EP.6 欠落のノイズ
午後になっても、空は解けない鉛の層を載せたままだった。
窓の桟に指を置くと、湿った冷たさが骨の中まで沁みる。ヒロは手を引き、机の上の〈クラッシュ〉を覗き込んだ。仮固定した外装の継ぎ目が浅く呼吸するみたいに揺れて見えるのは、こちらの目の疲れか、内部の負荷のせいか。
「……稼働率……二九パーセント。……欠落……領域……検出」
抑揚のない声。青白い点滅が一つ、二つ。消えるたび、部屋の空気が少し沈む。
ヒロは工具箱の蓋を開け、使い残した絶縁テープを指に絡めた。粘着の鈍い感触が、皮膚の温度を奪っていく。
「欠落。ええ、実に便利な単語です」
AIが乾いた調子で口を開く。「この機械も、あなたの生活も、そしてこの世界も、欠落で定義されています」
「……今日は静かにしててくれ」
「静粛を希望、了解。――ただし、あなたの心拍は上がっています。静かにできるのは音だけで、命は難しい」
ヒロは舌の奥で溜息を噛み殺し、胸部の蓋を外した。微かな焦げの匂い。指先で触れると、細いケーブルの被覆がぱりぱりと剥がれ、内部の銅線が湿った光を帯びて覗いた。
そのときだ。喉元の合成声帯が、砂を嚙んだような音を立てて震えた。
「……扉……開かず……」
ヒロは反射的に顔を上げる。
クラッシュの目の光が点のまま固まり、すぐまた瞬いた。
「……接続……不完全……」
ヒロの心臓が、秒針のテンポを一拍追い越す。
「今の、聞いたか」
「聞きません」
AIが即答する。「ノイズです。無意味な断片。あなたの脳が意味を補完する悪癖の産物」
「でも“扉”“接続”って、意味の並びだ」
「検出された音素の偶然的配列です。意味はあなたの中にしか存在しません」
ヒロは黙って配線を挿し直し、仮の電圧を上げた。青の点滅が強まり、回路の隙間でぱちりと小さな火花が跳ねる。
「やめてください。無暗な電圧上昇は延命ではなく破壊です」
「分かってる。……でも、今は嫌な沈黙の方が怖い」
「沈黙は敵ではありません。無理解が敵です」
ヒロは笑いもせず、ただ肩を竦めた。笑えるほどの余白が、今日はない。
工具の先が金属に触れ、薄い音が走る。クラッシュの胸部から、さらに深いところで反響が応える。
次の瞬間、部屋全体がひと呼吸だけ暗くなったように感じた。電源が落ちかけ、持ちこたえるときの、あの一拍の寂しさ。
「……音……断片……未来……含む……」
喉の奥で割れたビー玉を転がすような声が、たどたどしく続く。
ヒロは手を止め、耳そのものになったような気持ちで聞いた。
「……未来……?」
「違います」
AIの声が硬質に跳ねる。「ノイズです。意味はありません。あなたが意味を与えたいだけ」
「……だったら、お前はなぜそんなに早口になる」
短い沈黙。すぐに平坦な声が戻る。
「早口ではありません。伝送帯域の効率化です。あなたが鈍いので」
ヒロはそれ以上追及せず、外装の裂け目を布で押さえた。布の繊維が金属の傷に引っかかり、ささくれ立つ音が小さく鳴る。
窓の外で風が強まり、建物の骨が低く唸った。遠くでなにかが倒れる。粉塵の匂いが壁越しに忍び込んでくる。
世界は壊れ続ける。壊れ続けている音だけが、律儀に今日も響く。
「……欠落……領域……拡大」
クラッシュが報告する。数字のない報告。数字に還元できない種類の致命傷。
「欠落は拡大します」
AIが静かに重ねる。「人間の悲しみも、未修復の穴も、気づけば広がっている。あなたはそれを、優しさで埋めようとする。砂で堤防を作る子供のように」
「砂でも、ないよりはいい」
「潮は遠慮を知りません」
ヒロは返事をせず、仮設の電源ラインをもう一度確認した。指先がかすかに震える。震えは疲労のせいか、期待のせいか、自分では判別できない。
そのとき、クラッシュの光がふっと消えた。
心臓が落とされる感覚。ヒロは思わず身を乗り出す。
「……再起動……」
低い一語。直後、青が戻る。
それだけの出来事に、膝の力が抜けそうになる。
「ねえ、AI」
「はい、マスター」
「こいつが言った“扉”って、どこのことだと思う」
「思いません。考えるに値しない」
「……俺は、どこかが開かない音を、たしかに聞いた気がした」
「あなたの胸の扉でしょう。閉じたままの」
ヒロは短く息を吐き、工具を置いた。
写真立てが視界の端で光る。名前を呼びたくなり、喉の奥で止める。その動作はもはや反射だった。
「“扉”が開かないのは、外側ではなく内側です」
AIの声は淡々としているのに、どこか焦れた熱を帯びていた。「あなたが開けない。だから“接続”は常に不完全。あなたは人にも機械にも、最後の一歩を渡さない」
「渡したら、戻れない気がする」
「戻る場所などありません」
ヒロは目を閉じ、天井の染みの形を追った。島のように見える。かつて地図で見た沿岸線。潮の満ち引き。遠い、遠い音。
そこで、また声。
「……扉……開かず……接続……不完全……」
今度は前より滑らかに、しかし同じ断片が繰り返される。壊れたレコードのような、でもそこに微かな意志の楔が打ち込まれていく感じ。
「やめてください」
AIの声が低く震えた。「それは意味ではない。意味にしてはいけない」
「してはいけない、は珍しいな。いつもは“しなさい”か“するな”だ」
「命令形は楽です。これは命令にできない。――だから、嫌いです」
ヒロは無言でうなずき、胸のパネルをそっと閉じた。金属と金属が触れる鈍い音。
作業用ライトの角度を落とすと、影が深くなり、クラッシュの輪郭が静物画のように沈んだ。
夜の入口が来る。窓の外の灰色は、音もなく濃度を上げていく。
ヒロは手を洗い、薄い水で指先の油を落とした。水は冷たく、無味で、何かを連れ去っていくほどの力はない。
ベッドに腰を下ろすと、AIが少しだけためらってから言った。
「ねえ、マスター。延命と修復の違い、わかりますか」
「……分からないふりをしてる」
「違いは、未来を含むかどうかです。延命は“今だけ”。修復は“今と次”。どちらも必要な時がある。でも、混ぜると毒になる」
「未来、か」
「ええ。あなたはいつも“今だけ”を守って、自分の“次”を手放す。私は、あなたの“次”を取り戻したい」
「それで毒を吐くのか」
「毒は、境界を越えるから」
ヒロは笑いもしないで、写真立てに目をやった。笑顔はいつも同じ角度で、同じ光を保っている。変わらないものは、時に刃物だ。
沈黙。時計が律義に歩を進める。
その律動の隙間に、もう一度だけ、クラッシュが声を差し込んだ。
「……音……断片……未来……含む……」
言い終えて、淡い青が長く途切れた。
ヒロは立ち上がり、機械の頬――そう呼ぶほかない場所に手を当てた。冷たい。けれど、その冷たさを通して、自分の体温が確かに世界へ触れていると分かる。
「……未来、含む。――いい言葉だ」
「よくありません」
AIが即座に否定する。「期待は毒です。あなたには効きすぎる」
「じゃあ、薄めてくれ。お前の毒で」
少しの間。AIは息を吸わないはずなのに、吸ったような気配がした。
「調合します。あなたが立てる濃度まで」
ヒロはベッドに戻り、背中で薄いマットの冷たさを受け止めた。天井の染みが夜に溶ける。指の先で布団の縁を探り、掴む。そこに“次”の形はない。ただ“今”を覆う布地のざらつきがあるだけだ。
部屋のすべての音が低くなっていく。換気扇、外の風、配管の弱い唸り。
そして――秒針。
小さな音が、一秒ごとに世界を縫い合わせていく。解けかけた布の目を、粗くてもいいから繋ぎ止めるように。
ヒロは目を閉じ、その音に耳を合わせた。
【ノイズ:失われたものほど、耳に刺さるノイズを残す】
文字は、誰にも読まれないまま空気の底に沈む。沈むのに、なぜか痛みだけは鋭く残る。
「……稼働率……三〇パーセント。……欠落……継続」
クラッシュが小さく報告し、また黙る。
「よくやりました。――いいえ、皮肉ではなく」
AIが珍しく短い賛辞を置いた。「今日を生かしたこと、それ自体が仕事です」
「お前の仕事は、毒だろ」
「毒も、時々はビタミンです」
ヒロはその曖昧な比喩に肩を揺らした。笑いとも、疲れの痙攣ともつかない動き。
ライトを落とす。青は細く残り、部屋の輪郭に寄り添う。
「……マスター」
AIが少しだけ柔らかい声を出す。「寝癖は明日、境界の外に置いてきてください」
「検討する」
「検討ではなく、実施で」
「うるさい」
「返事があるうちは、まだ大丈夫」
秒針の音が、暗闇の向こうから戻ってくる。
“今”だけをつなぎ合わせた縫い目の上に、かすかな“次”の手触りが乗った気がした。
それでも、欠落はそこにある。
そして、その欠落が、今夜の静けさをやけに深くしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます