと思って姫宮さんを守りにきた」

「私を守るのですか?!」

「ああ、君たちの関係が壊れたりする未来は、回避したい。だから姫宮さんのことを知りたい」



 朝比奈が一拍、目を細めて、ふっと笑った。さっきの崩壊残像が消えて、王子様が帰ってきた。



「なるほど、自分と関わった女性は全て助けたいと……ならば、私も!」



 いきなり胸を張る王子様。いや、朝比奈。鼻にティッシュがまだ残ってる状態で宣言されても、説得力ゼロなんだよな……。



「いや、朝比奈さんはもう姫宮さんの恋人なんだから——」

「恋人であろうと、沙耶が関わった時点で君の庇護対象になるのだろう!? なら、私も入っているはずだ!」

「いや、そういう直球の理解の仕方は……」



 隣で姫宮が「ふふ」と笑いを噛み殺している。たぶん、俺の気持ちを察している。



「翠ちゃん、落ち着いて。ティッシュ、鼻」

「はっ!?」



 慌てて鼻を押さえてティッシュを投げ捨てる王子様。顔が真っ赤だ。



「……これは黒歴史として記憶削除を求める!」

「さっきも言ったけど、俺の脳みそは消去できない仕様なんだよ」

「なんて不便なデータベース!」



 また周囲にエコーが響くくらい叫んでしまった。ほんと、王子様キャラどこいった。



「……翠ちゃん、ここで恭弥さんを追い払ったら、私の不安は残ったままです。私たちの未来にノイズが残る。そういうの嫌でしょ?」

「……沙耶」



 途端にしゅんと黙る朝比奈。王子様キャラ再起動。……ほんと忙しいな。



「改めて、姫宮さん。君が抱えている悩みを、俺に話してくれないか? できる限りでいい」



 姫宮さんが視線を落とし、紙コップの白茶に指を添える。



「……まだ全部を言えるわけじゃありません。でも、最近研究に対して妙な圧力がかかっているんです」


 朝比奈がすぐ反応する。



「だから私は警戒してたんだ! 男が現れたのは、敵の差し金か?!」

「違う違う違う! 俺は味方だから! 紅葉とのデート以外にそんな工作する時間ないから!」

「デート……」



 朝比奈の目がまた揺れた。危ない。理性の青ランプがオレンジに点滅している。



「落ち着いて、翠ちゃん。私は選んだ人がいる。君も知ってるでしょ」

「……わかってる。けど……!」



 ここで司がドアの外から「咳払い一つ」。空気が引き締まる。まるで「またパニック起こすなよ」と釘を刺されたみたいだ。


 俺は苦笑して二人に言った。



「つまり姫宮さんの悩みは研究への妨害。だったら、俺が調べてみる。学外の視点からなら気づけることもあるかもしれない」



 姫宮が目を丸くし、それから静かに頷いた。



「……ありがとうございます。本当に、助けてもらってばかりですね」

「気にするな。俺はそういうポジションだから」



 朝比奈が不満そうに鼻を鳴らす。



「……わかった。だが約束だ。私の目の前で、沙耶に触れるときは必ず確認を取ること!」

「了解」

「あと……鼻ティッシュの件は口外禁止!」

「それは検討しておく」

「検討するなっ!!」


 また響く絶叫。実験室の窓ガラスが震えた。


 姫宮の秘密の影と、王子様の理性崩壊。どっちがバッドエンドのトリガーか、わからなくなってきた。

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