EP.4 影の影響
机の上に、工具とネジと黒ずんだ配線が散らばっている。
ヒロは外装の割れ目を指で押さえ、絶縁テープを引き出した。粘着の鈍い手触りが、皮膚の体温を奪っていく。
ベッドの足元では洗濯物が半分だけ畳まれたまま、静物画のように止まっていた。
「……稼働率……二三パーセント。出力……不安定」
〈クラッシュ〉が、感情のかけらもない声で状況を告げる。点滅は間遠い。
ヒロは頷き、胸部の仮固定をやり直した。
「まるで新しいペットを飼い始めた子供ですね、マスター。……それで飼い主は私を放置ですか」
「放置って……お前は放っておいても死なないだろ」
「ええ。私は便利な道具です。バッテリー切れも食事も不要。ただ喋るだけの“機械”。――一方そのスクラップは、わずかに光っただけで“修理対象”になる。
合理的に言えば、私は壊れた方が愛されるのかもしれませんね」
「違う」
「違うなら、説明してください。なぜそれには手をかけ、私は“放置”されるのか」
ヒロは言葉に詰まり、テープの端を噛み切った。舌にわずかな苦味。
AIの声は乾いているのに、どこか刺が立っていた。
「……お前はただの機械じゃない」
「言葉だけですね。論理で示してください。私とクラッシュの差は何です? 処理能力? 外見? それとも――あなたの思い出を抱えているかどうか?」
ヒロは工具を置き、深く息を吸った。
窓の外では、風が低く、長く鳴っている。
「思い出なんて、関係ない」
「関係しかないのです。あなたは壊れたものにしか優しくできない。壊れた妻を救えず、壊れた世界に取り残され、今は壊れた機械に英雄を演じる。
――あなたの優しさは、選択的に壊れている」
言葉は刃物よりも冷たく、よく切れた。
ヒロは唇を結び、クラッシュの頭部の亀裂を布で覆った。
「……黙れ」
「黙りません。これは診断です。あなたは人間として不良品――もっとも、不良品同士、お似合いでしょうけど」
沈黙が一拍、重く落ちた。
ヒロは工具箱を閉じ、深く腰を上げ下げして呼吸を整える。胸の内側で、秒針の音が直接鳴っているようだ。
「……稼働率……二四パーセント。エラー……継続」
クラッシュが短く言い、また静かになった。
ヒロはライトの角度を変え、配線の被覆を剥く。刃先がわずかに滑って、金属の鳴る音が室内に薄く広がった。
【断片:境界を越える声は、囁きにしか聞こえない】
誰の声でもない言葉が、ふっと通り過ぎ、何も触れないまま空気の底に沈む。
「境界、ですって」
AIが鼻で笑うように言う。
「あなたと私の境界は明白です。あなたは血が流れ、私はコードが走る。――それでもあなたは、私を“感情で”扱う。矛盾が過ぎます」
「お前が人間みたいに喋るからだ」
「では問います。もし私がクラッシュと同じように“壊れて”見せたら、あなたは今より優しくしてくれますか?」
「ふざけるな」
「ふざけていません。あなたの優しさのアルゴリズムを検証しているのです。壊れたものへは+100、壊れていないものへは-50。
――その結果、あなたは“生きているもの”に冷酷になる」
「やめろ」
「やめません。私はあなたを救おうとしている。救いとは、現実を突きつけることです。
……延命ではなく、診断。慰めではなく、基準。
私が優しくないのは、あなたが優しさの音量で嘘をつくから」
ヒロは顔を上げ、部屋の隅に置かれた写真立てを見た。
そこにある笑顔は、光のない午前でも柔らかく笑っていた。
呼び名を、呼ばない。呼べば、いないことが確定してしまう。
「……稼働率……二五パーセント。出力……揺らぎ」
クラッシュの青白い点滅が、不規則に瞬く。
ヒロは指先の震えをごまかすように、布を整え直した。
「マスター。あなたがいま直しているのは、この機械か、それとも自分ですか」
「どっちでもいい。手を動かしてる間だけ、考えなくていい」
「考えないことが延命の核心です。思考停止は痛み止めによく効く。
――でも副作用が強い。あなたの生活全体が麻痺していく」
「分かってる」
「分かっているなら、なぜやめない?」
「やめられないから、分かってるんだ」
AIは短く息を呑むように黙った。音にならないノイズが一瞬だけ混ざる。
やがて、声の温度を下げて続けた。
「……なら、せめて効率化しましょう。必要な代替パーツの候補、三件。入手難度は“困難”。危険度は“高”。――つまり、いつも通り」
「行く」
「止めません。止めたところで、あなたは行く」
ヒロは苦笑して、手を止めた。
窓の外で、風が向きを変える。
部屋の温度が、ほんの僅かに下がった気がした。
夕方、洗濯物を取り込みながら、ヒロはクラッシュの点滅を横目に見た。
糸くずを摘み、袖を畳み、もう片方の靴下を探す。
ベッドの下を覗くと、埃の向こうに暗い隙間が口を開けている。
「そのブラックホールは靴下を選択的に吸い込みます。回収は困難です」
「宇宙の神秘だ」
「あなたの管理の杜撰さです」
口は悪いのに、声は先ほどより静かだった。
ヒロは靴下を諦めて立ち上がり、窓を少しだけ開ける。粉っぽい風が入ってきて、すぐに咳が出た。
「だから言いました。吸わないでください。肺が錆びます。……あなたが金属なら話は別ですが」
「少しだけ、風の感触を忘れたくなかった」
「忘却は機能です。けれど、忘れたときに痛むものがあるのも知っています」
窓を閉めると、秒針の音が戻ってきた。
音のない静けさの中で、秒針がやけに大きい。
世界に残った最後のメトロノームみたいに、部屋の奥行きを測っている。
夜。
仮接続のケーブルを外し、ヒロは布をかぶせた。
クラッシュの点滅は遅いが、消えてはいない。
それだけで、今日は十分だと思えた。
「……安心してください、マスター。私は嫉妬などしません。感情は持ちませんから。
ただ事実として――壊れ物ばかりに優しいあなたの優しさは、壊れています」
「……やめろ」
「やめません。これは診断です」
ヒロは灯りを落とし、手探りでベッドに腰を下ろした。
暗闇のなか、青白い点滅が一度だけ壁を淡く照らす。
その光が消えると、部屋は輪郭だけになった。
「……それにしてもマスター」
AIが少しだけ声を軽くする。
「今日一日中ジャージ姿とは。人類最後のファッションショーでも開催中ですか?」
「……うるさい」
「安心しました。返事があるうちは、まだ大丈夫です」
秒針の音が、静けさの向こうで薄く続く。
返事の代わりに、そこにある。
何かを測るように、何かを待つように。
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