第7話 これは仕方ない

 広い校内を歩いていても、迷わないのは、恭弥の記憶だろう。


 

 大学にやってきた目的は、紅葉を見つけて彼女を攻略することだ。


 他の子のフラグを立ててはいけない。




 そう心に刻んで、俺は廊下を最短で抜けるルートを選んだ。



 視線は床、足取りは忍者。


 女子の群れは視界の端にだけ入れて、なるべく存在を消す。



 視線を感じるが、こちらから接触しなければ、向こうも近づいてこない。



 完璧だ。




 ちょうど階段の踊り場に差しかかった時だ。



「きゃ、きゃっ……あ、あれ? メモ、メモ落ち——わっ、わわわっ!」



 上から紙吹雪。



 次いで分厚い専門書の雪崩。



 そして、女の子が降ってきた。



 瓶底みたいに分厚いレンズのメガネ。

 もっさりしたパーカー。

 毛先が寝癖でふにゃっと跳ねたアホ毛。


 地味っ子王道セット。



 そんな女子が目の前で、足をもつれさせながら階段の縁でスローモーションに入った。


 上の段→空中→下の段。


 連続ヒット確定。物理的にアウト。



(いやいやいや、俺は助けない! 助けないからな! ここで受け止めたら絶対イベントが起きるだろう!!)



 脳内会議は即時否決。身体が勝手に動いた。



「危ない!」



 自分でも驚く速度で駆け上がり、反射的に彼女の腰を抱え込む。



 教科書がドドドッと俺の肩と背中に直撃、紙が舞い、インクの匂いが鼻に刺さる。



 ふわっ……と、柔らかい感触が胸板に当たった。



(やばっ……クッション性能、良すぎ!?)



 視界の端で、彼女のパーカーの胸元が大主張しているのが見える。



 いや、見るな俺。物理が悪い。ニュートンと縦揺れが悪い。



「ひゃ、ひゃいっ!? す、すみませ……あの、落下……いや、つまり、失礼しました!」



 早口すぎて何言ってるかわからんが、無事ならOKだ。



「大丈夫か? 足、捻ってない?」

「だ、だい——」



 彼女の瓶底メガネは曇っていて、俺の顔がよく見えていないらしい。


 咄嗟に服の袖でレンズを拭いている。



 レンズがクリアになった瞬間、彼女の瞳孔がギュッと縮んだ。



「…………………………え」



 沈黙。次いで、踊り場の手すり越しにいた女子たちの囁きが一斉にバフ盛りで積み上がる。



「見た? 今、抱きとめた……!」

「心肺蘇生……じゃない、姫抱っこだよね!?」

「接触、接触、接触ォォ!!」



 姫抱っこ……いや、ギリ片腕サポートの救助だ。法的にも健全。多分。



「と、とにかく、立てる? 手、貸す」

「て、て、てっ、手を……? こ、こちらが先に、あの、質量保存的に支えきれないのはワタシの」

「落ち着け。深呼吸」



 手を引いて立たせる。近い。近いって。彼女の前髪が俺の顎に触れてこそばゆい。


 パーカーのフードからシャンプーの匂い。柑橘系かな? メガネの奥の目は大きくて、震えてて、なんか小動物感がすごい。



「ありが……とう、ございます。わ、ワタシ、ドジで、階段の段差が……段差で……」

「はい。深呼吸!」

「はっ、はい! で、ですよねっ! ですよね!? 段差、段差ですもんね!」



 会話が迷子だ。可愛いけど。


 そういえば、倒れ込んだ時に押し当てられたクッション性能は抜群だった。



 女子の胸を触ったのは初めてで、まだ手に感触が残っている。


 それに距離が近いせいで、やたらと存在感を主張してくる。



 ずっと俺の胸と彼女の胸が当たっていて、俺は目線を必死に上に固定した。



 今、下を見たらダルダルのパーカーの胸元が丸見えだ。



 ……上、上、天井。どうだ、俺は紳士だろ。



「っていうか大丈夫? 本当に怪我ない?」

「は、はいっ! この、胸板、じゃなくて、えっと、胸板ありがとうございましたっ!」

「胸板にお礼を言うな」



 彼女の頬にじわじわ赤みが広がっていく。


 耳までぽわっと真っ赤になって、パーカーの中の胸が息に合わせて上下して、いや見るなって。努力はしてる。してるけど、視界の端が勝手に裏切る。



「ご、ごめんなさいっ! 重かったですよね!? 体積的に! いや、でもパーカーがふくら」

「大丈夫。怪我なかったなら、拾い物しよう。ほら、ノートばら撒けてる」

「あっ、はいっ!」



 二人でしゃがみ、散らばった紙を集める。



 俺が一枚取るたびに、彼女も一枚。近い距離で手がかち合って、ピタッ。



「ひゃっ」



 反射で手を引っ込めた彼女が、慌てて頭を下げる。



「すみませんすみませんすみません!」

「謝らなくていいって。俺こそ勝手に手出して——」

「て、手を出した……(ドキ)」

「いや、その意味じゃなくて」



 廊下の視線がさらに熱を帯びた。遠巻きにスマホを構える影が数人。


 やめろ、切り抜きやめろ。


 今日からの大学ライフがサムネで終わる。



「撮影はご遠慮ください!」



 司も周囲への女性に対して警戒をして、彼女と俺には対処できない。



 背後で司の低い声が飛んだ。


 いつの間にか背中にぴったり張り付いて盾になってくれている。


 SPスキル「威圧(対女子限定)」が発動したのか、スマホが一斉に下りる。



 優秀。


 

 紙を全部拾い終えると、彼女は胸の前で大事そうに抱えた。


 ……その、抱え方が、どうしてもハイライトを強調してしまうわけで。理不尽だ。重力が悪い。



「ありがと、ございます。ワタシ、理工の——」

「自己紹介は教室でいいよ。急がないと遅れる」

「あっ、授業っ! そ、そうだ、遅刻、遅刻は減点、出席」

「落ち着いて。階段、ゆっくり降りよう」



 俺が先に一段降り、手すり側を空けて彼女を促す。彼女はおずおずと足を踏み出し、すぐ引っ込めた。



「ど、どうしました?」

「す、すみません……あの、その……」



 彼女はメガネのブリッジを指で持ち上げ、震える声で呟く。



「わ、ワタシいま、気づいてしまって……」

「え?」

「あなた、その……」



 こくり、と喉が動く。目の奥が、さっきまでと全然違う焦点の合い方をし始めた。



「男のひと、ですよね?」



 ……おっと。踊り場の空気が一瞬にして変わる。周囲の女子たちが、息を呑んで一歩、また一歩と後ずさる。希少種を前にした野生動物の群れみたいに。



「う、嘘……生体雄……」

「図鑑でしか見たことない……」

「触れた……触れてた……指先に情報が……」



 やめろ。どんな図鑑だよ。


 彼女は両手でノートを抱えたまま、よろよろと一歩下がった。メガネの奥で瞳がぐるぐる回っている。明らかに過負荷。CPUが焼けるやつ。



「だ、大丈夫か? 水、飲む?」

「みみみ、水より酸素が……いや酸素は吸ってる……じゃあ電解質? いや、ちが、ちがっ……その、えっと……その……」



 彼女の視界がふわっと泳ぐ。額に汗が滲み、頬は真っ赤。鼻先も赤い。なんか危ない。



「ちょ、座ろ——」

「し、失敬しますっ!」



 宣言と同時に、彼女は両手で胸(とノート)をぎゅっと抱きしめ——そのまま、ふにゃりと膝から崩れ落ちた。



「ちょ、ちょっと!?」



 慌てて支える俺。再びクッションが胸に当たって、お前はまたか! いや今はツッコミ後回し!



 彼女のまぶたがぱたりと閉じる。口元は小さく開いて、かすかに規則正しい呼吸。どうやら完全に気絶。卒倒していた。



「……」

「…………」



 階段に静寂。すぐさま、



「尊死っ……」

「わかる……」

「いいなぁ……」



 嫉妬と羨望が混ざった呟きが雨のように降る。やめて。俺が悪いみたいになるだろ。



「恭弥様、ご指示を。医務室に搬送いたします」



 司がすっと横に回り、抱き上げやすい体勢を作ってくれる。プロか。



「お、おう。軽く頭打ってたらまずいし、念のためな」

「承知。なお、クッション性能に関しては記録済みです。香澄姉さんが喜びます」

「記録するな!!」



 彼女をそっと抱え上げる。軽い。……いや、軽さの感想は口に出すな。色々と火種だ。


 腕の中で、彼女が小さく寝言を漏らした。



「……男のひと……ほんとに……いたんだ……」



 俺はため息をひとつ。踊り場の視線が、熱を持ったまま背中に突き刺さる。



(……予定外にもほどがある。助けるつもりなかったのに)



 でもまあ、仕方ない。落ちる人間を見て、手を伸ばさないほど、まだ俺はゲーム脳にはなれないらしい。



「医務室、急ぐぞ」

「了解。道を開けろ、雌ども」

「言い方ァ!」



 司の一喝で人波が左右に割れる。俺は地味っ子をしっかり抱きなおし、階段を一段ずつ下りていった。



 人助けだ。これは仕方ないだろ!

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