【Episode17】偶像という存在

本に埋もれた自室。積み上がった背表紙の隙間から、薄い埃の匂いが漂っていた。

柊は机に広げた資料をひとつひとつ重ね直し、書き込みの跡を眺めては短く息を吐く。

喉の渇きを覚え、カップに手を伸ばしたが、中身はすでに冷め切った空気しか残っていない。

机の上には読みかけの本と、付箋の挟まったノートが散らばっている。

その景色はいつものことだが、今夜は不意に息苦しく感じられた。


椅子を引き、階下へ向かう。

廊下を抜けると、光と音がこちらに押し寄せてきた。

リビングの蛍光灯は明るく、テレビの音声が壁を震わせるように響いている。

自室の沈黙から一転して、ここには俗っぽい熱気があった。


ソファには利沙と美優が並び、膝にクッションを抱えたまま画面に見入っている。

画面には人気アイドルの熱愛報道。フラッシュの光に目を細める当人の映像、揺れるファンの悲鳴、そして「交際発覚!」「裏切り?」といった大きなテロップ。

賑やかなBGMがかき立てる動揺と興奮が、部屋の空気そのものを震わせていた。


「……ショック。ファンだったのに」

美優が肩を落とし、唇を尖らせる。声には本気の落胆が滲んでいた。

利沙はそんな様子を横目に、宥めるように笑ったが、やはり視線は画面から離れない。


柊は冷蔵庫に向かう途中で足を止め、画面を立ったまましばらく眺めた。

群衆の熱狂がテロップと映像に切り取られ、喜びや悲嘆が見世物のように編集されていく。


利沙がこちらに気づき、やわらかい笑みを向ける。

「柊さんがテレビを見るなんて、珍しいですね。知っている芸能人だったんですか?」


柊は短く答える。

「いや、知らない」


「そうなんですか」

利沙は頷き、また画面へと目を戻す。その仕草は、彼の存在を一瞬の通過点にしたかのように自然だった。


柊は冷蔵庫から飲み物を取り出し、蓋をひねる。

炭酸の弾ける音が、賑やかなテレビ音声の合間に微かに混じった。

何も言わずにその場を離れると、リビングの明るさが背後に遠のいていく。


廊下を抜け、玄関に差しかかったとき、扉の鍵が回る音が響いた。

戻ってきたのは凌だった。制服姿のまま鞄を肩にかけ、靴を脱ぎかけている。


柊は立ち止まり、軽く声をかける。

「おかえり。この時間に珍しいね」


凌は視線だけをこちらに向け、短く返した。

「ただいま。兄さんもね」


言葉は交わしたが、そこに温度はなかった。

靴を脱ぐ凌の横を柊はすれ違い、互いに背を向ける。


扉を閉じた瞬間、家のざわめきは壁の向こうに沈み、再び紙の匂いと沈黙だけが柊を包み込んだ。


***


屋敷の大広間。高い天井に柔らかな光が落ち、整列した椅子の上に信者たちが腰を下ろしている。息を潜めるような静けさの中、前方に立つ瑠見へと視線が集中していた。


柊は壁際に立ち、微動だにせずその様子を見つめている。


ヴェールで顔を覆った瑠見は、すっと一歩前に進み出る。

その動作だけで、場の空気が揺れた。

声は澄み、広間の隅々にまで均等に届く。


「道はひとりで歩むもののように見えても、実際には多くの人が支え合って織りなされています」


言葉は穏やかだが、確かに聴く者の胸を打ち抜く強さを持っていた。

信者たちは無意識に背筋を伸ばし、息を合わせるようにわずかに姿勢を正す。


「不安や迷いを抱くことは、決して恥じることではありません。それを抱えたままでも、人は前へ進むことができるのです」


声は柔らかい祈りにも似て、同時に厳かな宣告のようでもあった。

誰もが「自分に語りかけられている」と錯覚する。

柊はその様子を観察する。信仰の熱狂ではなく、言葉そのものに人を従わせる稀有な力を認めざるを得なかった。


「ここに集ってくださったこと、それ自体が大きな力です。互いの存在が、未来への証となります」


瑠見の瞳がゆるやかに巡り、一人一人と確かに視線を交わす。

触れられた者は皆、心の奥を照らされるように頷き、涙をにじませた。


「どうか、ご自身の歩幅を大切にしてください。その歩幅で、隣を歩く人を見失わないでください。互いを認め合うことで、道はやさしく広がっていきます」


沈黙が落ちる。

次の瞬間、広間の空気が揺らぎ、信者たちの間から波のように深い礼が捧げられた。

嗚咽を堪える者、目を閉じる者、すべてがひとつの響きに包まれていく。


瑠見は変わらぬ微笑を湛えたまま、静かに一歩退いた。

柊はその横顔を眺めつつも、終始表情を動かさず、視線だけを正面に据えていた。


広間を出ると、静かな廊下が待っていた。

信者たちの気配が遠ざかり、残されたのは柊と瑠見だけだった。


瑠見は歩調を緩め、隣を行く柊に視線を寄せる。

「……どうでしたか、今日のわたしは」


柊は正面を見据えたまま、淡々と答える。

「よく通る声だな、と思ったよ」


「まあ」

瑠見は小さく笑い、扇のように手を広げてみせる。

「声だけでなく、言葉の力でも、あなたを巻き込めればいいのに」


「それは難しいな」

柊は肩を竦め、短く返す。


「では……」

瑠見は足を止め、少し首を傾けた。

「あなたと一緒に歩む未来を語れば、少しは耳を傾けてくださるのかしら」


言葉が落ちて、廊下にわずかな沈黙が生まれる。

柊は視線を逸らさず、ただ短い間を置いた。


やがて、軽く息を吐き、あっさりと受け流す。

「…どうかな」


瑠見はくすりと笑みを深め、再び歩みを進めた。

二人の足音だけが、静かな屋敷の奥へと響いていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る