第11話 朱鷺宮紅葉 4
《side 蓮見恭弥》
香澄がクールな表情で「ご命令を」と告げた瞬間、俺はしばし言葉を失っていた。
普段なら「雄!」「首輪!」「マーキング必須です!」と騒ぎ立てるくせに、今は背筋を伸ばし、瞳は氷のように研ぎ澄まされている。
……このギャップ、反則だろ。
「……お前さ、普段との温度差ありすぎじゃね?」
「いえ。わたくしは常に同じです」
「嘘つけ。いつも腰振りながら紅茶持ってくるやつがどの口で」
「それは演出です。ご主人様を和ませるための」
「和ませ方がセクハラ寸前なんだよ!」
思わず突っ込んだ俺に、香澄は小さく肩を揺らした。笑った……。
いや、これも「わざと」だ。
「ご安心ください。任務遂行時は、ふざけません。ですが」
「ですが?」
「オフの時間は、全力でご主人様をからかいます♡」
最後にハートをつけるな。さっきまでのプロモードを返せ。
「ハァ……、本当に俺が朱鷺宮家に乗り込むって言ったら、お前は止めないんだな?」
「止めません。むしろ推奨します」
「推奨!?」
「はい。愛する女性を守るために決断できる雄は、最高に尊い。わたくし、涙が出そうです」
目元を押さえて「ヨヨヨ……」と泣き真似を始める。おい、今度は舞台女優モードかよ。
「お前、本気なのかふざけてるのかどっちだ!」
「両方です」
即答。迷いなし。
俺が頭を抱えると、香澄はスッと近づき、紅茶のカップを差し出してきた。
その仕草は妙に丁寧で、ほんの一瞬、俺の手に触れた指が冷たくて……でも確かに頼れる気がした。
「ご主人様」
「……なんだよ」
「今夜から作戦会議をいたしましょう。司も呼びます。朱鷺宮家に乗り込むための準備、完璧に整えます」
なんで俺よりもお前の方が、やる気に満ちているんだよ。
「作戦会議って……スパイ映画じゃないんだぞ」
「必要です。衣装、台詞、証拠資料。全部整えましょう」
「台詞まで!?」
「ええ。ご主人様は、紅葉様を助ける主人公です。練習は必要ですよ」
そうだな。俺は紅葉を助けると誓ったんだ。
「……なぁ香澄」
「はい」
「お前が一番、俺のこと分かってるよな?」
「当然です。だって、わたくしが、恭弥様専属のメイドですから」
胸の奥が熱くなった。普段ふざけてばかりの彼女が、こうやって真面目に「俺の味方だ」と告げてくれるのは……正直、心強すぎた。
「……ありがとな、香澄」
「感謝の言葉、しっかり保存しました。後で十倍にして請求しますね♡」
「やっぱり台無しだよ!!」
俺の絶叫に、リビングの天井が小さく響いた。
でも、不思議と気持ちは軽くなっていた。
リビングのカーテンを閉め切ると、妙に空気が重く感じる。
テーブルの上には香澄が広げた数枚のファイル。
分厚い革張りの表紙に、彼女の几帳面な字で「朱鷺宮関連」と記されている。
「……なんだこれ?」
ちょっと怖い。
俺が問うと、香澄は艶っぽい笑みではなく、冷えた目をしていた。
普段のふざけた調子は欠片もない。
「すでに調べは終わっています」
低く落ち着いた声。背筋が自然に伸びた。
香澄は椅子を引き、俺の隣に腰を下ろす。耳元へ顔を寄せ、吐息がかかるほどの距離で囁いた。
「朱鷺宮家の現当主、紅葉様のお母上は、表向きは叔父に従っているように見せています。ですが実際には……」
言葉を切り、香澄は俺の目をまっすぐに覗き込んだ。
「詳細をここで漏らすのは危険です。ただ一つ言えるのは、叔父を追い詰める糸口は、すでに手中にあります」
胸がどくんと鳴った。香澄がこんな真剣な表情をするのは初めて見た。
「恭弥様」
香澄は身を引き、姿勢を正して言う。
「紅葉様を助けるために、この作戦を実行いたしますか? それとも見なかったことにいたしますか? 今ならば、何もしないで無視することもできるでしょう」
その声は、試すようでもあり、願うようでもあった。
俺は拳を握りしめる。頭の奥に紅葉の涙がよみがえる。
彼女を救えるかどうかは、俺の覚悟にかかっている。
「……やる。紅葉を助けるためなら、俺は乗るよ。その作戦に」
言葉を吐き出した瞬間、胸の重石が少しだけ軽くなった気がした。
香澄の口元が、ほんの少しだけ緩む。だがすぐに冷徹な笑みに戻り、頷いた。
「承知しました。では、作戦会議を始めましょう」
そう告げられた瞬間、空気がさらに張り詰める。
テーブルの上に置かれた分厚いファイル。革張りの表紙が妙に重々しい。
香澄は白い指先でページをめくりながら、真顔で口を開いた。
「作戦の骨子は単純です。朱鷺宮家に正面から乗り込み、紅葉様との結婚を申し込みます」
「いきなりプロポーズするのか?」
「はい。そんなことで相手が認めるとは思わないが?」
「叔父殿の横暴を公的に暴きます」
「公的に……って?」
分厚いファイルが開かれれば、そこには数字や写真が記されている。
「紅葉様の叔父様は、破天荒なようです。犯罪者紛いのことをいくつもされております。さらに紅葉様のお母様にも内緒な資産の流れ。それらの証拠はここにある程度は揃っています」
僕は香澄の言葉にドキッとさせられる。
淡々と語る声は、普段の「雄!首輪!」と騒ぐ香澄と同じ人物だとは思えない。
横目で見上げれば、眼差しは鋭く、本気であることが理解できる。
こんなものをどうやって調べたのか? それも気になる。
だが、それよりもこの事実で紅葉の家をメチャクチャにしていいのか悩んでしまう。
「つまり、叔父を悪者に仕立てるのか?」
「仕立てるのではありません。事実を整えて提示するだけです」
言い方が妙に引っかかった。整える……?
香澄はわざとらしく紅茶を一口啜り、カップを置いてから続けた。
「紅葉様の母上がどうして叔父の申し出を受け入れたのか? いくら雄が尊くても限度はあるのです」
「うん?」
香澄にしては、何を言いたいのか曖昧にしていた。
「紅葉様の母上様も、叔父殿に従いたいわけではありません。ということです。ですが立場上、声を上げられない。そこを支える味方が必要なのです」
「母親を味方に……」
「ええ。彼女を守る盾があれば、紅葉様を縛る鎖は一気に脆くなるでしょう。叔父殿だけを狙い撃ちます」
言いながら、香澄の口元がかすかに笑った。
その笑みが冷たくて、ぞくりと背筋が震える。
「ただし——」
香澄はファイルの一枚を指で叩く。音が妙に重く響いた。
「これはあくまで裏の作戦です。実行するには時間と労力がかかります。……ですが、ご安心を」
「ご安心って?」
「恭弥様の表の作戦が上手くいけば何も問題ありません」
わざとらしく伏せるような言い方。
俺が眉を寄せると、香澄は肩をすくめて小悪魔みたいに囁いた。
「けれど詳細は、まだご主人様には早いかと。覚悟を決めてからでなければ」
挑発。試すような視線。
俺は息を吸い込み、拳を握った。
「……分かった。表の作戦だろうが裏の作戦だろうが、全部やる。紅葉を助けるためなら」
俺の言葉に、香澄は満足げに目を細め、深々と一礼した。
「承知しました。では、まずは表の作戦を遂行するための舞台を整えます。ご主人様は、堂々と、格好良く立っていただければ十分です」
格好良くって……そんな簡単に言うなよ。
けれど、香澄が一瞬だけ見せた「裏」を匂わせる笑みが、胸の奥に刺さって抜けなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます