ヨーロッパにおける市場法制史

ヨーロッパにおける市場法制史(1/4)

■ 概要


ヨーロッパの市場法制史は、古代地中海世界の物々交換に始まり、ギリシアのアゴラやローマのフォルムにおける市場制度を経て、中世の領主的特権市場・ギルド制を形成し、近世絶対王政期には重商主義と結びついた強力な国家統制へと展開した。その後、啓蒙思想と産業革命を背景に近代的自由市場が理念化され、20世紀以降は恐慌や大戦を契機として規制市場が確立する。ヨーロッパ市場法制史は「自由と統制」「特権と規制」の往還を通じて現代的国際市場の法的秩序へと連続している。



■ 1. 物々交換期


●1.1 社会的基盤としての物々交換


ヨーロッパ市場法制史の最も原初的段階は、貨幣がまだ存在しない、あるいはごく限定的にしか用いられていなかった「物々交換期」に求められる。この段階の取引は、村落共同体や氏族社会の内部で、余剰生産物を融通し合う形で行われた。農耕を営む集団が穀物や果実を提供し、牧畜を行う集団が家畜や乳製品を差し出す、といった形である。


ホメロス叙事詩に描かれる英雄時代のギリシアでは、財産は牛の頭数で計測され、交換や支払いも牛を基準として行われていた。これは貨幣的概念が未発達な時代に、社会的信認を得た財が交換の基準となったことを示す。古代ケルト社会でも、鉄製品や家畜が交易の中心となり、交易はしばしば祭祀や戦争と不可分であった。


このように、物々交換は単なる経済行為ではなく、共同体の秩序を維持し、互酬関係を再生産する手段であった。したがって、市場法制史的にみれば、この段階からすでに「規範」が存在しており、それは慣習法や宗教的権威を通じて取引を統制していたといえる。


●1.2 宗教的儀礼と交換


ヨーロッパにおける物々交換は、しばしば宗教儀礼と結びついていた。古代ケルト人は神への供物として牛や穀物を捧げることで共同体の結束を確認したが、その供物が余剰として配分されることは事実上の交換行為に相当した。また、ギリシア世界ではアポロン神殿など宗教的空間に人々が集い、物品の交換や交易が行われた。


宗教儀礼は単に精神的行為ではなく、取引の安全性・正当性を保証する役割を果たした。神に誓約を立てて行う交換は、詐欺や不正を防止する法的性格を持っていた。のちに古代ギリシアのアゴラやローマのフォルムで、司法と市場が一体化する基盤は、こうした宗教的交換慣行に根ざしていたと考えられる。


●1.3 価値の尺度と擬似貨幣


物々交換の不便を解消するため、牛・塩・金属片などが価値尺度として用いられるようになった。とりわけ「塩」はヨーロッパ全域で広く交換価値を持ち、ローマ時代には兵士への給与(salarium)の語源ともなった。これは貨幣が出現する以前から、社会的に信認を得た財が交換の基準として制度化される過程を示している。


鉄器もまた重要な役割を果たした。鉄器文化を担ったケルト人は鉄剣や鉄斧を価値財として交換し、これが広域交易の基盤をなした。これらの財は、貨幣的機能を部分的に果たした「擬似貨幣」として、市場秩序を形成していた。


●1.4 集会と市場の萌芽


物々交換はやがて、特定の日時と場所に人々が集合する「集会」と結びつき、そこから市場の萌芽が生まれた。古代ヨーロッパでは、祭礼や戦士の集会が開かれる際に物資の交換が行われ、それが恒常化することで市の原型が成立した。


例えば、ギリシアのアゴラは当初、共同体の政治・宗教的集会の場であったが、次第に物資の取引も行われるようになった。また、ゲルマン社会においても、部族集会において物資交換が行われ、それが市(Markt)の原型となった。これらの市場はまだ国家的法制に組み込まれてはいなかったが、共同体的規範と宗教的権威に支えられた秩序を持っていた。


●1.5 市場法制史上の意義


ヨーロッパにおける物々交換期は、法典化された制度市場には至っていないが、すでに以下の要素が芽生えていた。


1. 社会的信認に基づく「価値尺度」の形成(牛・塩・金属器)。


2. 宗教的儀礼や首長権威による取引の監督。


3. 集会や祭礼と結びついた「市」の原型。


4. 互酬的規範に基づく秩序維持。


これらの要素は、古代ギリシア・ローマにおける貨幣経済と市場制度の基盤となり、中世の市場秩序へと連続していくことになる。



■ 2. 代用貨幣期


●2.1 代用貨幣の登場背景


ヨーロッパにおける市場法制史をたどると、物々交換期の不便さを克服するために、社会的に広く信認された財が「価値尺度」として利用される段階が現れる。これが「代用貨幣期」である。取引において双方が望む物資を一致させなければならない「二重の欲求一致」の問題を解消するために、保存性・可搬性・分割可能性に優れた財が選ばれ、地域ごとに独自の代用貨幣として機能した。


ヨーロッパは地理的に多様で、北方の牧畜社会と南方の農耕・海運社会が共存していたため、代用貨幣も多様な形を取った。家畜、塩、布、金属片などが代表的であり、これらは単なる生活必需品を超えて、社会的に交換価値を帯びた「準貨幣」として制度化されていった。


●2.2 牛・家畜を単位とする価値体系


古代ギリシアでは、ホメロス叙事詩に見られるように、牛が財産の象徴であり、交換価値の基準となった。武具や奴隷の価格も牛の頭数で換算されたことは、牛が「一般的価値尺度」として機能していたことを示している。北欧やゲルマン社会でも同様に、家畜は財産評価と支払いの基準であった。婚資や賠償金も牛や馬を単位として定められ、部族法典に記録されることもあった。


このように、家畜は経済的財産であると同時に、社会的・法的価値を持ち、契約や訴訟においても参照されることがあった。これは代用貨幣が単なる交換財を超えて、法的規範の中に組み込まれていたことを意味する。


●2.3 塩の貨幣的機能


ヨーロッパにおける代用貨幣で最も普遍的なものの一つは「塩」であった。塩は人間と家畜の生命維持に不可欠であり、保存・運搬が容易であるため、長距離交易に適した財であった。ローマにおいては、兵士への給与が塩で支払われたことから「サラリウム(salarium)」という語が生まれ、これが今日の「サラリー(給料)」の語源となった。


アルプス以北では塩の供給が限られており、ザルツブルク(「塩の城」の意)のように塩の産地が都市の繁栄を支えた。塩は時に専売制の対象となり、国家や都市共同体の財政基盤となった。中世フランスの「ガベル(塩税)」はその典型例であり、代用貨幣的財が法制度と結びついた最も顕著な事例の一つである。


●2.4 布・金属片の利用


農業・牧畜に基盤を置く地域では布や織物も交換の標準として利用された。北欧やゲルマン社会では、布が婚資や賠償金の支払いに用いられ、社会的評価の基準となった。布は軽量で保存可能であるため、広域交易にも利用された。


また、鉄や銅などの金属片も代用貨幣として流通した。ケルト人は鉄器を豊富に生産し、それを武具や農具として利用するだけでなく、交換財として取引した。鉄は分割可能であり、価値の安定性を持つため、貨幣的性格を帯びやすかった。これらの金属片は、のちの鋳造貨幣への移行を準備するものであった。


●2.5 部族法典における代用貨幣の痕跡


ゲルマン法やケルトの習俗に見られるように、代用貨幣は法的にも重要な役割を果たした。婚資や賠償金(ヴェルギルト:人身損害賠償)は牛・馬・布・金属で規定され、共同体秩序の維持に用いられた。これは代用貨幣が単なる経済的手段にとどまらず、法的制度の中に組み込まれ、社会秩序を担保する規範として機能していたことを示す。


●2.6 金属貨幣への移行の契機


代用貨幣は有効であったが、地域差や保存性の問題を抱えていた。牛は移動や維持に不便であり、布は摩耗し、塩は地域によって入手格差が大きかった。これらの限界を克服するために、より普遍的で安定的な価値を持つ金属貨幣が登場することになる。紀元前7世紀、小アジアのリディアで鋳造貨幣が発明され、すぐにギリシア都市国家に普及した。これにより、代用貨幣は歴史的使命を終え、貨幣経済移行期へと道を開いた。

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